溶け出していく心
僕は知らなかった。あの寒いシルセウスで永遠に凍り付いたと思っていた僕の心の中に、こんなにも色々な感情が閉じ込められていたことを。彼女は瞬く間に僕の心を温めて溶かしていく。そして新しい感情を取り出しては宝物を見付けたように嬉しそうに笑うのだ。
「ピピル様のお手並みは見事ですなぁ。すっかり殿下が心を開かれたではありませんか!」
ニヤつきながら僕の顔を眺めるカーティスは不愉快窮まりない。面白くて堪らないと言わんばかりではないか!
「お前、アレに抵抗できると思うか?あんな凄い武器を隠し持っていたなんて、全くアイツは何なんだ。今まではただの人形だったのに」
彼女は僕に仲良くして欲しいと言ったがそれは中々難しかった。どんなに冷たい態度を取っても何の反応もせずに無表情のまま目も合わせようとしなかった彼女が、そんな僕にわざと首を傾げて『ね、殿下』と始めるのだ。彼女の言う通りだ。彼女は媚びを売れなかったのではない。これまでの僕には売る必要が無いと判断していたのだ。そしてそれを今、大きな威力を有した武器として自由自在に操っている。結果的に僕は彼女に心を開かざるを得ず、いつの間にか打ち解けさせられていた。
何故なのだろう?上目遣いで甘えた声を出す女ならいくらでもいたが、馬鹿馬鹿しさや見苦しさしか感じた事がなかったのに。どうして彼女に対してはこんなにも狼狽えてしまうのだ?
僕の前で感情を押し殺していた彼女はもういない。閉ざしていた扉を開け放って現れたのは、天真爛漫でコロコロと表情を変える生き生きとした娘だった。そして僕に心を開いた彼女は僕の心を開かせ、何時しか心が通い合う温かさを教えてくれたのだ。
「殿下に白旗を上げさせるとは、まさに唯一無二の存在です。どうか大切になさいませ。大切にと言えば、令嬢の護衛騎士が同じ年頃の娘を持つベテランなのはどうにかならぬのですか?」
彼女が社交界に出て護衛が必要になった時、アルバートを勧めたのはカーティスだ。腕の確かさは勿論だったが、令嬢には若くて見目の良い騎士を選ぶものだと言われ、それならばと彼を選んだのだ。
しかし、彼女がアルバートと打ち解け楽しげにしているのを目にするようになると、何故か僕はイライラした。特に僕に対しては目も合わせようとしない彼女が、背の高いアルバートを見上げて目を輝かせるのを目にした時は、訳もなく腹が立ってならなかった。
「お前が言うような騎士には適任者がいなかったのだから仕方ない。良いんだ、ピピルも気に入っている」
「そのような事を。わかっておりますぞ。同じ年頃の娘を持つ者であれば妙な気を起こす事も無かろうと思われたのでしょう?しかも互いに監視ができるようにと二人選ぶ念の入れようとは、我が君のなんと嫉妬深い事か。お情けない」
そういう事ではない。彼女はやたらと危なっかしいのだ。何しろ女としての警戒心が著しく低い。地味で平凡な自分のことなど誰も相手にするものかという思い込みがそもそもおかしいのだ。その仕種で、その笑顔で、その瞳で『ありがとう』なんて言うのだから相手が顔を赤らめるのは当然なのに。
「くだらない。適任者がいなかったと言っているだろう!」
苛立つ僕にカーティスは肩を竦めた。
「左様ですか。まぁよろしい。何しろピピル様は殿下が拗ねてもいじけても大喜びされるのでございますからね。やきもちも大歓迎されるのでしょうて」
やきもち?これがやきもちだと?違うだろう。僕は無防備な彼女に腹が立つだけだ。危なっかしい彼女が心配なのだ。
「どうでも良いが、遅くはないか?もうとっくに戻っているはずなのに何をしているんだ?」
