シルセウス③
セティルストリアが動くと知らされたわたし達は、辛うじてシルセウスを逃げ出したが国境の峠を三日間さ迷った。疲れと飢えに加え夜の激しい冷え込みに、身体一つで逃げてきたわたし達は、三日目の夜、ついに動く気力も無くし寒さに震えながら満天の星空を見上げていた。
「僕たちはここで死ぬべきなのかも知れないね」
ぽつりと言った殿下の言葉にわたしは頷いた。セティルストリアに帰れたところでどうなるのだ。わたしにも殿下にも待っていてくれる人などいないのだから、このまま野たれ死んでも構わないだろう。
「殿下を一人にはできません。先には逝ったりはしませんが、大丈夫、すぐに追いかけますよ」
殿下は力無く笑った後、わたしをじっと見つめて言った。
「ここで死ねば、マルグリットは許してくれるだろうか?」
あの日以来、殿下がマルグリットの名を口にするのは始めてだった。わたし達はそれぞれの悔恨でのたうち回るような苦しみを味わっていた。殿下はマルグリットに恋をしたせいで彼女に深い傷を負わせてしまった事を、わたしはマルグリットを受け入れず絶望させてしまった事を。だからこそ、お互いに彼女の話をするのを避けていたのかも知れない。
「ジェフリー。マルグリットはお前を利用しようとしたんじゃない、本当に好きだった。お前と一緒にシルセウスから逃げ出したかったんだ。僕は……僕の事など捨てて二人で逃げてしまえば良いと思っていた。お前が早くマルグリットの気持ちを受け入れてくれないかと願っていたんだ」
「それができれば彼女は死なずにすんだのかも知れませんね」
そうだな、と殿下は呟いた。
「もし生きて帰れたとしても、これからも僕を支えてくれるのか?」
「わたしは殿下と一蓮托生でしか生きられませんから」
「偶然だな、僕も同じだ」
殿下はさも可笑しそうにくっくと喉を鳴らして笑い、釣られてわたしも笑った。漆黒の森にはわたし達の乾いた笑い声が響いていたが、突然殿下は笑うのを止め、わたしの肩を掴んで顔を覗き込んだ。
「この先も僕らが生きながらえるとしたら……命で償うことが叶わないのなら、僕はマルグリットの為にお前に罰を与えなくてはならない。お前が手を取らなかったから彼女は命を断ったんだ。でもそれはジェフリーだけじゃない、僕のせいでもある。だから同じように僕も罪を背負っていく。僕たちにはもう人を愛する資格は無いんだ。僕はもう、誰のことも愛さない、そしてお前が誰かを愛することも許さない」
そんな事かとわたしは微笑みながら頷いた。確かにマルグリットを死なせたわたし達にはそんな資格は無いだろう。それが彼女への贖罪になるのなら容易い事だ。そして殿下と共にこの苦しさを抱えて生きながらえれば良い。
体力は限界だった。もう朝日を見ることは無いかも知れないと思いながら、わたし達は寄り添って眠った。もしも朝が訪れたなら、それを贖罪の始まりとしようと心に誓いながら。
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「翌朝、わたし達はファーディナンド殿下に派遣されたケネス様率いる捜索隊に保護されました。ファーディナンド殿下だけはわたし達の無事を願ってくれていた。その時わたしはいずれ国王になる殿下がわたしを必要だと言ってくれるのなら国の為だけに生きて行こうと心に決めたのです。それから十年、わたしと殿下は死に物狂いで仕事をこなしてきました。それだけがわたし達の存在する価値でしたから」
何を見るでもなく遠くにあったハイドナー氏の視線が突然こちらを向いたので、私は眦を下げ微笑む彼と目を合わせる事になった。
「わたしは罪を償うなんて容易い事だと思っていました。好意を寄せてくれる女性が現れても、わたしの心が動かされた事など一度も無かった。わたしの人生には人を愛する事などないのだとそう思っていたのです。でもそれは、浅はかなわたしの思い込みでした。あの日エクラの木の下にいたのは貴女だったのです」
私は僅かに首を傾けた。私の疑問を読み取ったかのようにハイドナー氏の言葉は続く。
「講堂の落成式があった日です。講堂に向かう廊下の窓から何気なく外を見ると、中庭に集まっていた女生徒達から離れて貴女だけがエクラの木の下に居るのが目に留まった。花吹雪の中でじっとしている貴女はひどく物悲しそうに見えて、わたしは貴女が……虐められているのではないかと妙に気に掛かったのですよ」
「虐められているですって?」
思いもよらない言葉に思わず声を上げてしまった。本番前に最後に確認したいことが色々あったから一人で離れていたけれど、この人の目にはそんな風に見えていたなんて!
