シルセウスの青薔薇
二人で初めて迎えた春。湖畔での結婚式を控えたある日の出来事です。
ルゥがシルセウスに戻ってから初めての春が巡ってきた。
彼女がこの領主館に来たその日にわたし達は書類上では夫婦になったが、王都での挙式迄はこの婚姻は正式に認められるものでは無い。挙式を一年延ばすというルゥの決意は固く、シルセウスの為と言われては太刀打ちできなかった。何しろルゥは強情なのだ。お陰でわたし達の結婚は未だに非公表のままで、わたしは非常にもどかしい想いをしている。
だからルゥは相変わらず皆の姫様のままだ。館を仕切るラーナが姫様と呼ぶのだから使用人達もそれに倣うのは致し方ない訳で。当人は当惑して眉を顰めるがやはり皆が姫様と呼ぶ。そして戻って来たシルセウスの近衛騎士達もやはり同じだった。
彼等を私兵として迎え入れるにあたり話をした時、わたしはルゥを姫様と呼ぶのを止めて貰いたいと言った。
彼等がルゥを姫様と呼んだのは計画を遂行するのに必要だったからだ。ルゥは自分から監禁されたあの日々を語る事はない。彼女が健康を害したのは粗暴な扱いを受けたからではないのはわたしも理解しているが、辛い記憶である事に間違いはないのだ。少しでもその記憶を呼び覚ますきっかけは取り除きたい、わたしはそう考えた。
「姫様ご自身がお辛いのならば勿論従うまでです」
カイルは躊躇いながらそう切り出した。
「ですが、あの方は我々の姫様です。あの時……王子に本を託しシルセウスを救えと、そして我々に逃げ延びていつか立ち上がったシルセウスを見るようにと仰ったあの方は、紛れもなくシルセウスを愛しむ姫でした。我々はあの時あの方に……姫様に、忠誠を誓った騎士なのです」
もしお許し願えるのならばと言うカイルの縋るような目に、わたしはそれ以上何も言えなくなった。
何故ならかつてわたしも、ルゥが突如として火花のような烈しさで放った凄まじい程の威厳と気高さに気圧されていたからだ。
見くびってはいけない、いつか殿下の手を引いて崖を這い上がってみせると言ったルゥ。あのまばゆいばかりの目がくらむような輝きを彼等も目の当たりにしたのだろう。
驚くべき速さで貴族令嬢として完成されていったのは、生まれ変わる前の記憶を利用しただけだとルゥは言う。インチキみたいな物だから褒められるような話ではないと肩を竦める。
「品位はあっても気品は無いの。あの手のものは付け焼き刃じゃ出てこないからだと思うわ」
だから自分は社交界の華には程遠いとルゥは笑った。ルゥは知らないのだ。自らが持つその烈しい火花を。
ある日わたしはルゥを伴って造成しているローズガーデンの様子を見に行った。白いレースに縁取られた丸襟が付いた木綿の藍色のワンピースは何だかメイドのお仕着せのようだった。足元は踵の低いショートブーツ。ルゥは領内を見回る時には大抵こんな動きやすい服装をする。
順調に育っている薔薇の苗にルゥは顔を輝かせ綻んだ花の香りを楽しみ、そして庭師達の水やりを手伝いながら次々と質問をしている。ルゥは元々薔薇が好きだ。わたしが侯爵家の屋敷を訪ねた時も薔薇の香りに夢中になって、近付いたわたしに全く気がつかなかったほどなのだから。
「前の生には青い薔薇は無かったの。あの世界の薔薇には青い色素が無いからなんですって。青い薔薇を咲かせるのは不可能を可能にするという意味だ、そんな言葉があったくらいなのよ」
いつかルゥはそんな話をしていた。名前にブルーと入っていてもそれは青みがかった薄紫の薔薇だった。それでも他の薔薇よりも爽やかさのあるその香りが大好きで自分でも育ていたのだと。
シルセウスの青薔薇はルゥにとって衝撃だったらしい。初夏の空のようなみずみずしい青い花びらと、その爽やかな香り。それはかの世界で好きだったあの香りに似ているのだとルゥは言う。
『でもね』とルゥは首を傾げる。
「どちらかというと、あの時の私の方があの薔薇から懐かしさを感じていたような気がするの。不思議ね」
シルセウスローズに顔を寄せながらルゥはポツリとそんな事を口にした。
余程夢中になったのか、帰る頃にはルゥは跳ね返った水を浴びて髪をしっとりと濡らしていた。ローズガーデンを後にして丘を登り領主館の門を抜けた所でルゥを馬から降ろし、わたしは厩舎に馬を繋ぎに行った。戻って来るといつもそこで待っていてくれるルゥの姿が無い。珍しく一人で先に館に入ったのかと思ったが、頭上高くから呼び止められ見上げると外壁の哨塔から見下ろすルゥが手を振っていた。
わたしは外壁の梯子を登り急いで哨塔に登った。領主夫人になってからもルゥは相変わらず躊躇なくこういう事をする。いや、王都を離れのびのびとしているせいで一層酷くなったのでは無いだろうか?ルゥにとって梯子はもはや階段と同類でしかないのだ。
ルゥは眼下に広がる風景に目を細めていた。
「エリィ、見て。とても美しいわ。そしてなんて力強いのかしら」
連なる丘の向こうの山並みに夕陽が沈もうとしている。その夕陽が照らすのは力を取り戻し立ち上がろうとしているシルセウスだ。大地を渡る爽やかな風がサラサラと木々を揺らし湖の湖面を金貨を散らしたように輝かせている。ルゥの言う通りだ。シルセウスはなんと美しく、なんと力強いのだろう。
「シルセウス、わたくしの魂の故郷……」
微笑みを浮かべ夕陽を見つめながら、ルゥはそう呟いた。
その瞬間、わたしは再び烈しい火花に彩られた彼女の横顔に息を呑んだ。
こんなにも簡素な装いであるはずなのに、神々しいまでの威厳を纏い凛として気高く佇むルゥを照らす夕陽は、その濡れた髪に冠のように光の輪を浮き上がらせていた。
ルゥの魂は違う生を生きてきたのだと彼女は言う。
それならばその生を生きた魂は一体何処から来たのだろう?
