君がいて良かった
お義父様のご機嫌はなかなか直らず漸く離宮詣でを再開したのは秋も深まった頃だった。いつもは出迎えてくれるカーティスさんの姿が見当たらなくて不思議に思いながら馬車を降りると一人の侍従が慌てて駆け寄って来るのが見えた。
「ピピル様、侍従長がお呼びです。このまま殿下の執務室にお入り下さい」
侍従さん、結構パニックだけど大丈夫なのかしら?何だか変な事に巻き込まれそうな予感しかしないんだけど。
急ぎ足の侍従さんにトコトコとついて行き執務室の前まで来たら中から言い争う声が聞こえた。カーティスさんとハイドナー氏と殿下の三人分だ。侍従さんの顔を見るとこくこくと頷いている。収拾がつかなくなって私を呼んだって事ね。
ドアをちょっと開け中を覗くと殿下VSカーティス、ハイドナー同盟の言い争いになっているらしい。これはやっぱり面倒くさそうなのでそのまま閉めてしまおうとしたその時、カーティスさんとバッチリ目が合ってしまった。
「ピピル様!お待ちしておりました。さぁ、この頑固者に一言言っておやりなさい!」
言っておやりなさいってそんなぁ、嫌ですよ!私関係ないもん。振り向いた殿下はいつにもまして、三割増し程度で不機嫌だし。そう思いながら何気なく見た殿下の手元で理由がわかった。右手をくるんだ白いハンカチに血が滲んでいる。怪我をして、医者に見せる見せないで揉めている訳ね。
「どうされたんですか?」
近付きながら尋ねたが殿下は顔を背けてしまった。仕方がないのでハイドナー氏に向かって首を傾げて見せたが彼も何やら口ごもっている。任せておけないと思ったのかカーティスさんが割り込んだ。
「猫に、猫に噛まれたのです!」
「猫?」
「はい、庭園にいた猫にがぶりと!」
急いで殿下に駆け寄りハンカチを外して傷口を見た。小さな傷だけれど深そうだ。
「殿下、猫の噛み傷は深くて見た目よりも重症です。猫の口の中は雑菌が多いのでパンパンに腫れ上がるだけではなく高熱が出ることもあるんです。政務に差し障りが出ますよ。ですから診察を受けて下さいませ」
殿下は怪訝そうな顔で私を見ていたが、私は構わずに廊下にいたさっきの侍従さんに医者の手配を頼んだ。それから殿下を洗面所に連れていき、水を流しながら傷口を洗う。私から出ている否応なしというオーラを感じたのか、殿下は不機嫌ながらも大人しくされるがままになっていた。
やがて先生が連れて来られたので私は一旦廊下に出てアルと顔を見合わせた。アルくん、にやけるのをやめなさいね。
「殿下、猫がお好きなんですよ。引っかかれた事は何度もありましたけれど、噛まれたのは流石に初めてです」
「え?そうなの?」
元氷雪の王子、もふもふ好きだっんだ……
「暫く前に庭園に迷い込んだ猫が子猫を産んで、それから気にされていたみたいで……ほら」
アルが目線で指し示したドアは殿下の私室の奥にあった。ほらって何よ、とアルの顔を見たけれど相変わらずにやにやしている。ムッとして睨むと涼しい顔で目を反らされてしまった。アルめ!
そこに先生が出て来られ、私に気付いてにこやかに笑い掛けてきた。
「あのままでは大事になっていました。ピピル様が説得して下さったとか。ありがとうございます。しっかり処置をしておきましたので心配はないでしょう」
ありがとうございましたと頭を下げると、先生はちょっと失礼、と言いながら私の首筋に触れた。
「しこりは残らなかったようですね。侯爵閣下がいつまでも加減が良くないと仰っているとの事で不思議に思っておりましたが、回復されていて何よりでした」
「先生がわたくしを診て下さっていたのですか?」
先生は頷いてふっとドアに目をやると囁き声で耳打ちしてきた。
「薬よりも濡れて体温が下がったのが心配でね。一刻も早くと言っているのにあの時の殿下には困ったものでしたよ」
意味がわからずぽかんとしている私に一礼し、先生はスタスタと去って行った。
まったく、アルも先生も何なのかしら?
