妖精ピピルの春の歌
一瞬の静寂の後、騎士達がざわめきまた剣の切っ先が私に向けられた。だがアルは右手を上げそれを制してから私に向き直った。
「どういう……事ですか?」
「ドレッセンのハイドナー様にこれを……あの方はそれで全て察し、シルセウスを救う為に動いて下さるはずです。そうしたら貴方達はできる限り遠くまで逃げなさい。セティルストリアの手が及べば国家反逆罪で裁かれ恐らく処刑は免れない。私は貴方達を死なせたくないの」
それから、と私は続けた。
「テラスの上のバルコニーとテラスから繋がる階段は簡単に崩れると思うわ。ここを発つ前に使えないように壊して。そうすれば下から上がれないでしょうから」
「……何を言っているのです?」
口を引き結び険しい表情で私を見たアルの手を取り本を握らせ、私は塔を見上げた。
「私は塔に戻ります」
「……」
「城に掛けられるだけの鍵を掛けて行ってね。一人でのんびりしたいもの。誰も塔には入って来られないように、お願いね」
崩れ落ちるように膝を着いたアルは小さく首を横に振りながら懇願するかのように私に縋り付いた。
「貴女を置いてなど行けません。逃げるのならば貴女を連れて行く」
「アル……」
私も膝を付いてアルの背中に腕を回しゆっくりと摩る。
「私が一緒に逃げれば彼等は追って来る。私にはもうそれを振り切るだけの体力は無いの。とても一緒には行けないわ。彼等は貴方達を追うよりも残った私を利用してファビアン殿下を潰す事を優先しようとするはずよ。だからその間に逃げなさい。そしてシルセウスを救うのよ。わかったわね?」
「できません!!それならば貴女を連れて逃げます。必ず逃げ延びる。だから一緒に……」
アルは私の腕を振り払い立ち上がると私に手を差し出した。でも私にはもう立ち上がる力はないのだ。
「アル……一時の感情に流されては駄目よ。貴方が王家の血を継ぐ者としてシルセウスを思うのならば、何よりもシルセウスを救うことを選ばなければならない。そしてその復興を遠い空の下から見届けなさい。いつかシルセウスは必ず立ち直る。だから貴方は、貴方達は必ず生きて……」
騎士達が一人、また一人と動き出した。やがて彼等は一人残らず私に向かい跪き頭を垂れていた。これで大丈夫、と私は安堵の溜息をついた。彼等は私の想いを受け入れてくれた。戸惑うアルを連れ、きっと私の願いを叶えてくれる。
私の肩にフワリと何かが掛けられた。誰かの上着だ。振り向くと気まずそうに咳ばらいをするカイルがいた。……カイルはもう一度咳ばらいを繰り返す。
私はカイルに小さな小さな目配せを送った。
一瞬の間を開け腕を伸ばすとカイルは素早く私を抱き留め抱え上げて走り出した。咄嗟にアルも走りだそうとしたがいち早く反応し飛び掛かった騎士達に羽交い締めにされる。それを振り払おうと暴れながらアルは叫んでいた。私の名前を……
突然私の前から姿を消してから、決して呼んではくれなかった私の名前を……
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「本当によろしいのですか?」
カイルに尋ねられた私は笑った。
「そうじゃなきゃ、こんな騒ぎにするものですか」
「まったく……とんでもない姫様だ……」
憮然とする様子が可笑しくてケラケラ声を上げて笑うと、カイルは呆れたように溜息をついた。
外では頼んだ通りバルコニーや階段を破壊する音が聞こえている。かなり劣化していたのだ。あっという間に作業は終わるだろう。その間にあーるつーを運んだ騎士が固いパンや干し肉等の日持ちのする食べ物を運び込んでくれたので、今更だが名前を教えて貰ったら『アルツ』だという。余りのかぶりっぷりに堪え切れず涙を流して爆笑してしまい、平謝りに謝る事態となった。ごめんなさい、名前を笑ったりして。そして呆れて漏らした溜息は二つに増えた。
外の作業が済んだという報告が来てカイルとアルツはドアに向かう。アルツは一礼し先に外に向かった。続いてノブに手を掛けたカイルは振り返り私をじっと見つめ、また咳ばらいをした。
「姫様……やはり連れて逃げろと命じては下さらないのですか?」
私は座っていたカウチから立ち上がりカイルの側に歩いていく。カイルは心配そうに私の足取りをじっと目で追っていた。
