風向きが変わった
第二王子ブライアンの洗礼式の後、恙無く王位継承権が正式に認められ王宮の大温室で祝賀パーティが開かれた。
若く凛々しい国王と美しい王妃に大切に抱かれた小さな王子は招待客の注目を一身に集めている。
だが彼らはその側にいる二人にもこっそりと視線を送っていた。末の王弟であるファビアンと側室侯補のピピル・アシュレイド侯爵令嬢。二人にはずっとある噂が囁かれていた。
ファビアンが平民の娘を気紛れで側室侯補にしたものの気が変わり持て余している、というものだ。
実際二人が親密にする様子を目にした者は誰もいなかった。そればかりか一緒にお茶を飲んでいても一切会話が無いとか、会話どころか目も合わせないという話まである。元々ファビアンは女嫌いという評判だった。どんなに美しい令嬢でも丁寧に、かつ冷酷に拒絶されてしまうのだ。その挙げ句に大国ドレッセンの王女との政略結婚の打診すらけんもほろろに断った。だからくちさがない連中には実はファビアンと補佐官のハイドナーはただならぬ関係で、ピピルはそれを誤魔化す為に側室侯補にされている、とまで言われていたのだ。
側室侯補としてピピルの名前が上がってから半年が過ぎても、ファビアンとの関係には一向に変化が見られなかった。ファビアンは常に冷ややかな視線を彼女に送っていたし、彼女は無表情だった。
一方このピピルという娘もどこか風変りだった。特許取得という貴族令嬢らしからぬ事をし、刺繍をすれば手慰みどころか複数の商会から販売させて欲しいと依頼が殺到する。ファビアンの寵愛を受けている様子は無いのに国王夫妻からは目を掛けられ、ガーデンパーティーでは国王にエスコートされ見事にパートナーとしての努めを果たした。にもかかわらずファビアンに手を取られて現れた夜会の席では、笑顔で招待客からの挨拶を受けながらも互いに視線を交わすことすら無かったのだ。やはりこの二人の仲は破綻しているのだろう、そう思われても無理は無かった。
しかしその夜『夜風に当たりに出たピピルが誤って噴水に落ち溺れた』時、知らせを受けて駆け付けたファビアンは、自身が濡れる事も厭わず気を失った彼女を抱きしめて目を開けてくれと叫んでいた。早急に処置をしなければならないと説き伏せる医師の声も耳に入らぬ程に取り乱したファビアンは、騎士達に羽交い締めにされ彼女から引き離されると泣き崩れたという。
誰もが首を傾げた。いつも冷淡で冷静なファビアンが、目晦ましの側室侯補と言われている娘の為に取り乱すとはどういう事なのか?
その後ピピルは南の離宮に入った。国王直々の指名によりセドリック王子の臨時の養育係を任されたのだ。それからというものピピルが王子や王女を連れて庭園をそぞろ歩く姿は忽ち評判になり、庭園に面した本宮の廊下からは一目見ようといつに無く沢山の貴族達が窓の外を眺めていた。子ども達に手を引かれ歌いながら歩くピピルは、ファビアンに向ける人形のような無表情ではなく優しく温かな笑顔を浮かべていた。彼女は整った容姿の娘ではあるが、平凡な栗色の髪に茶色い瞳で目を瞠るような美しさという程では無い。しかし何故だろう?子ども達に囲まれているピピルは息を呑むような輝きを放つのだ。『まるで女神ではないか』という誰かの呟きに皆が黙って頷いた。
やがて持て余された可哀相な娘と揶揄されていたピピルが、ついにファビアンの元で暮らし始めたという噂が驚きと共に広がった。ピピルが離宮に上がってからは今までが嘘のように、ファビアンは片時も彼女を離さず執務中すらも側に置いているという。これには誰もが耳を疑ったのも仕方のない事だ。ファビアンは人嫌いの仕事中毒だったのだから。
不思議なことにこの話は平民の間でも話題になっていた。市井の女学生だったピピルが歌う姿に恋をしたファビアン王子。王子の求愛を受け身分の差という障害を乗り越え結ばれた二人の事は、市井ではまるでお伽話のように語られている。才媛のピピルは平民の誇りであり、どうかお后にと願う声が次第に大きくなっていた。
祝賀パーティに現れた二人は仲睦まじく笑顔で見つめ合い、楽しげに語り合っていた。何よりその身に纏う冷たい雰囲気から氷雪の王子とまで言われていたファビアンが、温かな柔らかい笑顔をピピルに向けているのだ。これが寵愛でなければ何だと言うのか?彼女は確かにファビアンの心を捉えたに違いない。
パーティが終盤に差し掛かった頃、ピピルは疲れて機嫌が悪くなった小さなアリエラ王女を抱いていた。王女が眠ってしまうとファビアンが手を伸ばし代わりに王女を抱き上げる。ぐっすり眠るアリエラ王女の寝顔を覗き込み顔を見合わせて微笑み合う二人、それはまるで本当の家族のような何とも微笑ましい光景だった。
すると待ちかねたように駆け寄ってきたセドリック王子がピピルに飛びついた。ピピルの顔を見上げて話しかける王子の両肩に手を添え、彼女がスッとしゃがんで王子と視線を合わせると、夢中で話を続ける王子の瞳はキラキラと輝きその表情は喜びで溢れている。
そうだ。ピピルはセドリック王子の信頼をも手にしたのだ。それは彼女がこれ以上ない大きな大きな後ろ盾を得た事を意味している。何故ならこの少年はやがて王太子となりいつかその頭上に王冠を戴く宿命を背負っているのだから。
ピピルは市井育ちの平民の娘であり、それだけで彼女の道は閉ざされていた筈だ。
しかし本当にそうなのか?
国王夫妻からの信頼、未来の国王の後ろ盾、市井の後押しする声、それらはピピルの道を開くのではないか?
何よりピピルはファビアンの寵愛を受けている。どんなに美しく聡明で家柄に恵まれた令嬢ですら拒絶してきたファビアンが、人格を違えたかのように彼女を愛しんでいるのだ。
確かに前例は無い。でも彼女には前例が無いことをはね飛ばすだけの要素が揃っていると、少なからぬ者達は気付き始めていた。
花を摘んでいたシャーロット王女とジュリエット王女が二人で作った花冠を手にしている。国王は耳に顔を寄せ楽しげに何かを囁いた王女達に頷いて花冠を受け取った。そして真面目な顔をしてピピルの前に立ち、王女達に促され楽しそうに笑いながら最上級の礼を取るその頭に厳かに花冠を載せた。
それは少女達のあどけない遊びだ。
だかいつかその瞬間が訪れる事を予感させるかのようなその光景に誰もが目を瞠った。
風向きが変わった。
背中を押す強い風が吹き始めた事を彼女はまだ知らない。




