理由
「手首足首もお断りですけれど、これもまた随分と下らない話ですね」
私は眼鏡の奥にうっすらと透けて見えるニクスの目を睨みつけた。馬鹿馬鹿しいにも程がある。一体この男、何が楽しくて私をからかうのかしら?レンズに映る私はさっきよりもいっそう不機嫌な顔をしていた。
「ファビアン殿下の正妃に君程丁度良い人はいないさ」
「私が誰かはご存知のようですが随分と調べが手緩いですね。私は侯爵令嬢とはいえ養女です。生まれは」
「ウインズメルト。父親は市庁舎の役人で出納課長。父方は三代前から役人で、母上の実家は代々時計職人。跡を継いだ叔父上は王宮の時計の修理を任されているほどの腕だ。君は街の学校を卒業して王都の女学校に進学。二年生までの成績は中の上、だか卒業時は427人中3位。あぁ、君とは美人姉妹で評判だった姉上も同じ女学校を卒業しているね。平民とはいえ教育熱心な家庭だ。そして姉上は去年父上の部下と結婚。君は4歳からピアノのレッスンを受け、女学校で音楽教師の目に留まり声楽の個人指導を受けた。卒業後は刺繍の訓練校に進む予定だったが養子縁組が整った為辞退」
私は淡々と紡ぐニクスの言葉を聞きながら、背筋が凍りつくような不快感を感じていた。ちらりと視線を私の手元に送り抑え切れない指の震えを認めるとニクスはまたニヤリと笑った。眼鏡の奥で嬉しそうに目が細められたのが見て取れた。
「私を唆して担ぎ上げようと言うことかしら?そして私に庇護されて甘い汁を吸うつもり?平民を正妃にしようと画策するなんて、そんな実現不可能な話に私が乗るとでも思うの?」
「それを瞬時に思いつくとは流石に聡いね。でも違うよ。庇護なんかぼくには必要ない。言っただろう?王室が求めているのは青い血が流れているだけの無能な女よりも有能な君だ」
「どんな勘違いをされたのか知りませんけれど、私はただの地味で平凡な人間です。強いて言えば人より手先が器用なので刺繍が得意な位です」
ニクスはヒイヒイと笑い出した。無理に引き出したような引き攣った嫌な笑い声で聞いているこっちが息苦しくなりそうだった。もう嫌だ、こんな話に付き合う気はない。立ち上がろうとしたが『待ちなさい!』と言われ、私は身動きができなくなった。ニクスは声を荒げたのではない。優しい口調で掛けられた言葉なのに、それは何故か抵抗を許さない不思議な力を孕んでいたのだ。
「君が平凡だって?たった一年で申し分のない貴族令嬢になってみせたのに?史上最若で特許取得をしたのは誰だい?それに君は飛び抜けて勘が良くて自分がどう振る舞うべきか見極める力があるようだ。ガーデンパーティでの君の対応は素晴らしかったと絶賛されたようだね」
「それは……」
私は口ごもった。全部前世の人生経験に助けられての事だけど、ニクスに知られたら何に利用されるかわからない。
「それだけじゃない。アンドリース殿下に絡まれても騒がずに自分が悪いと引き下がった。あれは社交界に出たばかりのうら若い侯爵令嬢には難しい振る舞いだったはず。でも君は最善の方法で切り抜けた。極めつけは夜会での拉致未遂事件だな。君の判断で事件は未遂で済んだ」
ニクスは再び私の手元に視線を送り更に大きくなった指の震えを抑えるために握り締めた両手を眺め、それから視線を上げて私の顔を見つめた。
「良いかい?セティルストリア王家に必要なのは、助けに来る王子様をメソメソ泣きながら待っているか弱いお姫様じゃない。自らのろしを上げて自分の居場所を知らせる事ができる人間だ。王家はそういう人材を必要としているんだ」
「それでもありえないでしょう?下賤な者が正妃になるなんて、誰が許すと言うの?」
