私に会いに来てくれる
医師の言った通り熱は数日で下がったが、私の体調は良くなったり悪くなったりを行き来しながら少しずつ、だが着実に悪化していった。
あーるつーには花瓶に生けられた花が飾られるようになった。私の様子に心を痛めたラーナがそうしてくれていたのだ。ラーナが持ってくるシルセウスの花は見た事が無いものばかりで、同じ種類の花でも大抵小振りで色が濃い。湖畔に咲いていたあの青い花も姿形はネモフィラに似ていたけれど小さくて鮮やかな色だった。あれはレイデリアという名だとラーナが教えてくれた。
その日も紙に包んだ花を持って来てくれたラーナはいたずらっぽく目を瞬いた。
「姫様はお口に入れてはなりませんよ。これがクリムの花です。この花を乾燥させたものがクリムのハーブティなんです」
ラーナはあーるつーではなく朝食の並べられたテーブルの上に花瓶を乗せた。クリムの花は中央に黄色い雄しべがある濃い紫色の花。私は首を傾げた。
「……ジャガイモ?」
葉の形も小振りながらジャガイモとそっくりだ。
カップに私が好きなベリーの紅茶を注ぎながらラーナが笑った。
「いえいえ、クリムで口にできるのは花だけです。種を取るために実を育てますが……毒がありましてね。茎の切り口から出る白い汁は触るとかぶれるんですよ。芋らしきものもできるけれど、絶対に食べてはいけないと言われています。大体小さいし黒くてまるで小石みたいで、食べようなんて思いませんけれどね」
「小石?」
「えぇ、まるで小石です。シルセウスは作物が育ち辛いのでシルセウスでも良く育つクリム芋が食べられたらありがたいのですけれど、上手く行かないものです。実も芋も食糧にならないのですからね。あぁ、でもね」
ラーナは湖とは逆側の窓に目をやった。
「何故だか急にクリムの畑を拡大するようにと領主様が。それで去年から一面クリム畑になりましたわ。しかも花だけを摘み取るように指示なさったそうで……茎の切り口から出る白い汁に触れると被れるんですよ。今迄は引き抜いて乾燥させてから花だけを切り取っていましたからそんな事を気にせずに作業ができたのにね。どうしてわざわざ手間が掛かることをするんでしょうねぇ?それに不要なクリム芋も全部収穫したのですよ。種芋になるか試す、とか説明されたようですが種で充分間に合うのに何故なのかしら?クリム茶はエグみがあって慣れないと飲みにくいのでシルセウスの者にしか好まれませんのに。収穫量を増やさなきゃならないものかしら?」
心臓が凍りついてしまったように胸の奥が冷たくなった。窓辺に寄りラーナの視線の方角に目をやれば、確かに広大な畑が広がっている。そして遠目にもその畑に植えられている物が紫色の花だけである事が見て取れた。
「クリムのお茶で私のようになる人はいないの?」
「えぇ、偶に寝過ぎてしまう事もあるようですが、ごく薄めたクリム茶なら子どもの頃から飲むんです。ですからあの時はびっくりしましたわ。よっぽど体質に合わなかったのでしょうかね?」
お茶を注ぎ終えたラーナが顔を上げにこりと私に微笑んだ。しかし『姫様……』という呟きと共に不安そうに顔をしかめる。
「どうなさいました。お顔が真っ青ですわ。少しお休みなさいませ」
「だめよ。……私、アルに会わなくちゃ……」
引き攣った表情で首を横に振る私にラーナは宥めるように言った。
「王子にはお会いになれません。お身体に障るからいけないと先生が……」
「身体なんてどうなってもいい!アルに話をしなきゃ」
私はドアに駆けよりドンドンと叩いた。鍵が開き少しだけ開かれた隙間から覗いた騎士が驚いて目を真ん丸にしている。
「お願い……アルに会いたいの」
騎士は辛そうに歪めた顔を逸らした。
「王子にお会いになることはかないません」
「お願いよ……どうしても話さなくちゃいけない事があるの。アルに会わせて。少しだけでいいから、お願いだから……」
溢れた涙がぽろぽろと頬を伝って落ちた。騎士は大きくドアを開き跪くと手を取って私を見上げた。
