ツルイチゴ
あれはまだ離宮で暮らし始めたばかりの頃だった。執務机の上にその場にそぐわない一冊の本が置かれているのが目に入り私は不思議に思った。それはかなり読み込まれた様子の少年向けの冒険小説で、何か特別な思い出が有るのかと殿下に尋ねると『私とジェフリーの命綱になってくれたんだよ』という思わぬ答えが返って来たのだ。
「僕達が10歳くらいの頃だったか、兄上が偶然面白い事を見つけてね。ツルイチゴの果汁の染みが日に当てたら消えたというんだ。僕とジェフリーはそれなら何かをすればまた戻るのではないかと色々試してみたんだが、不思議な事に指で擦るとしばらくの間だけ浮かび上がりそしてまた消えてしまうんだ。仕組みは解らないが摩擦熱に反応したんだろうな」
殿下は本を手に取りぱらぱらとページをめくりながら続けた。
「兄上はあまり僕らに会えないのを不満に思っていてね。僕に本を貸すふりをして余白にツルイチゴで書き込みをし、待ち合わせの時間と場所を伝えて来るようになった。僕らも返す本にツルイチゴで返事を書いた。もし中を見られても感づかれないように念には念を入れ素数のページだけに書き込もうと思いついたのはジェフリーだったな。陛下の顔色を伺って僕等と兄上が接するのを良く思わない者達がいたからね」
私は手渡された本を眺め、ページをめくってみたが何の違和感も感じなかった。確かに立て続けに果汁で書き込んだら紙にたわみが出来たりしたのかも知れない。
「蝋燭で炙っては駄目なのですか?」
「そうなんだ、日の光を当てないと完全に消えないし、炙り出しだと何故か出てこない。よっぽど特異な性質を持っているんだな」
光に透かしても何も見えず試しに擦ってみたけれど時が経って変質してしまったのかもう文字が浮かび上がる事も無かった。『僕らはこれを使った』と殿下が持ってきたスプーンの背で擦っても駄目だった。
「それから何年も経ってシルセウスに留学していた僕らに突然兄上が本を何冊か送ってきたんだ。その中に入っていたこの本を見て僕らは危険が迫っていると察した。これは兄上が初めて書き込みをして貸してくれた本と同じ物だったから何か重要な事を伝えようとしていると」
シルセウスに送られてきた荷物は検閲を受ける。本の中も調べられ表紙が剥がされていることも珍しくはなかったという。そこに何かを書き込めば内容はシルセウスに筒抜けになってしまう。検閲をすり抜け危険を知らせる為に陛下はツルイチゴを使ったのだ。
「セティルストリアの動きが決まった、と?」
殿下は頷いた。
「僕らは直ぐに寄宿舎を逃げ出し一旦街で身を潜めた。侵攻軍が城に攻め入ったのはその後直ぐだ。それを見計らって森に入り国境を目指した。全て兄上がこの本で指示してくれた事だ。だからこそ僕らは生き延びる為に逃げた。兄上の想いに応えたくて」
だからこれは殿下とハイドナー氏にとって今でも特別で大切な本なのだ。私は表紙を撫で心の中で感謝の言葉をかけてから殿下に本を返した。殿下とハイドナー氏の命を救ってくれたこの本に。
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ドレッセンのセティルストリア大使館の門番に私の名前を伝え、この本をハイドナー氏に渡して貰うように伝えなさい……私は塔でカイルにそう念押しして指示したのだけれど、あの『おバカさん』達はよりにもよって18名揃って大使館に赴き、私の名前を出した上でハイドナー氏との面会を求めその場で拘束されたそうだ。
どうしてかしら?どうしてそんな大人数で隊列を組んで行くのかしら?そういう事しちゃ駄目って一々指示しないとわからないのかしら?
書きなれないツルイチゴの汁で本に書き込むというそれはもう大変な私の手間を少しは考えて欲しい。私は偏に貴方達を逃がす為に少しでも時間を稼ごうとあんなに苦労してあの本を用意したのですよ!
それに万が一ドレッセンで不審人物として職質?されてこの本が見つかったとしても、ここから足がついたりしないように……私のこの奥深い心配りを無駄にするなんて、いつか絶対にぎゃんぎゃん文句を言ってやるんだから!!
