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平凡なピピルと氷雪の王子の四年間  作者: 碧りいな
にどめの春
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歪んだ贖罪 


 わたしには何が起こったのか理解することができなかった。殿下はただ何らかの理由で彼女に興味を持っただけで、好意を寄せた様子など無かったのは間違いないのだ。どういう事なのかと詰め寄ったわたしに対して、殿下は恐ろしいほどに冷静だった。


 「平民を側室侯補にするなんて、どれだけのリスクがあるかお分かりでしょう。彼女は家族から引き離されて知らない世界に放り込まれるんです。彼女が望んでいる訳でもないのに何故追い込むような事を。それを僅かな時間でここまで進めてしまうなんて正気の沙汰ではない」

 「あぁ、確かに僕は正気ではないな。でもそれはお前のせいだ。僕はマルグリットの為にお前に新しい罰を与えなければならない。僕が知らないとでも思ったのか?お前が彼女に心を奪われたのはその瞬間に気がついたさ。むしろお前が自覚するよりも早くな」

 

 息を呑んだまま、わたしは何も言い返す事ができなかった。わたしは気付いていたのだ。どんなに忘れようとしても、それとは裏腹に彼女を想う気持ちが日に日に強くなる。相手は十も年下の女学生ではないか。よりによって一度も言葉を交わしたこともない少女を愛してしまうなんて。

 殿下に知られる前にこの気持ちを消してしまわなければとどんなに焦っても、もう自分でもどうすることもできずにいたのだ。


 「愛する者のすぐ側に居ながら決して手が届かないのはさぞ辛いだろうね。だって、お前が愛している彼女は僕の側室侯補なんだから」

 「…………殿下……」

 「お前は永遠に苦しむんだ。家族と引き離された彼女が歎き悲しんでも慣れない生活が苦しくて涙を流しても。もしかしたら彼女が僕に思いを寄せるかも知れないし、側にいるお前を愛してしまう事もあるかも知れない。それでもお前は彼女に手を伸ばす事は出来ないんだ。だってお前が取らなければいけなかったのはマルグリットの手だったんだからね」

 「わたしは初めから彼女に近付くつもりなどありませんでした。彼女の事はきっぱり忘れます。無関係の彼女をわたし達の贖罪に巻き込んではいけません。どうかお考え直し下さい!!」


 必死に懇願するわたしに向かって殿下は優しい微笑みを浮かべている。しかしその碧い瞳の底には黒い陰が広がり恐ろしいほど冷え切っていた。


 「ジェフリーが考えている以上に僕はお前がどういう人間か理解している。お前にはもう彼女の事を忘れるなんて出来るはずがないんだよ。せめてお前はすぐ側で彼女を護りながら、悲しみも苦しみもその目に焼付ければ良い。判っているだろう?彼女の退路は既に断たれている。今から出来るのはそれだけだ」


 わたしは初めて殿下に対して恐怖を抱いた。あの経験がそんなにもその心に歪みを生じさせてしまったのか、今の殿下は完全に常軌を逸している。


 どれ程食い下がっても無駄だった。殿下は決してその恐ろしい考えを変えようとはしない。もうわたしに出来るのは彼女の側で見守る事、ただそれだけしか無かった。


 ∗∗∗∗∗∗∗∗∗∗


 「ピピル様の人生を狂わせたのはわたしの責任です」

 

 ハイドナー氏の唇は僅かに震え、私を見つめる緑の瞳は深く傷付いた暗さを宿しているようだった。その瞳に捕らえられながら私の心はぐちゃぐちゃに乱れていたが、それでも頭の中は驚くほど冷静だった。私が家族から引き離されたのも、将来の夢を捨てなければならなかったのも、全ては自分とは無関係の贖罪の為だったなんて。


 ……それなのに……それなのに何故?……何故私には怒りが湧いて来ないの?


 「わたくしにはハイドナー様を責める理由がありません」


 自分でも自分の気持ちが良くわからない。でもやっぱり私の心の中には怒りも悲しみも生まれなかったようだ。


 「ピピル様、わたしは貴女を大切な家族から引き離し貴女の人生を壊してしまったのですよ」

 

 違う。ハイドナー氏が私を巻き込んだのではない。彼は殿下を止められなかっただけ。罪悪感に苛まれ暴走する殿下を止める術が彼には無かったのだ。


 「だって貴方が望んだ事ではないでしょう?勿論理不尽だとも酷いとも思いますし納得なんて到底できません。こんな事のために権力を振りかざした殿下には当然憤りを感じるし、贖罪に対する執念には恐ろしさすら覚えます。無理矢理連れてきておきながらあんな態度を取られているのも不愉快です。何よりわたくしは今のこの暮らしではなく、あの頃思い描いていた人生を歩みたかった。でもそれは……ハイドナー様、貴方のせいではないわ」


