断罪された悪役令嬢に憑依して強制海上サバイバル、かーらーのー
どうしてこんなことになったのかわからない。
私の名前は高井佳奈。日本生まれ日本育ち、ごく平凡な社会人(三年目)だ。
最近はだんだんと仕事をまかされ、比例して残業で深夜帰宅が増えてきた。自分の要領の悪さへの罪悪感と、できることが増える達成感とで、けっこう無理してきた気もするけれど、センパイ達はもっと量をこなしているし、まだまだ若いんだからこれくらいどうってことないと思っていた。
けど、どこかで限界を超えてしまったのかもしれない。
玄関で寝落ちすることが増えて、ある朝目が覚めたら……あるいは目が覚めなかったから……?
私は大海原のど真ん中でひとりぼっちだった。
はて。
一面の青空、強い汐の香り、ざっぷざっぷと波の音に、揺れる視界。がばりと身を起こすと、水平線まで続く紺碧の。
「うみ……?」
ぎょっとする。え、え、と意味なく声をだしながら、自分の頬にふれた。不安になると顔をさわる癖があるのね、と指摘したのは高校時代の先生だ。実際肌に触れると安心する、はずだった。
なんだか、おかしい。
ずいぶんと骨っぽくなった細い手に、ぎょっとする。いくら栄養ゼリーと栄養補助クッキーが主食になって長いとはいえ、ここまで過剰なダイエットはしていない。見れば腕も、ずいぶんと細くてがりがりだ。
え、なにこれ。
もち肌がひそかな自慢だった頬もかさかさで、白っぽいものがついている。塩、らしい。そしてひどく頬肉が薄い。唇もかさかさでしわしわ。髪はべたついてごわごわ。まるで潮風と波に長い間さらされていたみたいに。
「え、ええ、どういうこと……?」
きょろきょろと見渡せば、自分がいるのが、小さな舟の上だとわかった。帆はあるけど、それ以外は公園の池に浮かんでる手漕ぎボードみたいな、私一人が寝ころべばそれでいっぱいになってしまうサイズの小舟だ。
四方すべてに延々と続く海のど真ん中で、それはとてもとても、たよりない存在だった。
思わず両手をついて膝を立てて身を縮める。すると、かちゃっと不思議な音がした。
見ると金属っぽい変なものが落ちていた。金属の平べったく歪曲した板に、こっちは手錠?手かせ?それにもう一組は、まさか足かせ?
どれも若干安っぽい金色で、五色の宝石がはまっている。なんだか玩具みたいなそのかたちに、なぜか、見覚えがあった。
一枚のイラストが目に浮かぶ。
「これって……『女王サマ』の魔力封じの枷……?」
それは最近はまっていた恋愛系のスマホゲームだ。男性キャラの攻略自体はなんとなく選択肢を押していれば終わるような、ネットノベルとの差がわからないレベルの、簡単なゲーム。多少やりこむことができるのは、ライバルであり悪役である「女王サマ」とのパズル対決くらい。石を色ごとに揃えて消すタイプのパズルで、それで「主人公」が完勝すると、どういう理屈か、女王サマは断罪され国外追放となる。
桃紅色の縦巻きロールと、ルビーみたいな赤い瞳が特徴的な女王サマは、たしかロア・なんちゃらなんちゃらという長ったらしい名前だ。女王サマというあだ名にふさわしく、清純派の無個性主人公と真逆のキャラで、派手なカラーリングにきつめメイクのお姉様。設定はたしかヒロインと同じ十代後半なのに、その体つきはとにかくエロい。ひとりだけ男性向けゲームから紛れ込んできたみたいだ。
彼女は様々な(ゲーム的都合という)理由から主人公と攻略対象の障害を務める。そして必ず最後は敵国に通じていた罪で罰され、魔力を封じられたうえで海に流されるのだが。なぜか、その場面にはきちんとスチルがあった。いままで固定の立ち絵が3カット(通常絵、怒り顏、高笑い顏)しかなかった彼女の唯一の公式スチルなのだが、それがあまりに衝撃的で、初めて見たときは、思わずすすっていたゼリーを吹いてしまった。
だって。
おちぶれたことの表現なんだろうけど、トレードマークの赤黒のゴスっぽいドレスがどういうわけか部分的にボロボロになったような服を身につけて。いつもきちんと整えられていた縦ロールはほどけて散らばり。目元は金属の謎パーツで覆い隠されて。後ろ手にまわされて枷をつけられているせいで、そのおっきなお胸が強調されていて。さらに両足首にもつけられた枷を見せつけるように裾をはだけて。身を横たえるのがせいいっぱいの小舟にのせられて。