「そんな貴女が何となく頭から離れなくて……幕が上がり歌い始めた女生徒達の顔を見回しましたが貴女は見当たらなかった。やはり何かあったのかと思ったその時上手に現れた貴女がたった一人で舞台を歩き出し中央に立った。わたしはそこで初めて自分の勘違いに気がついたんです。あの娘は……あの娘は緊張していただけじゃないか?ってね。わたしは……自分の勘違いが何だか可笑しくて……」
「実際は緊張だけじゃなくて集中していたんですけれど」
それも勘違いですから、と私はムスッとして言った。ハイドナー氏は俯いて額に手を当てながら肩を震わせて笑いを堪え、どうにか落ち着いたのかまた顔を上げた。
「えぇ、今はそう思っていますよ。貴女は集中すると周りが見えなくなりますからね。ご自分では意識されていないようですが。先程だってわたしがすぐ側に居るのに一向に気がつかれなかったでしょう?」
アンドリース殿下とのトラブルの時にも言われたけれど、無自覚なまま度々やっていたんだろうか?でもこういう癖があるのは確かだからハイドナー氏の言う通りなんだろう。結構恥ずかしい。こんな大事な話をしているのに、また口を歪めて見られているし。
「でもその時、貴女が歌い出したんです。途端にわたしは雷に撃たれたかのような衝撃を受けました。貴女は歌う喜びで輝いていて、貴女の歌声には希望が溢れているようだった。わたしは……天上から天使が降りてきたのだと、そう思いました。そのくらい、歌う貴女は神々しかった」
私は何だか顔を見ていられなくなってまた手元の花束に視線を落とした。どうなんだろう?私は本当にそんなに幸せそうに歌っていたんだろうか?逃げ出す為に必死に歌っていたマルグリットの姿が目に焼き付いているからこそ、私がそんな風に見えたのではないの?
「あの時殿下も貴女に興味を持たれたのは間違いありません。滅多にしようとしないお声掛けを所望されて驚きましたから。でも引きずられるように出てきた貴女は王子に名指しされたというのに光栄に思うどころか傍目にもさも迷惑そうに見えました。スカートを握り締めて小さくなっている貴女は、舞台に居た時とは、いえ、エクラの木の下に居た時とも全然違う貴女で、わたしは……わたしはこんなにも豊かに表情を変える貴女を可愛らしいなと、そんな風に思ったんです」
びっくりして顔を上げたがハイドナー氏の視線はまた遠くに移っていて、目に入ったのは整った横顔だけだった。優しい緑色の瞳がこちらを向いていなかったことにほっとして、慌ててまた花束に視線を落とす。もう見なくても花の配置を言い当てられるくらい見ているというのに。
「それからというもの、何故か脳裏に貴女が浮かぶようになりました。どういう訳か気がつけば貴女のことを考えてしまうんです。でもわたしには理由がわからなかった。そんなもやもやした思いを抱えたまま、わたしは任務で暫く王都を離れる事になりました。そして戻った時には……貴女は既に殿下の側室候補に決まっており、全ての手筈が整っていました」




