クルムの花びら
「ルゥから離れ、わたしは君への想いを断ち切ろうと決めた。殿下に愛されたなら、ルゥは幸せになれると思ったからだ。でもそんなことはできなかった。もがけばもがくほどルゥを想う気持ちに捕らえられていく。まるで業火に身を焼かれるような苦しみで、わたしは思い知らされたよ。たった一人の運命の人を失ったわたしにはもう何もない。わたしはただの抜け殻だった」
私は目を見開きただ黙ってエリィを見つめていた。
「ルゥが連れ去られたと知り必死に君を捜した。でもどんなに手を尽くしても居場所どころか安否すらもわからない。わたしはルゥの無事を信じていたけれど、もしも君に万が一の事があったのならば……その時は自分の命を絶つつもりだった」
「……どういう事!!」
私を見つめるエリィの瞳は落ち着いた優しい光を燈している。それは私に一時の感情の高ぶりで決意したことでは無いと訴えかける物だった。
「ルゥの魂は違う生を生きてきた。この命が尽きた時、その魂はきっとまた新しい生を得るのだろう。それならばわたしは生まれ変わったルゥを探しに行く。そして必ずルゥを見つけ出す」
「そんな……」
「言っただろう?わたしにはルゥがいない世界を生きる理由は無いんだ」
エリィは握っていた手を離し今度は私の頬を撫でながら言葉を続けた。
「わたしを愛せなくても良い。ただ私の隣でルゥが笑っていてくれるなら、それでルゥが幸せだと思ってくれるなら、それでわたしは幸せだ。それがわたしの幸せなんだ。………ねぇルゥ、君一体何故そんなにキョトンとしているの?」
確かに私は事もあろうにこの状況でキョトンとしていた。だって、思ってもみなかったのだ。
私が幸せならそれがエリィの幸せになる??私が貴方の『運命の人』だと言いながら、生きる理由だと言いながら、その私が返すものを持たなくても貴方は苦しまないの?不幸になったりしないの?
「見返りって必要じゃないのかしら?」
「必要ないよ。ルゥはわたしのたった一人の運命の人だ。ルゥが側にいてくれさえすれば、もう何も欲しいものなんか無い」
「そういうものなの?」
見下ろすエリィは微笑んで頷いた。
「私、エリィが色んな意味で大好きよ。エリィと一緒にいるのが楽しいの。それにエリィはシルセウスにとってなくてはならない本当に必要な人だわ。貴方にはシルセウスを蘇らせる能力が有る。私はエリィがシルセウスを豊かにする手助けがしたいの」
「どんな意味でも好きだと言ってくれるならそれで充分だ。『奥方様』になったらルゥはもっともっとシルセウスの再建に携われるよ。むしろその為にも君が必要なんだ。ルゥの着想は素晴らしいからね。わたしを愛せない、もうそれ以外にわたしを拒む理由は無いんだろう?一つくらい妥協したって良いんじゃないか?」
ダメだ、頭の中がこんがらがっている。このままでは丸め込まれそうだ。
「でも……やっぱりこういうのは良くないと思うの。シルセウスの為にエリィを利用するって言っているようなものだわ。私きっと今、シルセウスの為に貴方を選ぼうとしている気しかしないんだもの。良く考えてみて、とっても失礼な話じゃない?」
「ルゥの為なら喜んで利用されるよ。それに領主になったのはシルセウスは君がわたしを選ぶ有力な理由になるからだ。ルゥが側に居てくれれば、幸せだと笑っていてくれたらそれで良い。……だからね、ルゥ?どうして君は今ここでしかめっ面で考え事をするんだ?」
確かに言われた通り私はしかめっ面で考え事をしていた。だって不思議なのだ。
「私に想いを告げる人はいつも苦しそうだった。エリィ、貴方だってそうだったわ。そして私はその気持ちに応えられないのが苦しかったの。誰かを傷付ける度に誰も愛せない自分が恐ろしくて堪らなかった。……でもエリィは、今のエリィだけは幸せになれる気がするの。どうして?」
「さあね。でもルゥの言う通り、わたしは幸せになれる。ルゥは必ずわたしを幸せにしてくれる。何も心配要らないよ。安心して『奥方様』になれば良い」
「でもね……いきなり『奥方様』だなんて……随分と急かすのね?」
その瞬間、エリィはガバッと飛び退いて床に正座をし気不味そうにチラチラと上目遣いで私を見た。つられて弾かれたようにソファに座り直していた私はしかめっ面を深めて訝しげにエリィを見下ろして尋ねた。
「何か隠しているの?」
「……」
「早く言って、何をしたのよ?」
「ルゥは……もうピピル・サティフォールになっている」
「?!」
エリィは開き直る事にしたらしい。正座を止めて跪くと私の手を取って唇を寄せた。そしてご満悦で見上げてきたのだ。まるであの時のように。
「ここに来た日の最後の書類……領主館に滞在する許可の申請って……そう言ったわよね?」
「まぁ、言い方を変えればそうなるだろう?」