「ピピル様」
カーティスさんに呼ばれ執務室に入ると、ソファに座った殿下の右手には包帯が巻かれていて、ペンが握れず書類が書けないとハイドナー氏に文句を言っているところだった。
「治療しなければその包帯の三倍くらい腫れるんですよ。そのくらい我慢なさいませ」
「どうして君がそんなことを知っているんだ」
不機嫌そうに言う殿下の目を直視して満面の笑みを浮かべ
「市井育ちですから」
と答えると更に不機嫌になって黙ってしまった。本当は前世で猫と暮らしたからだけどね。
「猫を飼った事があるのか?」
ポツリと口を開いた殿下に頷くと殿下は暫く黙って何か考えていたがスッと顔を上げて私を見た。
「母猫が何かにやられたらしく酷い怪我をしていてこのままでは死んでしまうと思ったんだ。捕まえて篭に入れようとしたらフラフラのはずの母猫に噛まれた。様子を見ていたんだが戻って来る気配はないし、カラスが集まって来てしまったから仕方なく子猫達だけを連れてきた」
「そうでしたか」
「護衛達に騒がれて逃げて行ったが、あれでは長く無いだろうな。できれば一緒に連れてきたかったのだが」
人に馴れずに大人になった猫を保護するのは難しいからね。勿論治療してやりたいけれど、怪我をした上に驚いて逃げたのならもう姿を見せることは無いかも知れない。
「子猫を見るか?」「はいっ!!」
思わず喰い気味に返事をした私を殿下がギロッと睨んだ。そんな事はどうでも良い。子猫ちゃんはどこですか?とキョロキョロしたけれどそれらしいものは見当たらない。
「ここではない、こっちだ」
立ち上がった殿下が執務室を出て行ったので慌てて追いかける。執務室の隣が殿下の私室、その隣のドアを開けるとそこは居間で左側にあるドアからも私室に入れるらしい。殿下は居間を突っ切って反対側にあるドアを開けた。
あの……この構造、私聞いたことがありますけれど。そっちが殿下の私室って事はこっちは……私が入っちゃダメなんじゃないかなぁ。私、立場的には愛人みたいなものですし、いくら今該当者が未定でもこういうのは良くないよね?カーティスさんなら上手く説明してくれるんだろうけどついて来てくれていないし。ついでにハイドナー氏もいないしアルは廊下だし。
私がもじもじしていると先に部屋に入った殿下が戻って来てドアから顔を出した。
「何してる?早くおいで」
その腕には真っ白の子猫が抱かれていて私に向かって『みゃー』と言った。えぇ、子猫が。私に向かって!
子猫からのお誘いとあっては断れないのでそそくさとついていく。
そこは家具こそ何も置かれていないけれど、花柄の壁紙やフリルたっぷりのカーテンから察するにやはり正妃様用の私室だった。でも今の主は三匹の子猫。殿下が抱いていた白ちゃんの他に茶トラと茶白、もう目が青くないし一キロ位はありそうだから生後二ヶ月ってところかな?元気にぴょこぴょこ走り回っている。足元を通り掛かった茶白を捕まえて抱き上げるとゴロゴロと咽を鳴らしはじめた。
「あらまぁ、そんなに嬉しいにゃん?」
子猫の咽はさらに大きな音を立てた。
「撫でられるのが大好きなんだにゃ」
ちょっと痩せているけれど健康状態は良さそう。乳歯もしっかり生えている。しっぽを持ち上げてじっと見てから殿下に声をかけた。
「この子は男の子です」
「あ、そ、そうか」
次は茶トラ。茶トラの雌って割と少ないのよね。抱き上げるとこの子もゴロゴロ言う。おでこの縞模様が木の葉みたいになっていて面白い。
「お前はおでこに葉っぱがついてるにゃ。お洒落さんですにゃあ!」
この子のしっぽは鍵しっぽ。傘の柄みたいに曲がっている。持ち上げて暫し観察……
「この子も男の子です」
「そうか」
最後に殿下の抱いている白ちゃんを……と思ったけれど私が抱こうとしたら暴れたのでピンと来た。ま、抱いちゃえば大人しくなったけれど。この子だけは青いお目目。頭の上だけうっすらとグレーの毛が生えている。
「あにゃたはとっても美猫さんですにゃあ」
「雌なのか?」
「多分そうですよ。……ほらおんにゃの子!」
私の腕をビンビンと蹴り出したので殿下に返すと大人しくなった。
「女の子はお父さん子って言うでしょう?猫も一緒です。男の子だと逆ですけれどね」
もちろん当てはまらない子も居ますけれどね、と言いながらまた寄ってきた茶白を抱き上げる。撫でるとすぐにゴロゴロが始まった。
庭園育ちで人を見慣れているのか、野良猫なのに随分人慣れしている。殿下も気にしていたってアルが言っていたものね。お母さんに食べ物をやっていたのかも。
「もうこの子達、肉が食べられます。鶏の胸肉を茹でたものが良いですね。それから牛乳はお腹を壊すので片付けて代わりにお水を。後は浅い桶に砂を入れたものが必要なので用意しましょう」
「何のために?」
「トイレです」
そうか、と呟いて殿下はまじまじと私を見た。
「君がいて良かった」
お読み頂きましてどうもありがとうございます。
殿下……
ピピルちゃんの存在意義とは一体……。




