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平凡なピピルと氷雪の王子の四年間  作者: 碧りいな
さんどめの春
53/84

君らしくいて欲しい 


 その二日後、殿下と私の婚約は正式に発表された。

 王家に迎える事を許された者は国王からティアラを与えられるが、授与式で戴くティアラも身に着けるドレスもアクセサリーも靴までも、一式全て両陛下によって用意されていた。ドレスの調整や式の進行の確認、そして式典の所作を学ぶ為にあのまま南の離宮に残された私は、西の離宮に戻ることなくその日を迎えた。


 「貴女が西の離宮に上がったと聞いて陛下と準備を始めたの。遠くない時期にこの日が来るだろうとね」


 準備が整った私に会いに来たエルーシア様はいつもの溌剌とした様子ではなく、労るような寂しげな視線を私に送っていた。形は違えど国と王家の為、自分の想いを押し殺して嫁いだ自分を私の姿に重ねたのかも知れない。そしてその辛さを知っているが故に胸に痛みを感じていたのだろう。


 授与式の後、私はお義父様たっての希望で挙式の日まで屋敷に戻される事になった。とはいえお妃教育の為に毎日王宮に行くのだけれど、エルーシア様や女官長の指導なのでほぼ南の離宮に篭りっきりだ。挙式用のドレスの仕立ても急ピッチで進んでいる。自分とは違う世界、遠い遠い世界のはずなのに中心に居るのは私。少しも実感が湧かずふわふわと漂っているようで、どうにも居心地が悪く落ち着かない日々を過ごしている。

 

 西の離宮では正妃の私室の改装が計画されたのだが、綺麗に維持されていたので必要ないと断った。流石に今まで何もない空っぽの部屋だったから、運び込まれた家具や調度品に足りないものはないか確認して欲しいとカーティスさんに言われ、私は久し振りに離宮に向かった。


 正妃の私室には天蓋付きの大きなベッドを始め色々な家具が用意され、衣装部屋にも次々と仕立てたドレスが運ばれて来ていた。夜会嫌いの殿下も自分の婚礼の祝賀行事までは逃げられないものね。ケースの中にはドレスに合わせて誂えたアクセサリー、そして赤いクッションの上に乗せられている王家の伝統のティアラは殿下のお母様から受け継いだ。私が受け継ぐべきではないという思いの方が大きくて、少しも心華やぐ物なんかじゃないけれど。

 真新しいカウチに座ってぼんやりしていたら居間から繋がるドアがノックされ、返事をすると遠慮がちにドアが開いた。殿下と顔を合わせるのは久し振りだ。


 私の隣に座った殿下は珍しそうに部屋を見回した。私が初めてここに入ったのは秋の始めだっただろうか?何もないがらんとしたこの部屋で子猫が走り回っていたっけ。


 「お食事は召し上がられていますか?」

 「あぁ、大丈夫だ。君が屋敷に戻り仕方無しにコックの作った物を食べたら抵抗なく食べられた。どうも僕は君に甘やかされていたらしい」


 窶れた様子も無いので殿下が言う通りなのだろう。殿下の食事作りができず気になっていたのでホッと胸を撫でおろした。


 「お妃教育はどうなっている?辛くはないか?」

 「あぁ……そうですねぇ。貴族の細かい事を覚えるのが……。顔と名前と爵位と領地の場所と、跡継ぎの名前とか顔とか……興味が無いもので全然頭に入らないんです」


 君らしいな、と言って殿下は笑いつられて私も笑った。それきり私達は見慣れぬ部屋になってしまった正妃の私室を黙って眺めていた。


 「静かだな。ここに子猫がいた頃はあんなに賑やかだったのに」


 静寂を破った殿下の声に私も頷く。


 「そうなんです。子猫の部屋を横取りしたようで何だか気まずくて」


 殿下は笑いつられて私も笑い、そしてまた私達は黙って部屋を眺めていた。すっかり様子を変えたこの部屋はあの頃と違ってひどくよそよそしい。それが何だか切なくて私は俯いた。

