エスターとウ=ス教の異本
昨夜のうちに、嶺衣奈ちゃんが来たけれど。
夜明けごろにジーラと一緒に里の中を見て回ったそうだけど、あまりにも風景が変わり過ぎてびっくりした事でしょう。
トラップの解除ついでに、建物という建物はすべて解体しましたからね。
おかげでトラップの使い方がよく分かったような気がします。
「それは収穫だったのですが……」
ジーラがエリントシーカーで迎えに行ったのは、嶺衣奈ちゃんがアミュレットを使ったからでしょう。アミュレットは一回限りの使い捨てですが、転移魔法を封じ込めてあるのです。
転移先は、水神に渡したものと同じでクバツにある私の屋敷… の裏庭です。
彼女が別荘に着いたのは午前2時ころだそうです。
よほど急ぎの用事でもあるのでしょうか。
屋敷から連絡を受けたジーラが、さっそく動いたのですから。
さもなくば、屋敷で一泊してからの移動になるでしょう。
「ひょっとして、発作が出た?」
彼女の心臓は、あまり良いコンディションとは言えません。
オネエの処方した薬で、良くなってきましたけれど、まだまだ完治には至っていないのです。この段階で発作が出るような事があれば、今までの治療が無駄になりかねません。
彼女は、亡くすには惜しい人材。
どういう訳か知らないけれど、辛丑の役で時空間の変動があった時に、別次元にいた嶺衣奈ちゃんが同じ場所にいたのよね。
その結果、両方の世界の記憶を持った2重存在になってしまったわけで。
「でも、肉体的にはちょっと……」
「それでも、エスターが思っているより健康です」
まったくこの娘ったら。
そういう訳で、何があっても天寿を全うしてもらわなければなりません。
2重存在となった彼女の精神キャパシティは、普通の人の倍できかないのです。
もっとも本人は自覚していないようですけれど。
「うちのメイドに比べたら充分にひ弱ではなくて?」
「騎士団長に素手で稽古をつけるメイドと一緒にしないでください!」
そんな事がありましたの?
ちら、とジーラに視線を向けると…
「…………」
すい、と視線をそらされてしまったわ。必ずしもジーラではないにせよ、誰かが何かをしてしまったのかも知れませんね。
それはあとで話をするとして、嶺衣奈ちゃん。
やっぱりあなた、身体の調子が悪いのではなくて?
「それだけ青白い顔色をしていて健康な訳があって?」
「これは…… 寝不足なだけです」
それだけではないでしょう?
「去年の秋に、数量限定で発行された書籍がございまして」
ジーラが、何があったのかを教えてくれた。
どうしても手に入れたい本があったのね。
著者はどなたかしら。
私が知っているお方なら、こっそり手を回しても良かったのですけど……
「鮑野ひらき…… 全巻手に入ったから、もういいんです」
照れくさそうな顔をして、かわいいこと。
ふぅん、謎の覆面作家… それはそれで興味が湧きますね。
私の記憶にはありませんけれど…… んっ?
『サブシステム。データーはある?』
分からないときは、知っている人に聞くのが一番です。
この身体には超空間通信機が内蔵されていますから、月面基地とリアルタイムに通信が出来るのです。こういう曲面なら使わない手はありませんね。
私の記憶が確かならサブシステムは知っているかと……
『確かに知っている。嶺衣奈の言う著作物のデーターも蒐集済み』
『情報をくれる? 概略でいいわ』
『マスターシステムは真面目だから、知ると不幸になるかも』
『いいから回して頂戴』
ここまでに費やした時間は、たったの10ミリ秒。
ほんの瞬きするくらいの時間ですが……
「ぶっ…… げほっ、げほ……」
むっ、むせた……
まさか嶺衣奈ちゃんがこんな本を読むとは思わなかったから、油断したわ。
なるほどねぇ…… 嶺衣奈ちゃんも、ちゃんと年頃の女性してたのね。
「嶺衣奈ちゃんったら。少し、頑張り過ぎちゃったのね」
若いって、イイわねぇ。
実際にはジーラが来たので未遂なのですけれど……
まあいいか。