カーティスのにやけた顔が鬱陶しくて、僕は話題を変えることにした。
乗馬の練習に行った彼女はまだ戻って来ていない。乗馬を始めたのはつい最近だ。馬に乗ったことが無いと聞いて一緒に乗せてやったら、驚いたことに……心底驚いたことにあの負けず嫌いが怖がってポロポロ涙を零したのだ。それがおかしくておかしくて、ついスピードを上げたのが悪かった。わんわん泣きながら怒っている彼女に『もう殿下とは乗らない』と言われ『馬には自分で乗る』と宣言された。
彼女が言うには馬が怖い訳ではなく不安定な状態で頼るものは僕だけなのに、その僕が信頼できないのが怖かったのだと。失礼な話だが、面白がって余計に泣かせたのだから仕方がない。謝ったけれど許してくれず、乗馬の練習を始めてしまったという訳だ。
でも僕にしてみれば、彼女がそんなに怖がっているとは思わなかったんだ。だって、セドリックの紙飛行機が木に引っ掛かって泣かれた時に、彼女ときたら梯も使わずスルスル木に登って取ってしまったのだから。しかも最後はかなりの高さから飛び降りたのだ。執務室の窓から偶然それを目にした僕は思わず血の気が引いた。あんなことができるのに馬に乗るのが怖いなんて、信じろという方が無理ではないか。
予定よりも随分遅れて戻ってきた彼女は、初めて馬に乗って王宮を一周してきたと上機嫌だった。
「ロメオは教え方が上手いって聞いてはいましたが本当でしたわ。言われた通りにすると馬がちゃんと言うことを聞くんです」
「ちょっと待て。どうしてロメオだ?ビックスとエリアスは何をしていたんだ」
「ビックスは非番です。今日はお嬢様の結婚式ですからね。エリアスは鍛練中に若い騎士が怪我をして本宮に連れて行ったそうです。丁度勤務が終わったロメオが代わりに教えるって言ってくれたんです」
彼女は何処に問題があるのかと言わんばかりに躊躇なく答えるが大問題だろうが。よりによってロメオだ。腕は良いが女好きの優男ではないか。
「そんな事、僕は聞いていない」
「そりゃあそうですわ。今初めて申しましたもの」
「どうして断らなかったんだ?」
「お断りならしましたよ。お疲れでしょうからお帰り下さいと言ったのに、大丈夫だと言って手を引いてグイグイ進んで行くんですもの。そんなに乗り気なのにお断りするのも悪いと思ったんです。それにせっかく上手に乗れているのだから、このまま一周してしまおうと仰って予定よりも長く練習させて下さったんですよ」
だから!そういうところだ。君のその鈍感さが危なっかしいと言うんだ。手まで引かれて何故気が付かないんだ?乗馬だぞ。乗り降りを手助けする体で身体に触れても当然で、手綱捌きを教える振りをしながら手を握ってもおかしくない。何よりも二人っきりになれるではないか。
「ロメオの好意に甘え過ぎてしまいましたね。申し訳ありません。でもロメオも楽しかった、気分転換になったと言ってくれましたけれど?」
彼女が首を傾げてしょんぼりと言う。
だからだから!!だからそういうところなんだ。
どうしてこうも鈍いんだ!そりゃあ楽しかろう、楽しくない筈がないだろう。好意の意味合いが違うんだぞ!
「これからはビックスとエリアス以外の指導は受けるな。君は警戒心がなさ過ぎる。どうせロメオにもニコニコして見せたんだろう。勘違いされたらどうする。とにかくビックスとエリアス以外はタメだ!それが嫌なら僕の馬に乗れ」
「まぁ……何だか嫌な言い方」
彼女は不満げに目をそらして小声で呟いた。
「……泣いちゃおうかなぁ……」
頼む、止めてくれ!