 多分きっと、ハイドナー氏は私から涙ながらに怒りの言葉をぶつけられる事を望んでいたのだろう。今私がしているのは彼にとっては辛さを募らせるだけの事なのかも知れない。それでもやっぱり私の胸には彼への怒りは沸き上がらなかった。


 「あのままの日々が続いていたなら貴女は誰かと恋をして、今頃は幸せな花嫁になることを夢見ていたかも知れません。貴女を手放すしかなかったご両親にとってもそれは望んでやまなかったこの上ない幸福だったはずです」


 幸せな花嫁ね、と呟きながらダリアの花を指先でつつく。この世界の価値観では理解しがたいだろうなあと思うとつい意地悪な笑いが込み上げてきたが、私は真っすぐハイドナー氏を見た。


 「わたくしね、何故か物心ついた頃から結婚願望が一切無かったのです。それよりもやり甲斐のある仕事で身を立てて独りで生きて行きたいと思っておりまして。それを心配していた両親はこのお話を頂いた時に、何時までも頼りない独り身で暮らす娘を案じる位ならば、遠い異国に嫁に出すと思えば良いのだと喜んでおりました。幸せな花嫁になりたいなんて願望は元々持ち合わせておりませんでしたから、ご心配には及びません。貴方は幸運でしたわね」


 私はにっこり笑ってそう言ったけれど、やはりハイドナー氏は眉間を寄せて咎めるように私を見ていた。


 「それとも一生恨み続けてやるから覚えておけとでも言えば満足されるのかしら?……ご希望でしたら善処しますけれど」

 「希望などしなくても恨まれて当然なのですがね」

 

 そう、何時ものように受け入れてしまえば良いのだ。自暴自棄といえばそれまでだけれど、これができちゃうって一種の転生者のチートとも言えるんじゃないかしら。だから私ならできる。


 「だからといってわたくしは殿下を恨むつもりもありません。大丈夫、大丈夫なんです。何故かは上手く言えないのですけれど……諦めが良いのだと思って下さい」

 

 私はここで彼らを見守る。私に出来る事なんて何も無いけれど、彼らが愛情に飢え深く傷付き過去に苛まれて苦しんでいるのなら。記憶を持って生まれ、まるで自分を俯瞰するようにして諦めて割りきって受け入れる事を選んできた私にならできる。いや、私だからできるのだ。


 ハイドナー氏の顔にはありありと戸惑いが浮かんでいたが、私はお構いなしに次のお願いを続けた。


 「この事は殿下には伏せて頂けますか?カーティスさんが殿下は変わられていると嬉しそうに仰っていたんです。本当に殿下の事を心配されているんでしょう。今殿下のお耳に入ればカーティスさんをまた心配させてしまう事になるかも知れません。だから、いつかわたくしから殿下に……お任せ下さいませんか?」


 ハイドナー氏は俯きながら溜息をついて額に片手を当てる。まるで心底呆れたというかのようだった。


 「ピピル様、こんな時はわたしから聞かなかった事にしておいてくれと頼むものですよ」

 「じゃあこうしましょう。ハイドナー様、言わなかった事にして下さい」


 貴女には敵わない、再びそう呟きながらハイドナー氏は天を仰ぎ何度か瞬きをしてから私に顔を向けた。いつもの意地悪そうな少しだけ口元を歪め笑いを堪えている顔だった。


 「わかりました。ではわたしからもお願いします。ピピル様、何も聞かなかった事にしてください」


 頷く私を見てハイドナー氏は立ち上がった。見送る為に私が立とうとするのを制して、何故か身体を屈め耳元に顔を寄せる。


 「カーティスが貴女を鈍感娘と言っていましたが、なるほどなと思いましたよ」

 

 何の事かとポカンと口を開けた私を残し、ハイドナー氏は去って行った。その姿が見えなくなってから私は漸く物凄い爆弾を落とされていたことを思い出し、顔から火が出るように熱くなった。きっと耳まで赤くなっているに違いない。

 真剣に聞いているし一生懸命考えていた。でもやっぱり目線が俯瞰的になっていたのか頭からすっぽ抜けてしまったのだ。


 そういえばあの人、私が好きだって言ったんだよね?


 お望み通り聞かなかった事にしよう、そして一切無かった事にしよう、と私は自分に言い聞かせた。


 

お読み頂きありがとうございます。

ものすごーーーく苦しいところでしたがどうにか乗り越えました。

次回からいつものピピル視点に戻ります。

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