「わかりました。王子にお伝えします。ですから……それまでどうぞお休み下さい。手が震えていらっしゃる」
子どもを宥めるかのような騎士の優しい声を耳にして、私はただ絶望するしか無かった。
「……わかった、よくわかったわ。……ありがとう、少し休みます」
頷いた騎士に微笑みかけると静かにドアが閉まり鍵が掛けられる音が響く。張り詰めていた糸が切れるように力が抜けその場に崩れ落ちると『姫様!』と悲鳴を上げラーナが駆け寄ってきた。
「ラーナ。アルには会わせて貰えない。私が会いたがっていることもアルには伝わらない。だって……アルを苦しめるから……」
「姫様……」
私はゴシゴシと涙を拭いフフッと笑い声を漏らしながらラーナを見た。ラーナは訝しそうに首を少しだけ傾げ私を見返している。
「不思議ね。どうしてかしら?がっかりしたら急にお腹が空いて来たのよ。ツルイチゴが食べたいなんて我が儘を言ってもいい?」
「いいえ、大丈夫ですわ。直ぐにご用意できますよ」
嬉しそうなラーナの様子に胸がツキンと痛んだ。ごめんね、ラーナ。お腹を空かせた私にほっとしたのよね。そんな優しい貴女の好意を利用するなんて。
ラーナは階下へ降りて行った。私は本棚から一冊の本を取り出すとページを開く。少年向けの冒険小説は子どもの頃のアルが読んだ本だという。偶然城に残っていたのを見つけ、暇つぶしにと持ってきてくれたのだ。
「素数……だったわね」
私はゆっくりと呼吸を繰り返し記憶を手繰った。殿下が話してくれた陛下の……お兄様からの命綱。この本がその命綱となるように……。
**********
明け方。
白み始めた空の下、私は城の中庭に立っていた。それを取り囲む騎士達は鋭い目付きで剣の切っ先を向けている。最早彼等の私に対する同情は意味を持たない。身じろぎ一つしただけで、その刃先は私の身体を貫くだろう。
やがて白い靄の向こうからゆっくり近付いて来る人影が見えた。
「剣を下ろせ。逃げようとしたのでは無い……そうですね」
「えぇ、そうよ、アル。ここに来れば貴方もきっと私に会いに来てくれる。こうやってね」
私は取り囲む騎士達をぐるりと見回した。
「監禁するのなら窓の格子を揺すって確かめてみなきゃ駄目よ。南側の窓は固定している壁がボロボロ崩れていたから隙間を開けるのは訳なかったわ」
私の居た塔は城の最上階から突き出すように聳えているので鉄格子さえ無ければ城の屋根に降りるのは不可能ではない。小鳥が食べ物をせがみに来た時に鉄格子が僅かに揺れる事に気が付き、誤魔化して持っていたスプーンで脆くなった外壁を少しずつ崩していたのだ。手持ち無沙汰で暇潰しに何気なくやっていたことだったけれど、窓枠にしがみつきながら脚でぐっと外に向って鉄格子を押すと呆気ないほど簡単に隙間が開き、半分だけ壁に止まっている鉄格子にシーツを結び付けて壁を伝い降りた。屋根にさえ降りてしまえばその下には張り出したバルコニーがさぁどうぞと言わんばかりに待っている。バルコニーから下の階のベランダの庇へ、庇から手摺り、そしてその下の階のバルコニーに。バルコニーからはテラスに繋がる石の階段が続く。これも劣化していたので崩れて何度も死ぬかとは思ったけれど。
「あの鉄格子は逃走を阻む物では無いのです。あくまでも身投げをさせない為、屋根に飛び降りようなんて思い付いたのは貴女くらいです。勿論外れるか試してみたのもね。どうか皆を大目に見てやって下さい」
そう言いながら私に近付いてくるアルの為に騎士達は左右に道を開け、私の目の前まで来たアルは立ち止まって私を見下した。
「クリムの畑に気が付いたのですね」
「アルは知っているでしょう?私は特に薬物に耐性が低いの。僅かに含まれている成分にも過敏に反応するらしいわ。香油でかぶれたのも多分そのせいよ。クリムの花にも何らかの成分が含まれているのね。シルセウスの人々は体質にあっているし子どもの頃から飲みなれているから耐性も付いているのでしょう。でも私は違った。薬は使い方と相手によっては毒にもなる。あれは……クリムは毒性の強い植物なのよ。そして地下茎、つまり芋の部分に多くの毒を蓄える……」