 殿下は私の横顔に落ちた髪を優しく耳に掛けてくれたが微笑みかけると慌てて視線を反らしてしまう。けれども滑らせて手にした一房の髪をそっと握ったまま独り言のように呟いた。


 「僕にはわからないんだ。一体僕は何時君を愛してしまったのか。ジェフリーが君に一目惚れした時はすぐにわかったのに自分の事はまるでダメだな」

 「それでしたら、ハイドナー様はそうは仰りませんでしたよ」

 

 殿下は呆れたように眉間を寄せながら目を閉じて深い溜息をついた。

 

 「本気で言ったとしたらアイツも相当酷いな。中庭に居た君を見るなり鎖で縛られたように動けなくなったくせに。お陰で僕は人が恋に落ちる瞬間というものを目にすることができたよ。なかなかできない経験だ」

 「わたくしはボンヤリと立っていただけでしたけれど?」

 「あぁ、僕にはそう見えた。でもその君を見たジェフリーは何度呼び掛けても僕の声が耳に入らなかった。実にわかり易い一目惚れだったと思うね」

 「その仰り方をみると、殿下はハイドナー様の気が知れないとお思いになったみたいですね」


 ムスッとしながら言う私に向かって殿下は気不味そうな笑みを浮かべた。


 「いや……僕だって応接室で会った君を可愛らしいお嬢さんだとは思ったさ。でもジェフリーが一目で恋をする程の何が君に有るのかはさっぱりわからなかった。あの時の僕にとって君は実に平凡な女学生でしかなかったんだ。でも君は平凡とは余りにも掛け離れていて、僕は君の事がわからなくて戸惑うばかりだった」

 「殿下に言われる筋合いなんてありませんわ」


 殿下は私の髪を離し口を尖らせる私の頬を摘んで捻る。いきなりされたイタズラに眉を寄せて睨むと、面白そうに私を見つめた。


 「あれ程従順なのに何故か少しも僕の思い通りには動かない君に訳もなく苛立った。そんな君に心を乱される自分にもね。あの夜、ずぶ濡れで意識のない君を見て僕は恐ろしくなった。あの日のマルグリットのように、君も僕の前から消えてしまう気がして……」


 殿下は僅かに顔を歪ませた。きっと冷え切ったマルグリットの亡骸を抱いた腕の哀しい感覚がまざまざと甦って来たのだろう。私がそっと殿下の左腕に触れると殿下はそれに右手を重ね握り締めた。


 「でもわたくしは消えたりしなかったでしょう?」

 「あぁ、君はちゃんと僕の元に帰って来てくれた。僕はそれでも不安で君の寝顔を眺めていたんだが、君がケネスに連れて行かれてしまうとまるで自分の半身をもぎ取られてしまったようで……。僕は自分を嘲笑ったよ。ジェフリーを責めた僕が、罰を与えた僕が、君を愛していた事にようやく気が付いたんだからね」


 殿下はカウチから立ち上がると私の前に跪き右手を取った。そして優しい光を纏った春の湖のような碧い瞳で私を見つめた。


 「ねぇピピル。ここが君の部屋になっても君には君らしくいて欲しい。君の心は君の物だ。無理に僕に向ける必要は無い。もうこれ以上自分を犠牲にするな」

 「わたくしは殿下を傷付けるだけなのです。殿下がどんなに想って下さってもわたくしには応えられない。そんな日々はきっと殿下を苦しめるでしょう。わたくしでは殿下を幸せにはできないのです。殿下に……いつか殿下に幸せになって頂きたかった、だからお側に置いて下さいと……」

 「ピピル、間違いなく君はあの地獄から僕を連れ戻してくれた。心が通い合う心地よさを教えてくれたんだよ。僕は君に救われたというのに、それなのに君を苦しめてしまったね」


