5-3 ソウル・ブースト
「――――は?」
抜き放たれた剣が、ニルスがいたであろう場所、その喉元の位置を通過する。
けれどすでに、ニルスはそこにはいない。
切っ先が肌をかすめる程度の距離に身を引き、彼は杖を握っていた。
左足を踏み込みながら、身体の右側へ振りかぶった杖で、横薙ぎするようにラグナの胸元を痛烈に殴打する。
――ブンッッッ……バギィィッッッ!
「あぐっっ……ぎぃぃぃぃ――っっ!?」
そのスイングもさることながら、予備動作すらラグナには見えていなかった。
まして、それがどれほどの威力かなど、予想できるはずもない。
(馬鹿なっ……馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿なぁぁぁぁっっ!)
身体全体を打ちすえ、はじき飛ばそうという攻撃ではなかった。
ただ一点のみを叩き、その部分だけに風穴をうがとうとする――いわば、刺突を思わせる強烈な殴打だ。
すさまじい衝撃に胸を貫かれ、身体を痙攣させて動きを止めたラグナは、そのままガクリと膝をつく――いや、つかされる。
「あ……がっ……」
ダメージのせいで身体が動かない。
そのことに気づいたのは、膝をつき、数秒が経ってからだった。
その数秒後、ブルブルと震える手を必死に伸ばし、胸を撫でる。
「な……に、が……ぁ――な、ないっっ!? 馬鹿なぁっ!」
比喩ではなく、けれど身体を貫通するほどではない穴が、胸元に開いていた。
なにかが埋まっていた部分から、そのなにかが失われたような穴だ。
それが、身体に埋め込んでいたソウルトラップの痕跡だと気づいた瞬間、ラグナは蒼白になった顔を上げる。
そして――ニルスと目が合った瞬間、その意識は閉ざされた。
◇
(これは……わたくし、夢でも見ているんですの――)
信じがたい光景、あまりに都合のよすぎる展開は、夢でしかありえない。
あの状況下でリスティアが考えたことの最悪は、ニルスがラグナに殺され、自分は絶望の中で捕らえられ、服従させられること。
次点の最悪は、二人とも殺されること。
自分が死に、ニルスが生きているという状況は、それに次ぐ。
そうした想定される未来を並べ、最良と考えられる展開は、自分が強化されたラグナを切り捨て、その姿に惚れ込んだニルスが求婚してくること。
次点は――自分がかなわなかったラグナを、ニルスが叩きのめすことだ。
(そんなこと、起こるはずがありませんのに……)
人間が影騎士に勝てるはずがなく、しかも魔法使いが、影騎士ですらかなわない能力となった影騎士に殴り勝つなど、あまりにも夢想がすぎる。
だから、これは現実ではない。
リスティアでも目で追うのがやっとだったラグナの斬撃を、ニルスが余裕を持ってギリギリの回避をし、その胸元を杖で殴りつけ――。
杖のほうが折れてもおかしくないのに、折れるどころか相手が行動不能になるほどのダメージを与え、ソウルトラップを粉々に破壊し――。
そして――リスティアよりも弱い影騎士に戻ったラグナが、使役魔法によって完全に支配され、自分の前に首を垂れているなど、まさに夢物語だ。
「……わたくしったら、なんて愚かなんですの……絶望的な状況に追い詰められたからといって、こんな都合のいい妄想に逃げるだなんて――」
「現実をごらんください、リスティアさま」
「だってありえませんものっっ!」
妄想と会話をするなど、いよいよ末期だ――と、現実逃避しても仕方がない。
本当に二人とも助かったのだとしても、ただ助かっただけではないからだ。
(ともかく、話をしませんと……でも、あぁ……まずは、どこから話せば――)
最初から、いつかは話さなければならないことではあった。
ただ、ラグナがベラベラと得意げに語ったせいで、いまこの場で、すべてを明らかにしなくてはならない。
場合によっては、自分はニルスに殺される。
そして最悪ならば、彼は自分の前から消えるだろう。
自分が殺されることより、自分は生きているのに彼がいない――そんな未来のほうが、考えうるかぎりの最悪だと感じていた。
「――リスティアさま」
「は、はいっ……なんですかしら……」
いずれにせよ、主導権はニルスの手にある。
その彼に名を呼ばれ、リスティアは、どうにか回復した身体をこわばらせた。
そして、彼が告げる。
「ラグナさんの……処断を、お願いします。まだ大丈夫ではありますけど……あまり、時間がありませんので」
「え――あ、ええ……わかり、ましたわ」
ニルスほどの術士であれば、ラグナ程度の捕縛に制限時間などないだろう。
そういぶかしみつつも、リスティアは剣を拾って立ち上がった。
――ザッッ……ドシュッッ……
ただ斬首されるためだけに首を垂れていた、従兄の首を切り落とす。
彼がどんな顔をしているかはわからないが、もとより自分の勝利ではない。
それでも、分家を牽制する必要はある――その首の利用方法を検討するため、ひとまずは適当な布で包み、影の中に放り込んでおく。
「お見事です、リスティアさま――それと、手をだしてしまいましたことを、謝罪させてください」
「……相手が不正な、最悪のドーピングをしていましたのよ。あなたが手を貸してくれなければ、わたくしは死んでいましたわ」
自分を救ってくれた騎士――それも、とびきりかわいくてかっこよくて、強くて賢くてやさしい騎士さまを、どうして責められようか。
改めてその事実を確認し、戦慄すると同時に、心が昂揚する。
(わたくしですら一蹴されたラグナを、ニルスが……これ、下手をしなくても……本当にわたくし、殺されかねませんわね……)
だが――彼が事実に気づき、自分を殺しにかかったとしても、それはそれでと思わなくもない自分がいた。
ニルスがよく、自分に食べられてもいいと口にしていた、その理由がわかったような気持ちになり、クスリと唇が緩む。
(あ……そういえば、そう言ってましたわよね……でしたらわたくし、ワンチャン助かるのではなくて?)