哀し気な瞳には真っ直ぐにアルを見つめる私が映っている。暗い翳りに満たされてしまったその瞳は輝きを失い、絶望的な闇が浮かんでいた。
「貴方達は間違っている。たとえどんな理由があっても民の手だけは汚してはいけない」
騎士達が剣を握り直した音が耳に届いた。アルだけを見つめながらも彼等の射るような視線が一身に集められているのを感じる。でもアルは柔らかく微笑みながら緩やかに首を横に振った。
「これしか方法が無いのです。クリム芋は寒さの厳しいシルセウスでも育つ数少ない植物だ。『白い粉』という新しい価値が生まれた今、掘り尽くされた宝石よりも高値で売買されるのです。シルセウスが独立すればガリウスは自由にクリム芋をシェバエアに売る事ができる。グラントリーはシェバエアに工場を建てました。今までは高値で買い取っていた『白い粉』を手に入りやすくなったシルセウスのクリム芋で作り売り捌く為に。シルセウスの再独立は彼等の利益になる。だからこそ今、我々に協力してくれるのです。大丈夫、独立し国が安定したら新しい道筋を探します。クリムがあればその日は遠くない」
アルは上着を脱ぎ更に一歩私に近寄って肩に掛けようとしたが私は後ずさってそれを拒否した。裾の長いドレスでは動きにくいから夜着一枚でここまで来たけれど、この寒い明け方の空気の中でも不思議と寒さは感じない。ただ怒りだけが胸の中に静かな火を点していた。
「汚れは手を染めてしまうのよ。洗っても落ちはせず逃げられなくなる。そればかりかあっという間に『白い粉』はシルセウスの民に蔓延してしまうわ。クリムでシルセウスを取り戻すのは決してやってはいけない禁じ手なの。何も知らぬ民に犯罪を犯させた挙げ句不幸にして、貴方達はそうまでして国を取り戻さなければならないの?」
「貴女にはわからない!自分の目の前で国を奪われた悔しさや虚しさなど!」
上着を投げ捨て両手を伸ばし私の肩を掴んだアルは、込み上げる怒りで別人のように目を吊り上げている。だが私は、その瞳が潤んで揺らいでいるのを、その心の中の深い悲しみを確かに感じていた。
肩を掴むアルの腕を払うと呆気ないほどに容易く外されアルは私から目を背けた。私は騎士達一人一人にゆっくりと視線を送り、最後に顔を背けたままのアルを見つめた。
「ラーナが言っていたわ。貴方のお姉様は……貴方達の本当の姫様……ルナリー王女は栄養不足から病気になった民のために自ら薬を届け手づから焼いたパンを振る舞ったと。孤児院に溢れる子ども達に読み書きを教え、破けた衣服を繕ってやったと。アル……貴方はお姉様の話に耳を傾けるべきだったと悔やんでいたはずよ。それなのに何故今、貴方はその暴走を止められないの?」
『貴女にはわからない……』とアルは再び小さく呟いた。それは私に向けられた物ではなく、自分自身に言い聞かせる為の物。
私はアルの腕をぎゅっと掴んだ。アルは驚いたように私に視線を向ける。その視線から一瞬でも逸れてしまわないように、そして溢れる涙が零れ落ちぬように目を見開いた私を、まるで動きを封じられたかのように身動ぎもせずにじっと見下ろしていた。
「目を覚ましなさい!最も大切な物は何ですか!その頭上に王冠を載せる事ですか!違うでしょう?貴方達が守らなければならないのはシルセウスの民の幸福なのよ!!」
私は抱えていた本に視線を落とした。身体に縛り付けてここまで大事に運んできた本はきっと少年だったアルのお気に入りだったのだろう。所々擦れ切れた表紙から繰り返し手に取られたのが感じられた。私はそれに額に押し当てて念を込める。どうか伝わりますように。どうかシルセウスの民を救ってくれますように……。
私は本をアルに向けて差し出した。そしてアルに……私に忠誠を誓ったアルに初めて命じた。
「アルバート・ディケンスに命じます。騎士達と共にこれをドレッセンに運びなさい。」