 私は静かに首を振った。王子として生を受けたこの人は、育まれた環境がどんなに過酷だったとしても国の為に生涯を捧げる義務から逃れる事は許されない。そして私が貴族になった者の努めとしてそれに従うのも義務だ。それでも私は殿下がいつか本当に思い合う誰かと結ばれる事を願っていた。まさか自らその希望を打ち崩してしまうとは何て皮肉なんだろう。


 「フローレス聖堂のエクラの花が咲き始めたそうだよ。式の頃には見事な花吹雪になるだろうね」


 エクラは桜と似ている。花の形も咲く時期も艶やかに咲いて儚く散っていくその咲き方も。

 その日には満開を迎えた花びらがハラハラと雪のように舞い散る事だろう。



 

 そして満開のエクラの花の便りと共にその日はやって来た。 

 夜明けから慌ただしく始められた準備は恙無く進められた。仕上げに昨日離宮から届けられたティアラが頭に載せられると、支度をしてくれたメイドさん達が感極まってシクシクと鳴き声を漏らす。デビュタントのドレスを嬉々として着付けてくれたのが昨日の事のようなのに、運命とはわからないものだ。


 お義母様は一足先に聖堂に向かわれている。屋敷を出る時に部屋に来て私を抱き締めて「わたくしの娘になってくれてありがとう」と言ってくれた。そして「ごめんなさい」とも。侯爵家は、とりわけケネスお義兄様は陛下のお考えに気付いていながら私には悟らせなかった。それが現実になった今、これが私にとって最良の選択だったのかという迷いが生まれ、そして後悔も芽生えているようだ。結局お義母様は「おめでとう」とは口にしないまま部屋を後にした。


 ホールに降りるとお義父様はもう既に泣いていた。17歳で養女になった私にもこの有様なんだから、侯爵家に実の娘がいなくて本当に良かったと思う。そしてまた執事長もつられてボロボロ泣いている。相変わらず涙腺が弱いのね。

 いつの間にかホールには使用人全員が見送りに集まってくれている。人々の気持ちが有り難く、そして本当は想いの無い結婚で有ることが心苦しく胸がチクリと傷んだ。


 私とお義父様は拍手に送られて迎えの馬車に乗り込んだ。4頭立ての黒塗りに金の装飾が施された大きな馬車にはビックスとエリアスが騎乗での警護で横に付き、手綱を弾く音と共に進みだし屋敷を後にする。


 フローレス聖堂までそんなに時間は掛からない。到着迄にお義父様が泣き止むかハラハラしたけれど、聖堂の尖塔が見えた頃になってぎりぎり涙が止まりホッとした。花嫁の私がお義父様を泣き止ませるのに必死だったので、何かを想う余裕もないまま聖堂の門をくぐる。お義父様に手を取られて馬車から降りると、春の柔らかな陽射しの中で雪のようにエクラの花びらが舞い散っていた。


 私はお義父様の腕に手を添えて聖堂のドアの前に立った。


 「お前はアシュレイド侯爵家の自慢の娘だ。必ずや素晴らしい正妃になる。胸を張りなさい、顔を上げなさい。わたしはお前を誇りに思うよ」


 真っ直ぐ前を見据えたままそう言ったお義父様の唇は小さく震え、鼻が赤らんでいる。これは危険だ。また泣いちゃうかも知れない。私は伸び上がるとお義父様の耳に顔を寄せた。


 「大丈夫、わたくしが姿勢の良さで立ち居振る舞いの先生の目を誤魔化してやり過ごしたの、お義父様は良くご存知でしょう?」


 お義父様は全く花嫁らしくない返事に一瞬ポカンとしたが、満足そうな笑みを浮かべると右手でお義父様の腕に添えた私の右手をポンポンと叩いた。


 「お前のそう言う熟れた要領の良さを大々的に自慢できないのが本当に悔しいよ」


 笑いを堪え肩を震わせる私達に開式が告げられた。

 ドアが開き聖堂に足を踏み入れる。


 抗えなかった新しい運命に、私は今、呑み込まれようとしていた。

 


 


 

 

 


 

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