ローブの男
臨時の養育係はめでたく解任になったが、私はその後も毎日王宮に通っていた。春になったら申請するつもりの特許の準備の為に敷地内の王立図書館で調べ物をしているのだ。今度のはヨーロッパの伝統工芸の刺繍をアレンジしたものなんだけれど、この世界にそれと近い物が無いか確認しなければならない。これがねぇ、需要が少ない資料なもので、並んでいるのはほぼ間違いなく本棚の最上段で脚立必須。
脚立を登って本を選んで降りて読む……を繰り返すうちに疲れちゃって段々登ったまま目を通すようになった。このあたりはマニアック過ぎて誰も寄り付かないから大丈夫、だと思う。アルがついて来ると脚立に登らせてくれないのよね。取って貰うより自分で選ぶ方が早いのでアルくんは入り口で待機してもらっている。脚立の事は伏せているけど。
……という気の緩みがいけなかったのだ。
「ねぇ、いつになったら降りて来るつもり?」
突然掛けられた声に慌てて振り返るとローブを纏った見たことの無い男性が立っていた。グレーのもじゃもじゃの癖毛にもじゃもじゃの髭。黄色っぽい分厚いレンズの眼鏡をかけていて顔立ちなんてほぼわからないが、スッと通った綺麗な鼻筋の持ち主なのはよくわかった。そして結構背が高いと思う。何故なら私が着ているのはふくらはぎが隠れる長さのワンピースなんだけれど、この男性、ジャストに目線に来ているスカートの裾から覗く私の足首を、至近距離からじーっと眺めているのだ。
変態だ。変態が来た!
スカートがめくれないように注意しながらそろそろと脚を動かし、床に降り立つとニッコリと微笑みかけた。
「脚立を使われるんですよね?お待たせしてすみません」
そうだ、この人は脚立待ちをしていただけ、待ちくたびれて催促しただけ。そうに違いない。
……お願いです、そうでありますように!
私はぺこりと頭を下げ走って逃げようとしたが、コイツはやっぱり変態だった。ガシッと腕を掴んで顔を覗き込んできやがったのだ。
「ぼくは使わない。ただ女の子があんな所で夢中になって本を読んじゃダメだよって言いたいだけ。特に君みたいな足首をした子はね」
「君みたいな?」
「細けりゃ良いって訳じゃない。健康的なふくらはぎからのくびれ方が何とも言えないだろう?」
「……やっぱり変態さんでいらっしゃるのね」
男性はニヤリと笑った。
「失礼だなぁ。ぼくは変態じゃなくてニクス。友達になろう」
「嫌です。胡散臭いから」
ニクスと名乗った男性は腕を離した……のは良いのだが一瞬で私の右手を取り空いている手でスッと袖を押し上げ手首を握った。
「君、手首も素晴らしいな。二の腕も掴みやすい細さだったしさ。胸が大きくても丸太みたいな腕をしているのは好みじゃないんだよね」
いや、ピピルちゃんのお胸、小さ……くはないよ!いや、平均よりもちょっと大きい位だよ。失礼しちゃうわ。悔しいかな、確かに巨乳ではないのは否定しないけど。
「気持ち悪いので失礼しても良いですか?ダメなら大声上げて護衛を呼びます」
久々のセクハラにげんなりしながら言うとニクスは肩を竦めた。
「怒らないでよ。友達でしょう?探している資料は何?明日までに揃えてあげる。ぼく、ここに顔が利くから」
ニクスが纏っているローブの縁取りは銀色の精緻な織物で、転生者のイメージとしては名門大学の教授くらいのポジションにある者に与えられる品。まだ若いニクスは相当優秀な学者だと言うことだ。それなら変人でも変態でも解るような気が……いや、セクハラは許しちゃいけないのだけれど、どうもこの人、不思議と憎めないんだよね。それにきっと頼めばビシッと資料を揃えてくれるだろう。けれど……でもやっぱり胡散臭過ぎる!
「専門的なものなので説明が難しいんです。お気持ちだけ頂いておきます」
「ぼくの気持ちを受け取ってくれるなんて嬉しいね」
「取り敢えずなので一旦受け取って後で捨てるつもりです」
ニクスははへらへら笑ったが突然真顔になり握っていた私の右手を引きよせた。一瞬の事で声を上げる間もなく、気づいた時には肩を抱えられ右手で顎を固定されている。痛くはないけど何故かガッチリホールドされていて、もがいても動くことができなかった。何よこいつ、頭だけじゃなくて身体能力も高いわけ?
「どうかなぁ?そんなに潤んだ瞳でぼくを見つめているじゃないか」
近い、近いぞ顔が近い!
「私、いつも涙目なんです。それからですね、見つめていたのは眉毛ですよ」
「何だって?」
フッと拘束が緩んだので慌てて飛び退き、そのまま横にぴょんぴょん跳ねて距離を取ってから眉毛に向けて指を指した。
「眉毛だけ違う色って珍しいなと思っただけです。髪や髭を染めているのなら、お洒落は眉色まで揃えるのが鉄則です。でもどっちも地毛なら余計なお世話で失礼しました。では!」
言い終わるなり、いや、言い終わらぬうちに走り出し図書館を駆け抜けた。まったく、なんてヤツだろう!肩が上下しているのは息切れのせいだけじゃない、ピピルちゃんはプンプンだよ。
けれどもふと立ち止まり首を捻った。そう言えば私、物凄く腹は立ったけれども少しも怖いとは思わなかった。アンドリース殿下に手首を捕まれた時はあんなに怖かったのにどうしてだろう?