いやーこれ完全に作者の性癖だわーと思った。ついでに、これ、完全に生かす気ないよね?手も足も動かせなくてどうやって生き延びんのよ、とツッコんだ。
それが、だ。今、そのあまりの衝撃に目に焼きついたシーンの問題のアレソレが、目の前に落ちているのである。そして、身につけている服も、ボロボロゴスドレスの成れの果てと言えなくもないような……。
「うそでしょ……」
ぴろっとつまんだ髪が、ひょろひょろとくせのついた紅色っぽい色をしているのを見て、疑惑を確信に変えざるをえなかった。
どうやら私は、断罪で海流し中の女王サマに憑依してしまったらしい。
+++
落ち着け—おちつけーおちつけーと念仏のように唱えながら、私は必死に頬を手のひらでさすさすした。塩がぽろぽろこぼれるが気にしない。
それにしても、この痩せっぷりはつまり漂流のせいだったわけね。枷が外れているのは、たぶん、彼女がいちど死んでしまったから……?そこに私が……?……いや、そのことはひとまず置いておいて。
とにかくまずどうにかしないといけない問題はひとつ。いや、三つあった。つまり。このとんでもない渇きと暑さと餓えだ。その解決に思考を集中する。
ここがゲームの世界なら、魔法が使えるはず。問題はどうやって魔法を使うのか、だけど。たしか、女王サマ、こと、ロアは火水風土木の五属性すべてが使えるチートキャラ、という設定。だから、魔力封じも特別なものだという説明だった。
金の枷にはまった五色の宝石はそれぞれ属性に対応している(ついでにいえば攻略対象の五人のカラーにもなっている)……きっと彼女の魔力を吸ってこうなったのだ。
ということは、つまり、この石にためこまれた魔力をいい感じに使えばいいのでは?
論より証拠。ならうよりなれろ。とりあえずの仮設をたてて即試行。ダメならまたすぐ再チャレンジすればいい。職場でならった現代的精神論を思い出しながら、私は、えいっと枷同士をぶつけて、石をはずしてみた。
いい感じに、オーバルカットの青い石がはずれる。きっと、水でしょ。ぐっと握って、
「水よ」
と青の攻略対象である繊細メガネ系男子をまねて言ってみた。すると、するすると空中から水が湧き出た。
「やった――――――!」
同じ要領で、赤い石で火を、透明な石で風をおこしたところで、私は少し気分が落ち着くのを感じた。とりあえず右手に青い石を握って水を出し喉の渇きを癒し、ついでに左手で透明な石を握って風で暑さをしのぎ、ぱたりと舟底に身を横たえる。
「むずかしいカタカナ呪文とかじゃなくてほんとよかった」
しみじみ思う。だって、中学生時代ならともかく、忙しい社会人となってからは、凝った世界観とか、複雑かっこいい魔法の呪文とかいちいち覚えらんなくなっていたのだ。というより、だからこそ、ああいうスマホゲーはわかりやすい世界観とキャラ設定なのかと悟る。単純に開発費ケチってんだと思ってたよ。
そんな役に立たない気づきはともかくとして、一息ついた私は次なる問題の解決にとりかかった。
スカートの一部を切りとって(もともとボロボロだから簡単だ)、青い石を入れてくるくるとキャンディ包みにしたあと、手のひらに括りつける。これで万が一があっても、落ちないでしょ。
それから、その手をちゃぽんと水中に入れた。冷たさが気持ちいと思いながら、目を閉じて感じる。水、水、水。最初に魔法を使ったときに、感覚的にわかったことがある。海水だって水で、そして水の中にあるものは全部魔法でどうにかなるものだと。
そういえば女王サマ、いやもうロアちゃんでいいや、ロアちゃん、パズルの大技でよく大津波とか出してたもんね。
水を自分の意のままにあやつって、それを見つけると、海の中から引きずり出した。イメージはでっかい金魚鉢にとじこめて、徐々にせばめ、最後にバキュームで吸い込む感じ。すると、あら簡単。船底には細身の青魚が一匹。ぴちぴちと跳ねては、うろこを銀色に輝かせている。海産物大国日本育ちの血がたぎった。
とったどー!!
