シルセウス①
私の周りからは聞こえていた小鳥のさえずりも風が木立を揺らす音も無くなった。ただハイドナー氏の声だけが耳に響くけれど、私は激しく混乱してその言葉の意味を理解することができなかった。
「……ごめんなさい。貴方が何を仰っているのか……わからないのです」
「無理もありません」
ハイドナー氏は軽く首を振る。
「……これはわたしへの罰なのです」
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12歳で祖国を旅立ってから一度も帰される事がないまま四年が過ぎ、わたし達は16歳になっていた。シルセウスからは厳しく監視され国からは捨駒としての価値だけが認められる、永遠とも思える虚しい日々が続いていた。
シルセウスの王立学院は大きな湖に面しており冬になると白鳥が飛来する。セティルストリアでは見られなかった優雅に泳ぐその姿を眺める事はわたし達の数少ない楽しみであった。ある日、今年も白鳥が飛んできたと聞いてわたしと殿下は湖に行ってみる事にした。
湖に出る小路を下って行くと湖面に延びる桟橋の先で一人の見知らぬ少女が歌を歌っており、わたし達は自然に足を止めその場で少女の後ろ姿を眺めていた。少女は歌の練習をしていたのだろう、一節を何度も熱心に繰り返していたがなかなか思うような声が出せないのか肩を落として俯いている。わたし達は気まずくなり彼女に気付かれぬようにそっとその場を後にした。
わたし達は翌日も湖に向かった。そこには昨日と同じようにあの少女が一節を繰り返し練習していたので、わたし達もまた音を立てぬように静かに戻ることにした。
そんなことが何度か続いた頃、同じクラスだったシルセウスの北東に位置するハイドレンドラのイーゴリ皇子が帰国することになった。派閥間の対立が激しくなっていたハイドレンドラだが、皇子の母親である皇后の力が強まり皇子の立太子が決まったのだ。
「俺の代わりになるために異母妹が送られてきているが、まだ学院に不慣れでね。残して行くのがどうにも不安なんだ。周りは争いばかりだったが俺にとっては可愛い妹だ。悪いが気にかけてやってくれないか?」
気が進まぬ様子の殿下だったが上手く断ることもできず、わたし達はイリーナ皇女と引き合わされた。そしてイリーナ皇女が連れていた侍女こそがあの湖の少女、マルグリットだった。
イリーナ皇女がファビアン殿下に好意を寄せているのは直ぐに判った。だが殿下は年頃の娘らしく明るくお喋りで人懐こいイリーナ皇女が苦手だったようで、次第に皇女の隙を見て逃げだす事が増えていった。そんなある日の事だった。
「彼女は伯爵令嬢なんだ」
誰の事を言っているのかわからず眉間を寄せて殿下を見つめると、殿下は暫く躊躇った後でわたしから目を逸らせてから続けた。
「マルグリットだよ。彼女が湖で何をしていたのか知りたかったんだ」
わたしは顔をしかめた。イリーナ皇女から逃げた後、マルグリットと話をしていたと言う訳か。
勢力争いに破れ没落した伯爵家の娘だというマルグリットは、家計を支える為にイリーナ皇女の侍女としてシルセウスに同行するように命じられたがそれを望まなかった。それまで令嬢として真綿に包まれるように大切に育てられていたのだから無理からぬ事だったのかも知れない。彼女は家を出ようと考えたが若い自分が一人でどう生きていけば良いのか見当も付かず、途方に暮れた時に以前言われた言葉が思い浮かんで来た。
それは声楽の教師の「このお声なら歌劇団にお入りになれますね」というものだった。
彼女は両親を誤魔化してハイドレンドラ国内を始め隣国のドレッセンの歌劇団などいくつもの歌劇団のオーディションを受けたが結局一つも合格はできず、仕方なしにイリーナ皇女と共にシルセウスに来る事になったのだ。
「それでもまだ夢を諦めてはいない。次はセティルストリアの歌劇団のオーディションを受けるつもりなのだそうだよ。それで歌を練習していたんだ」
殿下の胸にあったのは何だろう?人生を切り開こうとする強さへの憧れか、どんなに願っても足掻いても運命からは逃れられないのだという諦めなのか。しかし口を引き結んだ殿下の横顔に浮かんでいたのは辛さだけでは無かった。そしてわたしは無性にそれが気にかかって堪らなかった。
「ジェフリーはマルグリットをどう思う?」
どう思うとはどういう意味で聞いているのか、わたしが訝しげに殿下を見ると、殿下は組んでいた膝の上で頬杖をつきながら窓の外に視線を移し、降り始めた雪をぼんやりと眺めた。
「ジェフリー、お前は僕を置いて国に帰ろうとは思わないか?自由を得られる者は自由になるべきなのではないか?」
「わたしの自由は国にはありません」
突然何を言い出すかと思えば。むしろ父から自由になるために、わたしが殿下と共に歩むのを選んだのは判っているはずだ。殿下の側にいるからこそわたしは生きる事を許される。それを理解してくれた殿下だからこそわたし達は今ここにいるのではないのか?
