ピピルの罪
「どうして?これは僕らの贖罪だ。ジェフリーは何度も君を解放するように僕に懇願していた。自分は僕と共に贖罪をし続ける、だから君をとね」
「だからハイドナー様はドレッセン大使就任をお断りになっているのですね」
殿下は口を引き結んで私から目を背ける。それは何よりの肯定だろう。
陛下から間もなく任期を終える在大使の後任にと打診されながら、ハイドナー氏は頑なに固持しているのだとケネスお義兄様に聞いた。ドレッセンほどの大国の大使を任されるのは大変な栄誉。しかも陛下直々に是非にと望まれながらこれといった訳も無く断り続けていたのは、やはり殿下の側を離れない為だったのか。
「ね、殿下?どうか教えて欲しいのです」
私は微笑みながら首を傾げて殿下の顔を覗き込み、上目遣いで殿下を見た。私が殿下に本気で売った初めての媚び。いきなりこんなことをするなんて思っても見なかったのだろう。殿下はぎょっとして伸び上がるように背筋を伸ばした。
「確かに持ち合わせていなかった訳では無かったらしいね。それも力量としては十二分のようだ。それで、君が媚びを売ってまで僕から得たい対価は?」
苦々しく眉間を寄せているところを見ると、殿下が言う通り十二分に効果はあったのだろう。私は満足してにっこりと笑いながらお強請りを続けた。
「わたくしは何をしたのですか?」
この人はハイドナー氏を罰しながらも誰よりも苦悩している。苦しみながらも私を巻き込んだのは決して自分達の贖罪の為だけではあるまい。何かあるはずなのだ。私自身が理由になる得る何かが。
殿下は切ない微笑みを浮かべ、それから俯いてゆっくりと首を振った。やがて顔を上げると私をじっと見つめる。碧い瞳の奥のほの暗い影は吸い込まれそうな深さだった。
「君はマルグリットが喉から手が出るほどに欲しがっていた物を持っていた」
マルグリットが手に入れられず、私が持っていたもの?
「マルグリットが湖で歌っていたのは君が落成式で歌ったあの歌だ。マルグリットは音域が狭かったんだろう。高音で歌い上げる部分を繰り返し練習しても思うように上達しなかった。それなのに君が、ごく普通の女学生の君が曲のキィを三度も上げながら何の苦もなく歌い切るのだから本当に驚かされたよ。それだけじゃない、声質も声量も音程の正確さも表現力も、全て君が上回っていた」
あの時のマルグリットにとってたった一つの逃げる術。彼女が辛い現実から逃げるために求めていたものは、歌劇団への入団を許されるだけの実力だったのだろう。でもそれはあまりにも……
「それでも殿下にはわたくしの歌がどの程度かがおわかりでしょう?歌劇団に入団することはできるかも知れない、でもそこまでです。成功するような才能には決して恵まれてなどいません。きっと名前も無いような端役として舞台に立つのが精一杯でしょうね。だからわたくしはその道を選ばなかったのです。ましてや彼女の歌がそれに劣っているのなら……恐らく彼女は何処の歌劇団にも受からなかったはずです」
殿下が気がついていない訳が無いのだ。私の才能がどの程度なのかも、マルグリットの目指したものがいかに無謀であったかも。
「そうだね、君の言う通りだ。それでも僕は君の事が気になった。マルグリットが手にできなかった物を持っている君がどんな夢を抱いているのか知りたかった。でも君は華やかな世界よりも堅実な道を進む事を希望していると聞いて、僕は……僕は無性に腹立たしくなった。全てを持っている君がその価値を自ら否定し、マルグリットが縋るしかなかった希望を冒涜している。その君は更に価値ある別の物を持っている。そんな君を……僕は、赦してはならない。……僕はね、勝手にもその想いに取り付かれてしまったんだよ」
殿下はそこまで言うと赤黒く染まった右手の手の平をぼんやりと眺めた。日が傾き薄暗くなり始めた部屋の中、言葉は途切れ静かな時だけが流れていく。やがて殿下は私に視線を移し再び話し始めた。
「あの時の僕は無理にでも理由が欲しかった。君を巻き込む為の理由だ。ジェフリーが一目で君に恋に落ちたのは間違いなかった。そして日に日に思いを募らせていることも。僕は罰を与えなければならないと思いながら、一方で贖罪に執着するあまり無関係な君を巻き込もうとしている自分が恐ろしかった。僕は卑怯にもその恐怖から逃れる為に、マルグリットの夢を冒涜した君を赦してはならないのだと、どんなに強引にでもそう思いたかった。たったそれだけの理由で、僕は本当は何一つ罪のない君から、君の家族も名前も自由も夢も希望も未来も君が培ったもの全部を取り上げてしまったんだ。君が赦してくれるとは思っていない。僕がした仕打ちを思えば当然だ。君から奪ったものの全てを返すことはできないけれど、せめて君を僕から、君を巻き込んでしまった僕らの贖罪から自由にしたい」
私を見つめる殿下は優しく微笑んでいた。でもその細められた目の奥の碧い瞳には変わらぬほの暗い影が漂っている。その淋しい微笑みは私の胸を息苦しさを感じさせるほどにギリギリと締め付けた。
殿下は茫然としながら視線をさ迷わせる私を駄々をこねる子どもに手を焼いているかのような顔で眺め、どう宥めようかと思案し言葉を探している。しかし私の瞳が殿下の瞳を捉え視線が絡み合ったその時、驚いたように目を見開いてその瞳を小刻みに振るわせた。きっと今の私は殿下が知らなかった表情を見せているのだ。