鮮度は間違いないけど、生でまるかじりはいろいろとこわい。なので、風の魔法でさばき、木の魔法で舟の一部を成長させて串にして、火の魔法で四方からじっくりあぶって、美味しくいただきました。
魔法まじ便利まじチート。
そしてわかった。この世界のひとがロアちゃんに枷をつけて海に放ったのは、そうしないと確実に生き延びて復讐に来るからだわ……。
それから同じ要領でもう一匹いただいたが、小さくなった胃にはもう限界らしい。体力もちょっと限界。だから身をふたたび舟の底に横たえて、ちょびちょび水を飲みつつ、消化を待つことにした。
そうこうするうちに、空の色は移り変わり、陽が沈みだしていた。ロアちゃんの眸のような、赤い夕日だ。水面はまぶしい茜と黄金色に染まっていて、その反対側はすでに夜。青と紫とピンクのいろとりどりの世界は、青と藍のグラデーションをつないで、だんだんと黒と紺と星々の世界に変わっていく。
(……わあ……きれい……)
そのスペクタクルな圧倒的自然現象に不思議な安息を覚えながら、私は、この世界でもあっちが西で、こっちが東でいいのかな、とぼんやりと思った。
+++
翌日、激しい陽射しに射抜かれて目を覚ますと、まだ、大海原にひとりぼっちだった。どうやら、一時の面白い夢ではなかったらしい。まぶしさと汐とで開ききらない目をすわらせて、私は引き続きこの奇妙な運命につきあうことにした。
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どういったわけか、漂流中の悪役令嬢に憑依して××日。
海上サバイバルは順調だ。
まず、確実に食べられる。ここら辺はとにかくおだやかで豊かな海らしく、さまざまななんとなく見たことのある青魚のほか、海藻、貝類もゲットしたし、粘ればイカやタコも手に入る。
西洋もどきの世界観だから、この世界ではゲテモノ喰いにあたるのかもしれないけれど、日本人の私にはごちそうだ。ただ赤身のいいやつが手に入ったときなんかは、真剣に醤油がほしくてもだえた。それでも海水から塩もどきも生成できるようになって、多少は味にも変化がつけられるようになった。
また、流木を回収して木の魔法でいい感じにととのえ、舟自体も改築した。ボートの脇に筏がついたような不格好な感じだが、これで格段に安定したし、作業スペースも広がった。
同時に、舟の天地四方を水のベールで覆うことも覚えた。これで突然の波や汐風にさらされることなく、快適にすごせるようになった。さらに巨大なわかめもどきで作った日除けで、紫外線対策も完璧だ。
そうした魔法を、寝ている間も維持できるくらい、魔力も体力も万全になった。もう石を握りしめている必要もないので、即席のきんちゃく袋に入れて身につけている。体つきもだんだんと回復。記憶にある女王サマには遠いけれど、十分驚異のプロポーションだ。肌はいくら庇おうにも陽と汐に焼けてしまうので、はた目には女王サマというより、アマゾネスに近くなっているかもしれないけれど。
いまの一日はこんな感じだ。
朝、目が覚めたらまず顔を洗い、ときどき服を洗濯をする。こればっかりはまだ代わりが用意できていない、正真正銘の一張羅なので、洗ったらすぐに風と火の混合魔法で乾かすことにしている。いくら天地四方に何も存在しない海の上とはいえ、もとは他人の体だし、裸族には成りきれない。