自分の行動が、結果的に彼の望みどおりだったとしたら、ウィンウィンということで、なんとかならないだろうか。
(いや、なりませんわよね……逆の立場だったら、たぶん殺していますわ)
「それで――リスティアさま」
「は、はいっ……なんですかしら」
よけいなことを考えていると、不意に声をかけられる。
居住まいを正して、話を聞こうとするが、回復したばかりの身体はまだ本調子ではなく、リスティアはグラリと身体を傾かせた。
「――っと……」
「リスティアさまっ!」
倒れ伏しそうになった身体を、やさしくフワリと抱きとめられ、ゆっくりと腰を下ろす体勢を取らされる。
「あ、ありがとう……平気ですわ」
「お互いに、ボロボロですね……」
「お互いだなんて……ラグナを一蹴しておいて、よく言えますわ」
動けず、絶望の中で見ていた戦闘において、ニルスは手傷はおろか、ラグナとの接触さえ皆無だった。
そんな彼が、ボロボロなわけがない。
ローブにも、探索中についた土埃程度の汚れしかないのだから。
けれどニルスは、そんなリスティアの言葉に、力のない笑みを浮かべた。
「いえ、実際は……そろそろ、意識が飛びそうで」
「――冗談でしょう?」
「それが、冗談では……なく……」
「ニルスッ――」
その言葉と同時、かたわらにひざまずいていた彼が倒れ込んでくる。
抱きしめるように支えたその身体は軽く、いかにも人間の――年若い、魔法使いの少年といった感触だった。
「……し、死んではいけませんわよ……気をしっかりお持ちなさい」
「ご、ご安心ください……死にはしません、ちょっと疲れただけで」
この状況で、まさか嘘や強がりを言ったりはしないだろう。
彼の言を信じ、ホッと安堵しつつ、身体を横たわらせる。
さりげなく、頭を太ももへ誘導することも忘れない。
(……やわらかい髪ですわ……肌もきれい……唇も、プニプニですし……)
「リ、リスティアさま……?」
「あら、失礼――」
髪を撫で、肌を撫でているうち、つい我慢できず唇にまで触れてしまった。
「察するに――ラグナを退けた代償、というところですわね。逆に言えば、命を落とすことなく、よくそれだけの力を得られたとも思いますけれど――」
影からハンカチを取りだし、額や首筋の汗を、丁寧にぬぐっていく。
くすぐったそうに身をよじろうとするニルスだが、本当に身体が限界のようで、困ったように眉をひそめるばかりで、動く気配はない。
そんな彼の姿に、ついよからぬ妄想をしてしまいそうになるが、ふしだらな本能を抑えつけ、なんとか介抱に専念した。
「それで……その力の説明は、いま聞かせてもらえまして?」
「簡単に、ご説明しておきます……といっても、ソウルトラップを使うのと、同じようなことではあるんですけど――」
そう言って彼は、自身にかけた魔法の説明を、口にする。
「……僕の身体に、ここで狩った魔物の魂――というか、そこに含まれていた魔宮の魔力を、一時的に全部詰め込んで、能力を増幅させました」
「………………簡単に説明されすぎて、本気で理解が追いつきませんわ」
まず、やったことの意味がわからない。
他者や自分を強化するたぐいの魔法はあるが、魔力そのものを詰め込んで、能力や機能自体を高めるなど、聞いたことがない。
それに、魔物の魂を――そう言いかけ、含まれていた魔宮の魔力と言い換えた。
「まず――生まれた魔物に、魂があることは理解できますわ。ですが……それと魔宮の魔力を、分離できますの? そもそも、区別できますの?」
「よく見さえすれば、人間の魂でも同じです。その場合は魔宮の魔力じゃなくて、なんだろう……その人の意思と、エナジー……になるんでしょうか」
もっとも、人間の場合は魔力も少なく、それによって増幅できる力など微々たるものであるため、わざわざ分離させて回収したりはしないそうだが。
「……方法も感覚も、まったく考えがおよびませんけれど……ようするに、魔物の魂を排除――昇天させたあと、純粋な魔力だけを取りだせますのね」