「そんなの詐欺じゃない!取り下げてちょうだい。受理されるなんておかしいわ」
エリィは笑った。離宮詣でをしていた頃と同じ、そしてついさっきも見せたあの口を歪ませた意地悪な笑い方で。
「それがね、婚姻届を受理したのはシルセウス領主、つまりわたしだ。ルゥがシルセウスに戻ると決まった時に、何があってももう二度と君を離さないと決意した。あれはその決意が決して揺らぐ事がないようにというわたしの誓いなんだよ。確かに良心が咎めはしたが最終的に手段は選ばないということにした」
「酷い!それでお酒を飲ませたのね!!自分を大切にしなさいって言ったのはエリィなのに……優しさで縛り付けたくないって言ったのもエリィなのに……ここまで酷い言動の不一致なんて聞いたことがないわよ!」
怒り心頭で睨みつける私をエリィは憎らしいくらい清々しく見返した。
「そうじゃない。ルゥの優しさで縛り付けるのではなく、わたしの愛を受け入れて共に生きることを選んでくれるまで永遠に諦めないという決意だ。ということはつまりわたしはルゥの優しさで縛り付けたくはないと思っているだろう?」
「まぁ……そりゃそうだけど……」
何なの?絶対に間違いなく物凄く酷い目にあっているのに反論する気を削がれるこの感じ。なんだかいつの間にかエリィの言うことがあながち間違っていないんじゃないかなっていう気がしてきちゃうじゃない、なんてチラホラ思い始めたその時、そんな私の様子に油断したのかポロリとエリィが口を滑らせた。
「うまくいって良かったよ。朦朧としてもらおうと念の為にクルムの花びらを一枚だけ入れておいた。一枚にして正解だったな。効きすぎてサインする前に眠ってしまうかとハラハラした」
「……………………」
私は黙って立ち上がりそのまま歩いてドアを開け振り向いた。流石に危機を感じたのだろう、青ざめたエリィが顔を引つらせているが構うものか。
私はエリィにされたように表情を和らげて見下ろし、静かに、そしてとても穏やかにゆっくりと宣言した。
「エリィなんか、エリィなんかだいっきらい!」
こうして始まった私とエリィの記念すべき初めての夫婦喧嘩はエリィの平謝りに終始した。
いや、流石にこれは酷いので特大のお仕置き付きだったのは仕方がないと思うの。但し、エリィはちっとも懲りてくれないから年中平謝りをしているのだけれども。
ついでにクリムの効果に驚いたエリィは、領民からクリム茶が飲めなくなるのは困ると懇願されどうするか考えあぐね保留にしていたクリムの栽培について直ぐに条例を出した。
許可を得た者だけが厳重に管理された畑でのみ育てられるようにし、クリム茶は不眠を和らげる薬として領内に限って扱われるようにしたのだ。
でももう二度と飲んではいけないとことある毎に私に言ってくるのは、本当に鬱陶しいと思うのよ。だって、自分から飲もうと思った事なんか一度もないし、それにあれは願わくば二度と口にしたいとは思わない味なんだから。花びら一枚だからってこっそり飲ませた本人に言われる筋合いなんてないのよね。
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エルーシアが執務室に顔を出すとファーディナンドが手にした手紙をぼんやりと眺めていた。そっと近付き手紙を覗き込んだエルーシアはフフっと小さく笑い声を上げた。
「そんなに欲しかったのならばさっさと側妃になさればよろしかったのよ。妹のように可愛がっているあの娘ですもの。わたくしだって喜んで仲良くしましたわ」
「それではあの娘に泣かれてしまうだろう?」
ファーディナンドはエルーシアを見上げ『それに……』と続けた。
「わたしにもけじめと言うものが有るからね。君との約束を反故にはできないよ」
「そのわたくしが構わないと申しましたのに。それなのに貴方はわざわざあの娘を自分の手が届かない所に行かせようとなさるんですもの。そして、とうとう誰かさんのものになってしまったわ」
ファーディナンドは手紙をたたみ封筒に戻した。
「君は本当に強い。そして素晴らしいね。わたしは幸せだ」
「そうね、でもお互い様なのよ」
エルーシアはスルリと封筒を取り上げ裏側に記された名に感慨深そうに目をやった。
「あの娘がサティフォール伯爵夫人とはね。ジェフリーを見直したわ。あの鈍感娘の首をとうとう縦に振らせたんだもの。それにしても、鈍感もここまで酷いとは驚きだわ。まさか自分の気持ちにまで鈍いなんて……どうやら自覚するのはまだまだ先ね。でも仲良くやってくれるのならそれで良いわ」
「いや、禁じ手を使ってしばらく口を聞いて貰えなかったらしいぞ。あれでジェフリーは腹黒だからな」
二人は顔を見合わせると声を上げて笑い合った。




