いつか必ず手をひいて
厨房で見繕った食材を手に執務室に戻ると、丁度殿下も湯浴みを終えて戻って来たところだった。やはり毒物の含まれた血液を浴びた両手の数か所が小さな火傷のようになってしまっていたが、大きな傷ではないようだ。
何が食べたいか訪ねたら意外な事に甘いものだと言うのでこの簡易キッチンで手早く作れる物を考えて食材を選んできた。とは言ってもちゃんと二口のコンロがあるから学生時代に遊びに行った友人達のアパートのキッチンよりは断然立派だけれど。
先ずはりんごを一口大に切り砂糖をまぶす。次にバケットも同じ位の大きさに切ってバターを溶かしたフライパンでカリカリにソテーしておく。バケットをフライパンから取り出し砂糖が溶けかけたりんごを入れると、溶けた砂糖とりんごの果汁が混ざり合い甘酸っぱい飴状になる。ここにリキュールで漬けたドライフルーツを入れ、馴染んだところでバケットを戻し絡ませる。見た事もない……でも美味しそうな甘酸っぱい香りが立ち上る一皿をじっと眺めていた殿下の手が伸びてきて、バケットを一つつまむとそのままパクリと口に入れ驚いている私を満足そうに眺めた。
「旨いな」
「お行儀が悪いですよ!ちゃんとあちらでお上がり下さい!」
お皿を押し付けられた殿下は渋々ソファーに移動してバケットを頬張り始めた。良かった、しばらく何も食べられないんじゃないかと心配したけれど、こうやって私が作ったものなら受け付けてくれそうだ。
それとなく目を向けていた殿下の様子に胸を撫で下ろしながら茶葉を取ろうと振り返った時だ。つま先に何かがコツンと当たる感触を感じて俯いたら床に転がっている青い小瓶が目に入った。拾い上げて眺めると白い粉末が入っている。このキッチンはお茶や茶菓子を用意する為の物なので調味料は置いていない。誰かの落とし物だろうか?
「殿下、これは何でしょう?戸棚の前に落ちていたんです」
最後のバケットを頬張った殿下は黙って小瓶を手に取ってじっと見つめた。そして執務机から紙を一枚持ってくるとその上に中身をパラパラと振り出した。
「片栗粉……?」
「……カタクリコ?違う、これが例の『白い粉』だ」
『白い粉』……そんなものがどうして執務室のキッチンに落ちていたんだろう?
それにしてもこれはどう見ても……
「殿下、少しだけ使って調べてみても良いですか?」
殿下が頷いたのでキッチンから水を入れた小さなグラスを持ってくる。そこに粉を入れてスプーンで混ぜると直ぐに溶けて白濁した。でも溶けたはずの粉は沈みグラスの中は上澄みの透明な水と二層になっている。次に上澄みだけを別のグラスにあけ沈んだ粉末を摘んだ。ギュッと摘むと水分が滲み出て粉末が固く締まった感触がある。でも指を開くとそれはスライムのようにトロンと形をなくし流れ落ちた。
「これは、植物の澱粉だと思います」
「植物の澱粉?」
「えぇ、じゃがいもから作った粉末がこれにそっくりなんです」
「芋から粉末?どういう事だ?」
うーん、無いのか、馬鈴薯澱粉。それとも殿下が知らないだけだろうか?どちらにしても驚くわね、芋から粉を作るなんて。
ざっくりと工程を説明したがそれだけでは理解しがたいようなので明日実際に作ってみる事にした。
翌日、執務室には殿下だけではなく陛下とケネスお義兄様も同席していた。じゃが芋から粉末……馬鈴薯澱粉というものが食材として存在していないのならイメージ出来ないのも無理ないだろう。三人揃って半信半疑だと顔に書いてある。
じゃが芋をすり下ろし布巾で包み水に入れて揉む。暫くすると上澄みと沈殿物に分かれるので上澄みを捨てる。そこに水を加えてかき混ぜ暫く待ち、沈殿物を残して上澄みを捨てる。これを数回繰り返し、最後に上澄みを捨てたら沈殿物を皿に広げ乾くまで待つ。乾いたものを解すと粉末になる……のだが、多分乾くのが待てないだろうと思い、昨夜のうちに『差し替え』を作っておいた。