「はい……ですから、魔物たちに痛みや苦しみは、たぶんないと思います」
先ほどニルスは、ソウルトラップを使うのと同じような――と言った。
だが、いまの言葉を聞くかぎり、まったく同じとは思えない。
ニルスは第一に、相手の心情を案じている。
魔力渦の魔力によって生みだされた魔物が相手でも、その魔物が痛みや苦悶を理解し、死に恐怖する存在だと考え、それを与えまいとしているのだ。
逆にそれらを煽ろうとするソウルトラップとは、まさに対極にある。
「あなたは、やさしい子ですわ……それで、魔力を詰め込むというのは?」
「はい――魔力と言いましたけど、正確には魔物の能力です。腕力や硬さ、速さに魔力……そういった個別の力が、エナジーとして取りだせた形でしょうか」
逆にいえば魔物という存在は、そうした能力を帯びた魔力が、魔物の人格になる魂と結びつく形で生まれている、ということだ。
再び分離させるという行為が、ミルクティーからミルクだけを取りだすようなものだという事実からは、もう目をそらしておく。
普通に考えれば、できることではない。
「それを、自分の力として……ですが、それだけでラグナを倒せまして?」
仮に、ここで殺した魔物すべてが同時に襲ってきたとしても、リスティアは苦戦しなかっただろう。
それより強くなったラグナであれば、言わずもがなだ。
だが現実として、彼は強化されたニルスにまったく抵抗できず、むしろなにをされたのかもわかっていない状態だった。
「えっと……たとえば、魔物の力が一で、その魔物が一万匹いたとしても、一万の力を持つ相手にはかないませんよね?」
「ええ、当然で――」
そう答えようとした時点で、ニルスの言わんとしていることがわかった。
「それが全部、合算されて僕の力になっていました。ドラゴンも、白蛇も、多くのミノタウロスも……古城にいた、すべての魔物の能力が合計されて」
仮に――そう、あくまで仮に。
それが可能であったとしても、おそらくはまだ、互角くらいではないか。
リスティアの見立てでは、古城内の魔物たちとあのラグナの力関係には、それくらいの差があったように思える。
そんな疑問を見抜いたように、彼は寝ころんだまま、口を開いた。
「それは、僕の身体に詰め込んだから……それだけ力が濃縮されて、瞬間的な爆発力になったんです。もちろん、長持ちするわけじゃありませんので――」
そこまで言ったところで、うっと小さなうめき声が聞こえる。
「ニルスッ……ほ、本当に、大丈夫ですのっ? 死にませんわよね?」
「死にません……魔力は、もう抜いてありますから……ちょっと痛くて、意識が飛びそうなだけで――」
「それ大丈夫じゃありませんわっ!」
彼は嘘は言わない――けれど、過小評価はよくある。
ちょっと疲れて、ちょっと痛いというのはおそらく、すごく疲れていて、すごく痛いという意味だ。
「嫌ですわよっ、ニルスッ……さっきから、わたくしが聞いてばかりで……わたくしも、話さなければいけないことがありますのにっ!」
「だ、大丈夫です……本当です……ちゃんと、起きますから……」
「っ……約束、ですわよっ……」
そうしておかなければ、ニルスが消えてしまう気がして――リスティアは強く、彼の手を握りしめていた。
ニルスがいなくなるなど、想像しただけで背筋が寒くなる。
かつて彼は、命が尽きても自分に仕えると、そう約束してはくれたが、それは近いうちにという話ではない。
「では……リスティアさまに安心してもらうために、ひとつだけ――」
「無理に話さなくていいですわ、おとなしくしていらっしゃい……」
いたわるようにそう伝えるが、彼はおだやかに微笑み、口を開いた。
「僕も、リスティアさまと相性がいいようなので――だから、わかってます」
「なっ――」
虚を突くようなそのひと言に、リスティアは瞠目し、息を詰まらせる。
すぐに言葉の真意を問おうとしたが、それは叶わない。
直後、彼の瞳はゆっくりと閉じられ――。
やがてスースーと、おだやかな寝息が聞こえてきた。
もうこれで終わってもいい。