だって私はこれから、自分でも信じられない事をしようとしているのだから。
「自由になるべきなのは殿下とハイドナー様です。このままでは贖罪への柵で傷を舐め合うばかりではないですか。ハイドナー様を解放して下さいませ。それが殿下ご自身を解放することにもなるのです。寄せられた想いに応えられなかった、それは罪なのですか?偽りの気持ちで応えたら良かったのですか?もう十分です。あなた方には罪なんて無かった、あったのは良心の呵責です。お二人が一生をかけて償う必要なんてありません。どうかもう過去を足枷になさるのはお止め下さい」
彼らは長く共に歩みすぎたのだ。それは支えにもなったが呪縛にもなる。本当は互いの幸せを願っているのに、過ごした過酷な日々に縛り付けられ、もがけばもがくほど過去が彼らを締め上げている。
「それでも悔やまれるのならば彼女の分まで精一杯生きれば良いのです。彼女の分まで幸せになれば良い。暗闇に閉じ籠っていても誰の為にもならないでしょう?」
「先王陛下が言っていた。お前は忌み子だ、呪いと共に生まれ落ちた人間なんだとね。僕は光を求めてはいけないんだ。暗闇を出ようとすればきっと誰かが傷付き誰かを失ってしまう。それならば光なんていらない、永遠にね」
おばかさんね、そう言って笑顔を浮かべると殿下は戸惑い視線を泳がせる。私はまるで幼児に言い聞かせるように、そして諭すように優しく話し掛けた。
「殿下が忌み子だなんて、そんなはずあって堪るものですか。殿下はお母様の溢れんばかりの愛情に包まれて生まれていらしたのですよ。たとえ呪いが掛けられようと、そんなもの、その愛情が全部跳ね返してしまったわ。女はね、子を宿したと知ったその時からその子の母になれるのです。でも男が父親になるのは生まれた子を腕に抱いてから。哀しい別れの為にお父様は殿下の父親になる事ができなかったのではないでしょうか?最愛の妻を失った悲しみを怒りとして小さな小さな殿下に向ける事でしか生きられなかったのかも知れません。なんて淋しいのでしょう、殿下も……そしてお父様も」
憐れみではない。私はただひたすら母を知らず父に憎まれ生きてきた殿下が、そして我が子を憎む事でしか心を保つ事ができなかったその父が可哀相でならなかった。
私の頬を堪え切れずにこぼれ落ちた涙が伝わり、それに手を伸ばそうとした殿下は血濡れたその手にハッと息をのみ膝の上に下ろすとじっと見つめた。
「僕にはわからない。どうして君は憎いはずの僕の為に涙を流すの?」
「殿下が……殿下がお可哀相だからです。光に背を向けるお姿が哀しいからです」
はらはらと涙が続けて流れたが、もう殿下は手を伸ばそうとはせず代わりに固く握りしめている。私はゴシゴシと目を拭い小さくため息をついて涙を収めてから微笑んだ。
「大嫌いだったからって殿下を憎みも恨みもしておりません。わたくしはね、幸せを畏れないで欲しいのです。殿下にも、そしてハイドナー様にも。こんなにもお辛い日々をお過ごしになったのですもの、今までの分を取り戻すくらい幸せにならなくてはダメなのですよ。何よりお母様達は絶対にお二人の幸せを願っていらしたはずです。殿下はその願いを踏みにじっていらっしゃるのだわ」
「……母の願いを、か」
殿下は母を知らない。自分の命を引き換えにすることも厭わなかった母の愛情も知る術が無かった。父からの憎悪だけに晒されて少年時代を過ごした殿下には、自分の為に命を落とした母への罪悪感しか芽生えなかったのかも知れない。
「ハイドナー様に自由をお与え下さい。そして殿下も自由におなり下さい。そうすればいつか過去が二人で支えあった、温かな想い出として振り返られるようになるのではないでしょうか?」
「ジェフリーをドレッセンへ、ということか?」
「陛下もそう考えて打診されているのではないですか?お二人が柵から解放されるチャンスを与えたいと思われているかと」
殿下は窓の外に視線を送った。空には星が輝き、月明かりが部屋を照らしている。美しい真ん丸の月、私達は言葉を交わすことなくそれに見とれていたが、不意に殿下が振り向いた。『ねえピピル?』と呼び掛けた殿下の言葉は何だかやけに幼く可愛らしくて、そしてとても頼りなかった。
「情けないな、僕はどうしたらいい?これ以上の孤独が恐ろしくて堪らない。ジェフリーを止めるつもりなんて無いんだ。でもそれが現実になるとこうも不安なのか?」
「殿下は満たされていないのですよ。満ち足りないまま大人になられた、だから支え合ってきたハイドナー様と離れるのが不安なのでしょう。大丈夫です。わたくしは寂しがっている白兎を一人になんて致しませんもの」
「白兎……?」
キョトンとする殿下が可笑しくて笑い声を上げると、殿下は月明かりのぼんやりとした明るさの中でもはっきりとわかるくらい顔を赤らめた。背けてしまった横顔は不機嫌だが何時ものような冷たさはない。からかわれた小さな子どもが拗ねているみたいで何だかいじらしいなと思った。
「殿下はわたくしを自由にしてくださると仰ったわ。ですからわたくしは自分の望みを叶えて頂きたいのです」
今私が望むのは巻き込まれた贖罪から逃げることではなく絡まった鎖を断ち切ること。私になら、いや、私にだけはそれができる。だって私はこの人に必要なものが何かを知っているのだから。
「ね、殿下……どうかピピルをお側に置いて下さいませ」
私は二度目の媚びを殿下に売った。