「私はここで待たなければならないの。いつか王子様が迎えに来るのをね。そうしたら幸せにできる人がいるのよ」
「……?」
「それよりも、ラーナの事をお願いします。ラーナね、違うって言うんだけれどきっと右膝が痛むの。無理しないようによく見張って頂戴ね」
わかりましたと答えつつ、王子様の話は理解できなかったであろうカイルはノブから手を離しいぶかしげに私を見ていた。
「ね、カイル。アルに伝えて欲しいの。プレゼントをありがとうって。まだお礼が言えていなかったから」
「だがそれは……」
「もう私は一人でも怖く無いから」
私は胸元からチェーンを引き出した。その先に付いているカットガラスの美しい小瓶、それがアルから届けられたプレゼントだ。私が欲しがった、致死性の高い毒物。
「何があっても私は誇りを守る事ができる。感謝しているとそう伝えて……」
カイルは黙って跪き胸に手を当てた。忠誠を誓った主にのみ行う騎士の礼……カイルは気づいたのだろう。これが本当は私自身の命を断つための物だということを。私はカイルに右手を差し出しカイルはそれを手に取り唇を寄せた。
「カイル・ロードソンに命じます。必ず生きて、そしてシルセウスの復興を見届けなさい」
ハッと一声口にし立ち上がったカイルと視線を交わし私はカイルが出て行くのを見送った。ドアの向こう側に鍵を掛ける音が響き、カイルの足音が遠ざかって行く。
アルはどうしただろう?後頭部に手刀を入れられたか、それともみぞおちかな?暴れて誰かに怪我をさせていないと良いけれど。
私はフラフラとベッドに倒れ込んだ。この身体で下まで降りたのだからもう体力は限界だった。身体がずっしりと重い。でもそれ以上に瞼が重かった。そうか、すっかり忘れていたけれど、これは睡魔だ。私、眠くて眠くてたまらないのだわ。
抗わずに目を閉じた。そして忽ち深い深い眠りに落ちて行ったのだった。
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目が覚めた時にはもう夕陽が赤く塔の中を染めていた。こんなに熟睡したのは久し振りで疲れもすっかり和らいでいたので、バスルームでシャワーを済ませ着替えをした。篭城しているというのに水だけじゃなくお湯が使えるのは本当に恵まれている。裏山から湧き水と温泉を引いているからだとラーナが言っていた。下の階に行かないと火が使えないので、もう暖かい物は口にできないしお茶も淹れられないけれど、お陰で飲み水に困らないだけではなくお風呂も入れるし洗濯だってできるのだ。
アルツは日持ちのする食糧の他に数日分の柔らかいパンや新鮮な果物も用意してくれていた。けれども眠ることはできてもやはり食欲は無くて、苺を少しだけ食べるのが精一杯だった。ラーナに強請ったツルイチゴはその名の通り蔓状の植物で赤い実は酸味が強く本当は好きではない。ジャムだったら大好きだけれど。でも当然私が好んでいると思い込んだのだろう、籠に山盛りにして置かれていた。
私は窓辺に行き窓を開けた。待ちかねたように小鳥が飛んできてピィピィと鳴き始める。窓枠にツルイチゴを並べて置くと嬉しそうに啄んだ。
「喧しいわね。小鳥の声が掻き消されてしまうじゃない」
そう独り言を言いながら視線を向けた城壁の外には取り囲んでいるガリウス伯の私兵が見えていた。思ったよりも早いお出ましだ。夜になって明かりの点らぬ城を見てから気がつくかと考えていたのだ。予想していたよりも見張りの数が多かったのか……彼等は無事に国境を抜けられただろうか?
城壁の外には堀が有るがその橋も跳ね上げられている為に彼等はその前で右往左往していた。ここにこれだけの数を集めているということは、王子一派が何らかの理由でガリウス伯に反旗を翻し籠城していると捉えたのだろう。それならば私の思惑通りなのだけれど。
私は窓から屋根に向かって縄梯子を降ろした。アルツが何かに使うこともあるかも知れないと……そして姫様は立派に使いこなすからと気を利かせて持ってきてくれたのだが、その縄ばしごを早速使い屋根に降りた。
城の屋根に現れ夕日を背にして立つ私を見つけ私兵達がざわめいた。その後ろにはガリウス伯の姿も見える。これで少なくとも私はこの城に居る事が確認できた訳だ。でも念の為、替え玉では無いことを証明しよう。
私は彼等に向けて語りかけるように歌い始めた。妖精ピピルの春の歌を……。