三人は出来上がった馬鈴薯澱粉を摘んだり指で擦り合わせたりして興味深く見ていたが、昨夜やったように水に溶かし沈殿物を手で掬い握り締めてから手を離して見せると、トロンと溶けるように形を無くす様子に目を瞠った。
「『白い粉』も全く同じ状態になりました。ですからあれも植物からこうやって作った粉末ではないかと思うんです」
「確かに似ているな」
陛下が言うと殿下とケネスお義兄様が頷いた。
「『白い粉』は何かの種から作っているのではないかと言われていたんだ。もう一度調べ直さなくてはならないな。それからね、妖精姫。昨日君が見付けた青い小瓶だが侍従のラチェスタ物だと判った。昨日ラチェスタが無人の執務室から出て来る時にカーティスと鉢合わせしている。カーティスが来た気配に驚いてあそこに落としたようだ。ラチェスタがそう自白した」
「自白……?」
「あぁ、そうだ。ラチェスタは『白い粉』を報酬として受け取っていた。紅茶に入れる砂糖をすり替える事のね」
殿下は甘い紅茶を好まず砂糖を使うのはハイドナー氏だけだ。殿下の侍従ならば当然知っている事、それなのにわざわざ砂糖に毒を盛ったとしたのならば……
「始めからハイドナー様が狙われたのですか?」
「そういう事になるな」
「どうしてハイドナー様が……」
殿下が命を狙われる可能性は少ない。第二王子が誕生し殿下の王位継承順位は第三位、陛下もまだまだお若くご健勝だからこの先更に王子に恵まれる事も考えられる。危険を冒して殿下を害するメリットは多くないのだ。ましてやその部下のハイドナー氏は尚更だ。もしも唯一考えられるとしたら……
「ジェフリーの大使就任を阻止する事くらいしか動機は考えられないが、毒を盛ってまで邪魔をする必要があるのだろうか、とは思うね。彼以上の働きができる者はそうはいない。ジェフリー以外に名前が上がるだろう者達は皆それを十分承知しているのに」
ケネスお義兄様が首を捻りながら言うと、陛下と殿下も同感だと言うように黙っている。ハイドナー氏に毒を盛った動機は今のところわかっていないのか。
「侍従に命じたのが誰なのかは?」
「それがしてやられてね。ラチェスタには遅効性の薬物を使われていたらしい。尋問中に呼吸が出来なくなりそのまま事切れた。初めから口を封じるつもりだったようだ。どうやらラチェスタも『白い粉』の中毒だったのだろう。操るのは容易かった筈だ」
「そして死人に口なしなのですね」
背筋が粟立つような不快感に思わず身を竦ませていたら、三つの心配そうな視線が集まって来たので慌てて首を振る。それでも陛下は私の様子が気に掛かったのか、私の肩をポンポン叩きながらわざとらしく明るい声を上げた。
「セドリックが父様だけピピルに会うなんてズルいと泣いていたんだよ。ちょっと後宮に顔を出してやってくれないか?いいな?ファビアン、妖精姫を借りるぞ」
相変わらずの妖精姫呼ばわりに呆れ冷たい視線を送る殿下だったが、陛下の申し出を断る事なく「どうぞ」と頷いたので私は陛下とケネスお義兄様と共に後宮に向かった。
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「容態は安定している。短い時間なら話をしても差し支えないそうだ。会ってやってくれるか?」
連れて来られてのは後宮ではなく本宮の医務室だった。
陛下の後に続いて病室に入ると窓に顔を向けてベッドに横たわっていたハイドナー氏がこちらを向いた。顔色は青白かったけれど目の輝きはしっかりしており、私は密かに安堵の溜息をついた。
「人払いをする。気兼ねなく話すと良い」
陛下は私に小声で告げると一人部屋を出てしまわれたので、私はベッドの横にある椅子に腰掛けハイドナー氏に微笑みかけた。