それから朝ごはん。今はだいたい作り置いた魚ジャーキーを食べるくらい。それから舟の手入れと漂流物の収集を始める。流木以外にも、ときどき人工物を見つけるけど、砕けた樽とか、あまり使い道のないものが多い。それでも舟を増強したり、小さな棚をつくったり、なるだけ便利になるように考える。
昼は生魚。午後も仕事の続き。ときどき自分で海のなかにもぐって、気分転換もする。風と水の魔法をうまく使えばかなり長時間潜れるし、海底からちょっとした拾い物をすることもある。
夜は火を使ってごはんを作る。焼き物だけじゃなく、いまは土と火の魔法で生成した小さな鍋もあるから、バリエーションもちょっと増えた。そうして、おなかがくちたら、日暮れから夜にかけてぼんやりと空を眺める。一日目からの習慣だ。
だんだんとその時間が長く感じられるようになったころ、私は奇妙な流れ星を見つけた。
+++
薄紫色から藍へと移り変わる空にかけて、すっと流れる一条の白い光。
「わあ!」
思わず歓声をもらしたあと、違和感をおぼえた。流星雨の日に、学校の観察教室で見つけた流れ星は、ほんとうに一瞬だった。正直物足りなくて、がっかりするくらい。けれどその星は長く長く、ずっと目で追いかけられるほど長く、白い線を空に描いている。
まるで道しるべのように。
「…………」
私は考えるよりさきに、とっさにきんちゃく袋を握りしめた。ぐうんと身の内の魔力が力強くうねる。火を灯して前方を照らし、流木と土を組み替えて舟を強化し、そして風と水の混合魔法<ジェットストーム>で思いっきり押し出した。
「いっけえええええええ!!!!」
……と、威勢良く飛び出したものの、魔力だけで前に進むのはけっこうきつかった。けれどぐっと耐える。たまりにたまったストレスが爆発していた。ロアちゃんの体にとりついたせいで、性格も寄って来たのかもしれない。
だいたい恋愛ゲームのはずなのに、だれもいない場所で強制サバイバルってなによ!私は放蕩馬鹿で自業自得のロビンソン・クルーソーじゃないのよ!!いい加減、運営は新展開を寄越してよっ!!
+++
そんな私の魂の訴えはきちんとどこかに届いたらしい。気づいたら私はどこかの浜辺にいた。地面だ……。
「うへへへ……」
うつぶせのまま、真っ白い砂にまみれるのもかまわず、手をひろげて地面を抱きしめる。揺れていない。大きい。白い。ああ、なんていう安定感。すばらしい……。
などと感動していた私はいろいろと気づくのに遅れた。さくさくと、砂をはむ音。顔にかかる人の影。そして、
「おい……」
ちょっと引いた声で呼びかけるその人物の存在に。
「ひいっ」
「うわっ」
顔をあげた瞬間、悲鳴がふたつ。ひとつは私の口で、もうひとつは相手の口から。若い、男のひとらしい声だった。声でしか判断できなかったのは、相手が顔を隠していたから。巨大な葉っぱで。
「ど、どどこの部族のかたですか?」
「え、部族?」
尋ねてからよくよく見れば、ちゃんと服を身につけているし、その服は葉っぱではない。あの恋愛ゲームでいうところの、若手兵士や神官が身につけていたモブ服に似ている。裾はだいぶ破れていて、足もとは草を編んだ何かをはいているが。そして手には、なにやら長い棒。
「未来少年……?」
「みらい?」
また戸惑ったオウム返しだ。話が先に進まない。よくよく見れば、大きな楕円形に近い葉っぱで隠されて顔立ちも表情もわからないけれど、不自然にさわさわ、きょどきょどと動いている。ああ、あなた、同類さんですね……?