そもそもルゥは何故こんなにもシルセウスを想うのか?まるで永遠に抱くことの無い我が子のように、深く深く慈しむのは何故なのだ?
振り返ってクシャンと小さなくしゃみをしたのは何時ものルゥだった。肩を竦めて両腕を摩りながらこちらに駆け寄って来る。
「風に当たって寒くなったんじゃないか?」
「そうみたい。こんなに濡れて風邪をひいたらラーナに叱られるわ。もう中に入りましょう」
わたしはジャケットを脱いでルゥの肩に掛け、その上から両腕を回して抱きしめた。濡れた髪からはほんのりとシルセウスローズの香りが漂って来る。
「それは困るな。ラーナには今朝もこってりと説教されたばかりなんだ」
「はぁ?……エリィ何をしたの?」
「明日、薔薇の花束を届けるように庭師に頼んで来た。シルセウスでは薔薇の花束を携えて結婚を申し込むのだとラーナに言われて……知らなかったのだから仕方ないけれど、ローズガーデンに行くのなら庭師に頼んで今からでも贈ってはどうかと……」
ルゥは思い当たったのか『あぁ……』と言った。
「昔お姫様に恋をした騎士がプロポーズした時に薔薇の花束を贈ったそうよ。それを真似てそんな慣習ができたのかも知れないわね。でもどうしてラーナに叱られたの?ラーナは知らなかったのなら仕方がないって言ったのでしょう?」
「よくよく考えたら…………わたしはまだルゥにプロポーズをしていないんだ……それをうっかり口にしてしまって……」
「…………」
わたしの腕の中でルゥの肩が小さく小さく震えている。やはりわたしはルゥを傷付け悲しませてしまったのだろうか?強引に妻にした事をルゥは恨んでいるのだろうか?
そんな不安が胸に湧き上がった時、ルゥはケラケラと声を上げて笑い出した。
「そういえばそうね。私、プロポーズされた記憶が無いわ。気が付いた時にはとっくに結婚していたんだもの。それで?遅ればせながらエリィはプロポーズをしてくれるの?私が大好きなシルセウスローズの花束を持って?」
振り返りながら見上げるルゥのしっとり濡れている髪に頬を寄せてわたしは溜息をつく。
「断られはしないかと心配で、今夜は眠れそうにないんだ」
ルゥは……ルゥはケラケラを通り越してゲラゲラと笑い出した。
「多分大丈夫だと思うわ。断ったら薔薇は下さらないのでしょう?」
「ルゥは薔薇の為なら頷くのか?!こんなこと、殿下に知られていなくて助かったよ」
ルゥは拗ねたように口を尖らせたが直ぐにフフンと鼻で笑った。
「そういえば私、殿下にもプロポーズはされていないわね。議会で可決したって陛下に言われただけだわ」
「それなら……」
「残念でした!初めてプロポーズしてくれたのはさんちゃいだったセシル坊やよ。手ぶらだったからお断りしましたけれどね」
「坊やが薔薇の事を知らなくて助かったな……」
わたしは思わず深い溜息を一つついた。
ルゥの魂がいつ何処でどんな人生を送って来たのだとしても、その魂を持ったルゥはわたしの生きる理由だ。
コロコロと笑いながら腕を解こうと脚をばたつかせるルゥを、わたしは一層力強く抱きしめた。
何があってももう二度とこの手から離したりはしないと。
中原由佳里さんは存命中に開発された青いバラの存在は知っていましたが、青薔薇としてはピンとこなかったらしいです。