だからってお近付きになんて絶対になりたくない。
翌日は時間をずらして行くことにした。昨日は午後だったが今日は朝から行ってみる。警戒しながら図書館を進んだけれどニクスの姿は無くてほっとした。いつものように脚立をがたがたと移動させていたら『もしもし……』と声を掛けられビクッとしたが、それはローブを纏った男性で……でもニクスではなくもっと年配の人。ローブの縁取りは臙脂だからニクスよりもポジションは下のはずだ。
「ニクス様の指示で資料を揃えてあります。あちらにお席を用意しましたからお使いください」
臙脂ローブの男性に案内されて付いていくと、奥まった一角に机が置かれ探している資料が積み上げられていた。臙脂ローブ氏は質問する間もなく一礼するとそそくさと逃げて行ってしまった。
ニクスの思い通りになるのは嫌だけど利用してやると思えば良いか、と椅子に腰掛け資料に目を通す。どうして探していた物がわかったのか不思議だが、ちゃんと必要な資料が選んであった。脚立で読んでいた本を見たから?わからないけれどニクスってただ者ではないのかも知れない。
次の日は離宮詣でだったので執務室に呼ばれた後で行ったからかなり遅めの時間だった。机には数冊の資料が増やされて、必要なしと分けておいた物は片付けられている。おかげで昨日今日の二日間で随分仕事が捗った。特に今日は短時間しか居られなかったのに、脚立の上の何倍も進められた。
その次の日はお昼から。やはり昨日の帰り際に分けておいた不要な資料は片付けられていた。ニクスに命じられて誰かがやってくれるのかな?本当にニクスって何者なんだろう?
ぼんやりと考えてみたが資料を開ければそちらに夢中になる。調べてメモをとって、と黙々と作業していたら急に手が伸びてきてパタンと本を閉じられてしまった。ムッとして見上げると立っていたのはやはりニクスだった。
「集中し過ぎ。そろそろ休憩しようよ」
ニクスはそう言うと私の手首を掴んでふわりと引いた。それだけで自然と立ち上がっちゃうのって、合気道みたいな技術なの?そのままスイスイと連れていかれ廊下を抜けるとドアが並んでいる一角があった。
「お茶を飲む部屋を用意した。大丈夫、ドアを閉めたりはしないよ」
まあ用意が良いこと。
ニクスみたいな変態のセクハラ男と二人っきりで部屋になんか入るのは気が進まなかったけれど、意識していると思われるのは癪なので何食わぬ顔で中に入る。部屋では丁度メイドさんがお茶を煎れているところで、ニクスと私にお茶と焼き菓子を出しドアを少し開けたまま出て行った。
「色々用意して下さってありがとうございました。お蔭様でかなり捗りましたので、この先はもうお気遣いして頂く必要はありませんわ」
ニクスは顔をピクリと動かした。しょんぼりした……のかも知れないがよくわからない。どんな表情を浮かべているのか伝わって来ないのだ。顔の半分は髭で覆われているし、おまけに眼鏡が大きくなっているんだもの。
私がしげしげと眼鏡を見ているのに気がついたのか、ニクスがニヤリと笑った。流石にニヤリと笑うのはわかるものなのね。
「眉毛がお洒落じゃないって言われたから眼鏡を変えた。眉毛が隠れただろう?友達には好印象を持って欲しいからね」
「えぇまあそうですね。悪印象なのは眉毛のせいではありませんが。それに、友達ではありませんし」
「じゃあ恋人でも良い?」
「叫んでも良いでしょうか?」
ニクスは聞いちゃいないと言わんばかりにお茶を飲んだ。綺麗な所作だったのできっと高位貴族の出なんだろうな。髭もじゃの変態セクハラ男だけどね。
「君と話がしたいんだ。手助けして空いた時間をくれないかな?」
「手首足首の話ならお断りです」
「違う、そうじゃない。ねぇピピルちゃん、君は自分の立場をどう考えているの?」
ニクスの大きくなった眼鏡のレンズには不愉快そうに眉間を寄せて顔をしかめた私が映っている。私の事を調べた上で直接接触してきたのか。この人、一体何がしたいんだろう?会って間もないとんでもなく得体の知れない人なんかに本音を話すはずないじゃないの。
「有り難くもファビアン殿下の側室候補として名前を上げて頂いております」
「君はいずれ側室になるつもりって事かな?」
「わたくしには何とも。お決めになるのは殿下ですので」
ニクスは背もたれに身体を預け脚を組んだ。ローブの下に隠れていた脚はスラリと長い。そして右肘を背もたれに乗せ左腕は組んだ膝に置く。髪も髭ももじゃもじゃなのに、こういうポーズするとキマルんだね。もじゃもじゃなのに生意気だよ。
「セティルストリア王室で側妃や側室が認められるようになった理由を知っている?王家と高位貴族の婚姻を繰り返したせいで血が濃くなりすぎたんだ。出生率が下がり体が弱く幼くして命を失う子が増え、明確で強力な王位継承者が減り混乱が生まれた。側室がもたらす新しい血脈は外国から嫁いだ正妃と同じくらい重要なんだよ」
私は呆気に取られて顔をしかめたまま首を傾げた。それで私に何を言いたいと言うのか?早く側室になれるように殿下をたき付けろ、そして血縁の薄らいだ子どもを産めって事?
ニクスは私の疑問を読み取ったのかククッと笑って『違う違う!』と左手をヒラヒラと振った。
「そうじゃないんだ。もっと単純なことさ」
ニクスは組んでいた脚を解き膝に両肘を置く。そして両手を握り合わせその上に顎を乗せた。
「無能な正妃はいらないって事だよ。いっそ君が正妃になれば良い。」