小首を傾けて上目遣いをされるのも困る。アレは僕の抵抗する意思を激減させる恐ろしい武器だ。何しろ彼女はその仕種と表情であっさり勝利してここに居るのだから。
だが彼女はそれを上回る恐ろしい最終兵器を持っていた。斜め下に流し目を送りながら長い睫毛を震わせてさも悲しそうに『泣いちゃおうかな……』等と言われたら平常心など保てる筈がないだろう。僕はうろたえ焦りオロオロし冷や汗をかきながら慌てて弁明することになるのだ。
「ピピル様、その辺で許してお上げなさいませ。後はカーティスが男のやきもちは見苦しいときっちりお説教をしておきますからな。」
「違う!やきもちなんかじゃないだろう!僕はピピルには隙が有りすぎると言っているんだ」
「殿下ってお義父様みたい……」
うんざりしたようにこぼした彼女の言葉を聞いて、カーティスが大笑いした。
「大目に見て頂けますか?ピピル様が心配でならないのでしょう。だがこんな父親は大抵娘に嫌われますが」
今度は彼女がケラケラ笑う。何がおかしいんだ。僕がこんなにも心配しているのに。
「わかりました。でも口煩いお義父様には反省して頂きましょうね。今日のお夕食は『人参』をたっぷり使って作ります。ではわたくし、厨房に『人参』を取りに行って参りますから」
呆気に取られる僕を残し彼女は颯爽と出て行った。『人参』か。僕が苦手なのを見抜いていたのだな。
ジェフリーが目の前で毒を盛られてから僕は口に物を運ぶ事が怖くなった。彼女は直ぐにそれに気付き小さなキッチンでせっせと料理をしてくれている。初めはそうやって彼女が作った物しか受け付けなかったが、徐々にそうではないものも食べられるようになってきた。それでも食欲が湧かず食べきれないことが多いので、僕の様子を見ながら手ずから料理をしてくれているのだ。
「殿下、どうぞピピル様を大切になさいませ」
「同じ事をまた言うのか?」
「何度でも申しましょう。どうぞ大切になさいませ。殿下の心に血を通わせた方なのですから」
顔を歪ませたカーティスは慌てて一礼し執務室を出て行った。
確かにそうなのかも知れない。自分の存在に苦しみ朝が来る度に生きていることに絶望していた僕の心に彼女が入り込んでから、僕の世界は色彩を取り戻した気がしていた。それは彼女が僕の心に血を通わせてくれたからではないだろうか。
厨房から戻った彼女が作ったのは皮をパリッと焼いた鶏肉だった。その横にはたっぷりの人参が添えられている。
「グラッセにしましたから殿下にも召し上がれると思いますよ」
人参は人参だろうと思ったが何となく美味そうに見えたので指で摘んで口に入れた。バターと蜂蜜の香りが口に広がって人参の青臭さを消し甘味だけが感じられる。これならいくらでも食べられそうだ。もう一つと伸ばした手を彼女はパチンと叩いて皿を押し付けた。
「お行儀が悪いって言ってるでしょう!座ってお上がり下さい」
僕は渋々白いクロスの掛けられた小さなテーブルに皿を運んだ。彼女が執務室で料理をするようになってから、ソファーでは食べ辛いだろうと窓際に置かれたこの部屋に不似合いなテーブル。そこに彼女はパンと野菜のたっぷり入ったスープを運んで来る。
彼女と向き合うこの小さなテーブルをこの部屋にもたらしたように、彼女は僕の毎日を次々と変えていく。絶望と無力さと罪悪感で埋め尽くされていた僕の心が、次々と知らなかった感情で満たされ始めているのだ。
ねぇピピル、何故なんだ?何故君はそんなにも嬉しそうに笑うんだ?君が言うように、僕を暗闇から救い出す事が君の望みなのか?僕はそれを信じてしまう、それでも良いというのか?
君は少しも気付いていないんだよ。君はもうずっと前から僕の心を少しずつ溶かし始めていたことを。そして僕の胸を苦しめていたことも。
だって君はカーティスが言う通りの『鈍感娘』なんだから。