私は自分の両頬をさすさすしながら深呼吸。それから、そっと居住まいをただした。社会人歴三年、培ったありったけの社会性を発揮して、できるだけ相手をおいつめないよう、丁寧に話しかける。
「あの、私はずっと海を流されていて、ようやくここにたどり着いたんです。それで……ええっと、よかったら、ここがどこか教えていただけませんか?それからできれば、ひとの住むところまで案内していただけたら、と」
「海を……?」
「はい」
葉っぱのひとはきょろきょろと何かに助けを求めるようにあたりを見渡した。つられて私も周囲を見るが、だれもいない。ただの、きれいな砂浜だった。高級リゾートのプライベートビーチかな、と思うくらい、絵に描いたような白い砂浜に碧い海。ぷかぷかと我が舟の残骸らしきものが浮いている。
んん、ていうか、いつのまにか南方に来ている?
葉っぱのひとの体越しに見える、陸地の緑はあざやかで、ちょっとエキゾチックな雰囲気だ。……いろいろと疑問はあれど、その緑に目と心が癒されているあいだに、予想外の答えがかえってきた。
「ここはただの、島だ。名前はない。というか、おれも昔にここに流れ着いたので、名前はわからない」
それから、おれ以外にここに人はいない済まない、と、しょんぼり肩を落として告げられて、私も思わず肩を落とした。まじかー。
とはいえ新展開は新展開。落胆は忘れて、引き続き社交モードで前を向く。
「それなら、あなたがこの島のあるじなんですね。でしたらお願いです、しばらく、ここで居させていただけませんか」
「あ、ああ、もちろん、もちろんだ」
「ありがとうございます!お世話になります! あの、私はタカイカ……ではなく、ロアです。えっと、そちらのお名前も教えていただいても?」
「ロアか……おれは、おれのことはロニーと呼んでくれ」
「はい、ロニーさん」
そう呼びかけると彼は(あいかわらず顏はわからないけれど)小さく肩をゆらした。その反応に、本当に彼も独りだったのだとわかる。私は思わず立ち上がって、手をのばしていた。目の前の彼の腕をとろうとして、盛大に避けられる。具体的には後方にひとっとびだ。
「な、なんだ?」
いけない、またおびえさせてしまった。胸に手をあててもう一度深呼吸。
「ごめんなさい。その、ひとに会えたのが、うれしくって」
できる限りやわらかく笑顔をうかべて、こわくないよー安全だよーとアピールする。ロアちゃんのきっつい顔だと難しいかもしれないけど。
舟の上にはもちろん鏡などなく、まだ今の自分の顔を見れていない私は知らなかった。ロアちゃんの女王サマ顏が、ほぼ化粧によるもので、実際はちょっと垂れ目でかわいい雰囲気の顔立ちだということを。
それよりもせっかく発見した第一世界人を逃さないことに集中していた。近所の野良猫との距離をつめるときみたいに、そろそろと距離をつめる。大丈夫、そうかな。探り探り会話を続けた。
彼の住まいはこの先の丘にあるそうだ。小屋を建てて、そこに住んでいると。ああ、小屋、建物、見てみたい。入らせてくれるかな。いいの?うれしい!!