ニクスはまたニヤリと笑う。まるで私が言うことはすべて想定内だとでも言うように。そして今度は腕組みをして背もたれに寄り掛かりしげしげと私を眺め始める。不快な視線に堪えられず顔を逸らすと諭すようにゆっくり話しかけてきた。
「君はファビアン殿下に丁度良いんだよ。確かに一国の王妃の器ではない。それは民も許さないだろう。でも第四王子が見初めた娘だとしたら彼等は熱狂するだろうね。王子は講堂の落成式で歌う女学生の君を見て恋に落ちた。身分の差を乗り越え結ばれた市井育ちの平民の正妃、どうだい?民が好みそうな話じゃないか」
顔を背けたまま冷ややかな視線を送ってもニクスには全く怯む素振りはない。そればかりか益々機嫌良さそうに顎をあげて得意げに話し続ける。この先も私には反論出来ないことがわかっているかのようだった。
「それでも民というのは複雑でね、平民なら何でも良いとは思ってくれない。裕福な実業家の娘なら反発をされるし、逆に下町の読み書きも出来ない娘ならば正妃など務まるものかとこき下ろされる。でも君はどうだ?父親が役人、それだけで躾も教育もしっかりされた事が推察できるし、実際に女学校を優秀な成績で卒業している。しかも齢17で特許出願をした才媛だ。音楽を嗜む教養もある。そんな娘ならば立派に正妃が務まるはず、民がそう思わぬ訳がない」
「民を認めさせても貴族を認めさせる事なんて出来ない。押し切れば王家は反発されますよ」
「この婚姻には民の熱狂的な支持があり、曲がりなりにも君は侯爵令嬢で伯母は先代の王妃。兄である侯爵家の嫡男は次期宰相に内定している。しかも後ろ盾が強固にも関わらず血縁は無い。王家に新しい血脈をもたらすことができるんだ。折しも王妃が第二王子を産んでファビアン殿下の継承順位は一つ下がっている。第一王子が立太子すれば殿下は臣籍降下して公爵になるだろう。王妃ではなく数年間王弟の正妃と呼ばれるだけの存在……果たして貴族達にそこまで拒む理由が有るのかな?だから君はファビアン殿下の正妃にうってつけと言う訳だね」
「貴方は何をしようとしているの!」
初めてニクスが恐ろしいと思った。彼の言うことは一々的を射ているけれど、それを私に聞かせる必要は無いはずだ。やはり彼は私を利用するつもりで近付き、操ろうとしているのだろうか?
「心配しなくてもいいさ。君が何処に向かって流されているか伝えたかっただけ。君はこの流れから逆らえないよ。きっとね。だって無意識なまま少しずつ、君自らが流れの速い方へと進んでいるんだから」
「私は正妃になりたいなんて思わない。たとえなりたいと思ってもどうにかできるような事ではないわ。こんな話をしたところで何になるというの?」
「わかってるよ」
ニクスは不意に立ち上がり屈んで私の手首を掴んだ。それだけでまた私はふわりと立ち上がらされている。いとも簡単に操られるのが悔しくて睨みつけたがニクスには気にする素振りはなかった。
「さぁ、もうお行き。安心して。ぼくが君の前に姿を現すことはもう二度と無い。ぼくは危険なことをしようとしているんじゃないんだ。ただ、きっといつか君には戸惑い苦しむ時が訪れる。それを少しでも楽にしてあげたかっただけ」
私は黙ってドアに向かいそのまま廊下に出ようとしたが振り向いてニクスを見た。彼もまた、私をじっと見つめていた。
「貴方は重要なことを見落としているの。私を正妃にするなんて、ファビアン殿下は絶対に承知しません。私と殿下には心の通い合いが無いからよ。貴方は学者として新しい血脈を欲しがっているのかも知れない。でもね、どんなに素晴らしい学術でも人の心は操れないわ」
「御忠告痛み入るね。」
私はまたニヤリと笑いかけてきたニクスを残して部屋を出た。そして彼の言った通り、私がニクスに会うことはそれ以降二度と無かった。