ハイドナー氏は私が本に書き込んだ情報とカイル達からの証言を元に慌ただしく動き出した。セティルストリア同様『白い粉』に悩まされていたドレッセンはこれに関して協力関係にあったので、ハイドナー氏に働き掛けられ次々と証拠を押さえたのだ。
『白い粉』に関する国家間協定を反故にし、巨万の富を得ようと犯罪国家となっていたシェバエバ国内で穀物倉庫に隠されていた『小石』を次々と発見。それによりシェバエバに潜伏していたグラントリーも逮捕された。
「ガリウスの手が何処まで伸びているか、それがわからなかった。ガゼボ迄は来たが君を助け出すのにどの方法を取れば良いのか判断しかねたんだ。そんな時に君の歌が聞こえてきた。それであの避難路は中庭の音が流れ込む事に気付いたんだ。ガリウスが明日こそ迎えに来ると言っていたのも聞き取ることができた」
城に残った見張りの私兵に見つからず塔に辿り着く為に通路を使い私の無事を確認すると、待機していた別部隊が外から城に攻め入って私兵を拘束した。更に殿下達が塔に来るのと同時に領主館にはセティルストリア軍が攻め込みガリウスは逮捕されたという。
「ここ迄追い詰められた状況でガリウスをからかうとは、君の負けず嫌いも相当だな。前に聞かせてくれた時にあれは恋人に想いを伝える歌ではない、そう言っていたよね」
殿下は呆れたように目を細めながら言った。
「よろしいじゃないですか、本人は大喜びでしたのよ?」
「一矢報いたところで、もう死んでも良いと思ったのか?」
答える代わりに私はゆっくりと湖に目を向けた。
「月明かりに照らされて離れていても君の姿がよく見えた。屋根の上をフラフラと歩いているのも。君が目に留めてくれる可能性に賭けて一度だけ灯りを向けた。祈るような思いでね。君が塔に戻ってくれるまで僕らは生きた心地がしなかったぞ」
「よろしいじゃないですか、ちゃんと戻りましたわ」
私は殿下に顔を向ける事なく膝に乗せていた刺繍を手に取った。殿下は知らん顔で手を動かす私の横顔をじっと見ていたが、小さな溜息と共に拗ねたように愚痴を溢した。
「散々心配させられ情け容赦なく振られて、しかもその挙げ句に目の前で別の男のイニシャルを刺繍するのを見せられるなんて、少しは僕の身にもなってくれないか?」
「言い掛かりはおやめ下さい。これにそういう愛は籠もっていないって殿下はよーくご存知でしょう?ハイドナー様はわたくしのせいで寝る間もない程お忙しい思いをする事になったのですもの、これはそのお詫びとお礼の気持ちです。わざわざ紛らわしい言い回しをするなんて、殿下は相変わらず意地悪だわ」
『でも……』と私は首を傾げた。
「どうしてドレッセンはそこまで動いたのでしょう?これは言わばセティルストリアとシェバエバの間に起きた事件でしょう?」
ハイドナー氏に本を託した私は彼がドレッセンを動かすとは全く考えていなかった。ハイドナー氏からの情報によりセティルストリアが動く迄には時間が掛かる。だからアル達を逃がす時間を稼げるが、私の救出には間に合わないだろう、そう覚悟していたのだ。
だがハイドナー氏はすぐさまドレッセンに働き掛けた。その結果大変申し訳ない事に、対策本部に取り込まれ馬車馬のように働いていらっしゃるそうで……わたくし何だか恐縮ですわ。
「いずれ判る、いずれね。確かなのは利益がなければドレッセンが動く事も無かったと言う事だ。そしてジェフリーは上手くそこを突いてあの大国を動かした」
「今は教えて下さらないの?」
殿下はまた私の頬を摘んで笑った。離れている間、余程ほっぺたロスだったのかしら?何かといちいち摘まれ撫でられ、大忙しの私のほっぺた……正直ちょっと痛くなってきた。
「ここに肉を乗せて王都に戻ったらな」
殿下は摘んだ手を離し、やっぱり頬をするりとひと撫でし名残り惜しそうに手を引いた。
「伝える間も無かったが……君の花嫁姿は美しかったよ」
「アシュレイド侯爵家のメイド達の渾身の作品ですもの、当然です。我ながら鏡を見て誰かしらと思いましたわ」
殿下はフンと鼻で笑った。ホントに意地悪……睨んでやろうと顔を上げた私は思わず殿下に手を伸ばした。何故なら殿下のその頬を、一筋の涙が伝っていたから。
「上手く行かないものだな。僕は君を愛している。そして君も命を投げ出す程僕を想ってくれている。それでも僕等は苦しめ合ってしまうなんて……」