なんて、できるだけポジティブな感情だけを表情にのせていたら、彼もすこしずつ心を開いてくれたみたいだ。
道案内のために先に立ちながらも、できるだけ距離をあけないよう、ちらちらとこちらを見て調整してくれる。私も遅れないように歩きながら、その草の蔦で器用に仮面を結いつけてる頭のうしろを、ちらちら観察する。長くのびた黒髪をおろしていて、そんな髪までそこそこきれいだ。
私は急に自分の身なりが気になった。
舟の上ではそれなりに身ぎれいにしようと頑張っていたけど、海にどぼんした時点ですべては台無しだ。あと地面にハグしたせいで、砂もひどい。とにかく、人様の家に入れるものではない。
あわててお願いして、とりあえず、小川に連れて行ってもらった。せせらぎ、と呼びたくなるようなきれいな水の流れだった。魔法も使ってそそくさと体についた汐と砂を流している間に、ロニーは、ざっくりしたシャツとスカート代わりになりそうな大きめの布、さらに素足の私のために、草で編んだ靴、紐で結わいつける草履?を用意してくれた。うう、親切。ほんとうにありがたい。
ようやく「一張羅」とおさらばする。下着だけはしかたないとして、その上に洗いざらしの柔らかいシャツを身につけ、腰布を巻き付け、落ちないようにもらった蔦で結わう。汚れを洗い流して少し紅桃色があざやかになった髪も、その蔦でどうにか括って、ようやく、多少なりとも落ち着いた。
「いかがでしょうか……」
「すごいな」
すごい、とは。なんでも、ありもので、きちんと身なりを整えたことを評価してくれたらしい。ええっと、見れる格好になったってことでいいんだよね?表情がわからないから、いまいち真意もわからない。
私はとうとう気になっていたことを訊いてみた。つまり……その仮面、なんなんです?
「これは……その……顔を、見られたくないんだ……」
なるほど。部族的伝統装束ではないらしい。
「わかりました。できるだけ見ないように気をつけます」
「え。いいのか……」
「はい、私も見られたくない部分はありますし。いうならば私は闖入者ですから、その、できるかぎりロニーさんの生活は尊重したいと思いますし、ほかにも守るべきルールがあれば言ってください」
「ルールなんて、ない。けど、ありがとう」
「いいえ」
そんな会話をしながら、小屋へ向かう。そう会話、人とのコミュニケーションだ。私は自分が思うよりも他人との接触に餓えていたみたいで、あまりに嬉しくってあまりに楽しくって、自分が浮足立っていることにも気づかなかった。
「ところでロニーさん、いい声ですね!」
「え?」
「ひさしぶりに聞くひとの声だからかな、とおもったんですけど、なんだかとってもやすらぎます」
「え、お前、大丈夫か!?」
「やだなーほめているのに、なんであたまのしんぱいするんですか」
なんて楽しく話していたら、なぜかロニーがあわてて手をのばしてきた。嬉しくって、私も手をのばした……つもりが動かない。視界が暗くなって、体が傾いで。
「おい、しっかりしろ!ロア!?ロア!!?」
がっしりと抱きしめられた腕の力強さと熱さ、耳元で呼びかけるその声を、私はずっと深いところで感じていた。
+++
それは、生まれたときから選ばれしものだった。
だれよりも優れた血を引いていて、だれよりも優れた才をもっていて、だから、だれにも負けてはいけなかった。
負ければ用無しだといわれた。だから持って生まれた才のうえに、努力をかさねた。そうすれば本当に負けなしになった。
勝って勝って勝って勝って勝って勝って勝って勝って勝って勝って勝って勝って……負かしてきた人々の恨みも悲しみもすべて打ち負かして……そうしたら、なぜかそれは『悪』と呼ばれるようになった。
そして突然現れた謎の女に破れたとき、それは予定通り……棄てられた。
+++
漂着直後からまる一週間高熱でぶっ倒れた私は、しっかりがっつり、ロニーに迷惑をかけてしまった。食事も着替えも清拭も何もかもをやってもらって、ようやく私が起き上がれるようになったときには、ロニーももう色々とふっきれたようで、仮面はつけていなかった。代わりに右目を隠すように黒い布を巻いている。