「ジェフリー、考えてごらん、世界は広いんだ」
殿下は降り続く雪から目を離すことなくそう言った。そしてその日はそれきり何も話すことは無かった。
それから数日が過ぎたある日、調べ物をしていたわたしが図書館から出ると何故かマルグリットが立っていた。
「どうしましたか?もう中には誰も居ません。イリーナ様ならこちらにはいらっしゃらないと思いますよ」
「……いえ、ハイドナー様をお待ちしていたんです……あの……少しお話をさせて頂きたいのですが……」
縋るようにわたしを見つめ両手を胸の前で握り締めた彼女の頬は赤く腫れ、口の端には切り傷ができ青黒くなっていた。疑いようもなく顔を殴られている彼女を放っておくわけにもいかず、わたしは彼女を連れて図書館に戻り話を聞くことにした。
「何があったんですか?」
ロビーにあるソファに向き合って座った彼女は俯いたまま首を振った。
「答えたくなければ無理には聞きませんが、それで良いのですか?」
顔を上げたマルグリットは質問には答えず黙ってわたしを見ていたが、やがて再び俯くと膝の上に重ねた手の甲に涙の雫をぱたぱたと落とし、息を殺して泣きだした。涙は簡単には止まらぬようだったが、暫く泣き続けた後で肩を上下させゆっくり大きく息をするとわたしを見上げてにこりと笑う。そのまるで貼付けたような痛々しい笑顔で彼女は呟いた。
「ハイドナー様、私は……貴方をお慕いしています。どうか私の気持ちを受け入れて頂けませんか?」
わたしはただただ驚いた。わたしにとって彼女は単なる知り合いの少女でしかなく、彼女から好意を寄せられているなんて思ってもみない事だった。しかもわたしは殿下がマルグリットに淡い思いを抱いている事を薄々感じていたのだ。
わたしは何を話せば良いのかわからず頭の中で必死に言葉を探したが、相応しい物は一向に見つからない。焦りのあまり動悸が激しくなり息苦しくて余計に何も考えられなくなった。
「ごめんなさい。ご迷惑でしたね。どうぞお忘れくださいませ」
何時までも何も言えないわたしにマルグリットは微笑みながらそう言って頭を下げた。彼女は今、深く傷付いているのだろう。それなのに何も出来ない自分が歯痒く心苦しく情けなかった。
「すみません。わたしは貴女に対して特別な感情を抱いた事は無いんです。そしてきっとこれからもこの気持ちに変わりは無いでしょう。残念ですが貴女の好意に応える事はできません」
「どうぞお気になさらないで。本当はわかっておりましたから。それでもどうしても自分の気持ちをお伝えしたくて」
そういうとマルグリットは立ち上がり、失礼しますと言って身を翻し走り去って行った。追いかけるべきではとも思ったが、彼女の好意に応えられないわたしが優しくするのはむしろ彼女の傷を刔る事になるのではないか、そう感じたわたしは黙って彼女の後ろ姿を見送っていた。
そしてこれがわたしが目にした、血の通ったマルグリットの最後の姿だった。