殿下はそっと私の肩を抱き寄せた。
「君は立ち直れると言うけれど、やっぱり僕は君を失うのは辛いんだ。自信満々の君には悪いが、君に死なれていたら僕はどうなっていたかわからない。君が生きていてくれて良かった。君はもう隣に居てくれない、それだけでも淋しくてたまらないのに」
「ごめんなさい殿下…………わたくしが悪いのです。あのですね……わたくしはよっぽど足りない人間のようなのです……じゃなきゃこんなの、おかしいわ」
「なんだって?」
殿下はぎょっとしたように身体を離し訝しげに私の顔を覗き込む。今度は何を言い出すのか言わんばかりに。
「殿下の言わば未発達な情緒は矯正できましたけれど……そう言うわたくしこそ足りないのです。きっと生まれる時に大切な物を忘れてきてしまったのですわ」
うん、多分前世に……だな。
「わたくしは殿下が好きです。でもご承知の通り違う種類の『好き』なのです。どうしてでしょうか?」
「……それを僕に聞くとはね」
私は刺繍を脇に置いて殿下の頬を両手で包み、しげしげと眺めながら首を傾げた。おかしい、やっぱり私はおかしい。
「だって、こーんなに綺麗なお顔の殿下がわたくしのように平凡で地味な女を想って下さるのですよ?それだけで本来なら恋に落ちるってものでしょう?」
「そ、そうなのか?」
私はブンブンと上下に首を振った。
「しかも普段は冷たいくせに時々とっても優しくて、心配性でヤキモチ焼で、でも照れ屋さんだなんて……ホントにチャーミングだわ」
「そういうものなのか?」
私は大きくこくんと頷いた。
「その上優秀で物知りで音楽にも造詣が深くて。そうかと思えばもふもふが好きで子どもも好き。キュンとして然るべきポイントも押さえていらっしゃる。殿下が王弟殿下なのを差し引いてもこんなに素敵なんです。そしてわたくしもそんな殿下が好きなのです。でも肝心の『好き』にはならない……」
突然殿下は私の手を振り払って飛び退いた。
「やめなさい!……き、君はっ、僕を呪い殺す気か?!無意識なままそうやって僕の心臓を締め上げるんじゃない!」
「へ?」
「へ?じゃない!それにいい加減自分の価値を自覚しなさい。どこが平凡で地味だ。聖堂に入って来た時一斉に溜息が漏れたのが聞こえなかったのか」
「溜息?お義父様が泣かないかとハラハラしていて周りを気にする余裕なんてありませんでしたもの。そもそもね、殿下……花嫁姿すら綺麗だと言われない女性って、ここだけの話、相当なものですわ……」
殿下は額に手を当て俯いてがっくりと肩を落とした。もう何も言うまい、と言わんばかりだ。まぁいい、大人しくなってくれたから伝えたかった事が話せるもの。
「とにかくわたくしには恋愛感情というものが足りないのです。きっと人を愛する事ができない未完成な人間なのですわ。つまり相手が悪かったのですから、殿下は自信を持ってさっさと立ち直られたら良いのです。大丈夫、次に殿下が好きになった方はよっぽどの事が無い限り殿下を愛して下さいます。だって殿下はとっても魅力的ですもの」
「一応聞くがよっぽどとはどんな事だ?」
「うーん……恋人か婚約者か、あるいはだんな様がいらっしゃる、とか?」
「素晴らしい忠告だね、心から感謝するよ……」
「あっ、そうそう。もう平民はお止め下さいね。二度目ともなると周りへの説得に手こずりますわ。殿下の年齢的に御婚姻は急がれた方が……。それから音楽を嗜まれる方なら別の楽器じゃないと。殿下、お耳が良いのですもの、うっかり口を滑らせて比べるような事を言ったらいけませんしね。馬術に長けていらっしゃるとか、そんな感じの活発な御令嬢がよろしいのではなくて?是非ともわたくしとは違うタイプになさるべきです」
『だぁーっ!』という殿下の謎の悲鳴に打ち切られ、私のせっかくのアドバイスは宙に浮いてしまった。
「木登りどころか屋根の上で歌を歌う君が何をほざく!もういい、何も言うな。とにかく肉を、肉を付けろ。このこけた頬の肉だけじゃない。肩もゴツゴツして折れそうじゃないか。肩にも肉だ。身体中にたっぷり肉を付けて早く王都に戻って来るんだ。いいね!」
殿下は肉、肉と喚きながら両手で私の両頬をぐにぐにとこねくりまわし、言うだけ言うとくるりと背中を向けて出て行った。
そしてこれが婚約者としての私達の最後の別れとなった。