「ピピル様……」
酷く嗄れた声でハイドナー氏が私を呼ぶ。私はハイドナー氏の手を包むように両手で握ったのだが、そこでふと考え込んだ。
「どうしました……?」
あの時、私は夢を見ていた。暗く冷たい海を沈んで行く夢を。目覚めた時、私の手を握っていたのは殿下だったけれど、その手はとても冷たくて何か違う感じがしていたのだ。やはりそうだ。寂しくて心細くて泣いていた私の手を取ったのは……
「ハイドナー様だったのね、あの時海の底から引き上げて下さったのは」
何故だろう?勝手にはらはらと涙が溢れ出てきた。意味のわからぬ事を言いながら泣き出した私を、ハイドナー氏は不思議そうに見ている。
「海底……?」
「えぇ、夜会で拉致されて意識が無かった間、真っ暗な冷たい海を沈んで行く夢を見ていたんです。でも温かい手が明るい方へと導いてくれて……あれはハイドナー様の手だったのだわ」
「あぁ、ずぶ濡れの貴女を抱えていたので殿下もかなり濡れましてね。湯浴みをされている間はわたしが側にいたのです。医者には心配はないと言われたのですが、繋ぎ留めていないと貴女が消えてしまいそうな気がして……それで思わず手を……」
「そう……」
ハイドナー氏は声を出すと喉が痛むのか顔をしかめた。私は何も話さなくて良いと言ったが首を振り「どうしても言わなければならないのです」と囁くように口にした。
「まぁ、もうお耳に入っているのね。でも大きな声を出してはダメですよ?どうなっても知らないんだから」
元祖ガミガミ男のハイドナー氏も流石にこの状態では怒鳴り声も出せないのだろう。余裕で構える私をもどかしそうに見ている。
「もっと自分を大切にと言った筈です。貴女が自由になるチャンスだったではありませんか。それなのに何故……」
「自分が自由になる前に殿下とハイドナー様を自由にしてみたくなったんです。単なる好奇心ですわ。ですからハイドナー様は早く回復なさって、どうぞ気兼ねなくさっさとドレッセンへお行き下さい。殿下はわたくしが必ずお支えするとお約束しますから」
ハイドナー氏は苦しげに溜息をつき険しい顔で私を見上げた。
「あんなに従順だった貴女が強情でどうにもならないのだとカーティスが溢していましたよ」
「いつも従順だったからこそ殿下も我が儘を聞かざるを得なかったのでしょう?ようやく貰えたご褒美みたいなものだわ」
私は自慢気にニッと笑って見せた。媚も我が儘もここぞというときの伝家の宝刀としてとっておくからこそ価値があるのだ。実際殿下は太刀打ち出来なかったではないか。
「殿下はお母様の死に対する罪悪感に押し潰されそうになりながら過ごして来られたのでしょうね。それでシルセウスでの出来事も必要以上に責任を感じてしまわれたのかも知れません。お二人に一生をかけて償う程の咎なんて無い。それなのに良心の呵責に囚われるあまり罪を背負ってしまわれたのではないですか?贖罪なんて誰の為にもならないのに」
「そうかも知れません。そして私は殿下と運命を共にしようとする事に固執し過ぎてしまった……だからこそわたしは、巻き込んでしまった貴女に、今度こそ自由を取り戻して欲しかったのです」
ぼんやりと天井を見上げたハイドナー氏の美しい緑の瞳は僅かに揺れており、やがてゆっくりと私に向けられると、そこには物悲しい光が浮かんでいた。
「それなのに、貴女はわたしが伸ばした手を振り払い、殿下を救う為に谷底に飛び降りてしまうのですね」
「ハイドナー様、わたくしを見くびっては駄目ですよ」
私は握っていたハイドナー氏の手をそっとシーツの上に下ろしゆっくりと立ち上がった。大丈夫、やってみせる。貴方を救う為にも、私は必ず殿下を救うから。
「わたくしはいつか必ず殿下の手をひいて、谷底から崖を這い上がってみせますわ」
微笑む私をハイドナー氏は寂しそうに見上げていた。