彼は、声の通り青年で、こめかみからその右目のあたりを通って頬まで古い傷痕が走っているけれど、さすが恋愛ゲーム世界の住人というか、それも含めてただのイケメンだった。同じ漂着民とは思えないほど、顔立ちは凛々しく涼やかで、ヒゲはない。って疑似西洋系イケメン顏だからよくわからなかったけど、もしかして、私よりも若いのでは……。
そんな若者に看病というか完全介護されてしまった事実はあまりにいたたまれなく、もう仮面などなくても顔を見れない気持ちだった。藁のベッドのうえで……ロニーが自分の寝床をゆずってくれたのだ……精一杯頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました……」
「気にしなくていい。ロアが良くなってよかった。すこしスープを飲むか?それとも果物のほうがいいか?」
「あ、ありがとうございます……」
穏やかに優しいその声にますます顔をあげられないでいると、そっと肩を触れられる。熱でうなされている間、ずっと優しく私の面倒をみてくれた手だ。そうして気づいたら、寝床に戻されている。うう、完全に手馴れてる……。
「さあ、おなかがすいてないなら、水だけでも飲んで、もう少し休むといい。おれは、しばらくここにいるから」
「いえ、そんな、ロニーだって忙しいでしょう」
「食糧はちゃんと確保してあるし、畑も朝のうちに見てきた。ここでロアと一緒にいる時間くらいあるよ」
「でも……」
「ああ、手をつないでいようか?」
「え?」
私の両手を包み込むように握られる。
「こうしていればよく眠れると、言っていただろう?」
間近でほほ笑まれて、私は息をのむ。ちょっと、声と顔がよすぎる。え、なにこれ、まるで恋愛ゲームみたい……って、たしかに恋愛ゲームの世界のはずだけど。
ちょ、ヒロイン、ヒロインを呼んで!ロアはただの悪役令嬢で、しかもいまの中の人は、ただのしがない日本人だからー!
顔が真っ赤に染まるのを自覚する。いや日焼けしてるし目立たないはず……なんて、そんなわけはなかった。ロニーは気づかわしげに眉をよせると、いっそう身をよせて、そのまま自分の額と私の額をあわせた。え?
「また熱があがったみたいだ……水で冷やそうか?」
「いえ、大丈夫です。自分でできますから!!」
あわてて袋を握って(もう必要ないのだけど一種のルーチンだ)、水を出す。頭からかぶるつもりで水を生成すると、ロニーが硬直していた。あれ、どうしました?
「ロアは魔法が使えるんだね……水属性?」
「はい、あ、いえ、いちおう五属性全部が使えます」
「そう……そうなんだ……」
不思議にしずかに抱き寄せられ、まるで動物がマーキングするみたいに、頬に頬をよせられて、すりすりと、すりつけられる。え、ちょ、意味が分からない。
「ねえロア、おれの妻になってくれない?」
「え?」
まじで意味が分からな過ぎた。というか、プロポーズってこと?ちょっと攻略早すぎない?さすが簡単スマホゲーってこと?選択肢全部ハッピーエンドコースなの?
なんて混乱している私を、青年ロニーはやわらかく見つめている。唯一のぞいているその左目は藍色で、私はまるで夜に向かう空のようだと思った。
++++++
星が降る夜はいつも不思議なものが島に流れ着く。
いままで流れ着いたのは、見たことのない服や装飾品だったり、生活に便利な道具だったり、よくわからない動物だったり……まるで誰かが自分に贈り物をしてくれているようだと思っていた。けれど今回、星が降った次の朝に、波打ち際でそれを見つけたときは、贈り物なのか災いなのかわからない、と思った。
ロア、と名のったそれは、くるくると表情をかえて、ばたばたと身をうごかして、落ち着きがないと思えば、一転、はきはきとしゃべった。その様子に、ああ女だと、懐かしくもほろ苦く思った。
おれは昔いわゆる権力争いに敗れ、故郷を追われて海に棄てられた。たどり着いたこの島でひとりで生きているうちに、その恨みも辛さも遠くなったけれど、その敗北の原因がひとりの女だったことは忘れていない。
だから自分の世界にふたたび「女」という生き物がやってきたとき、どうすればいいのか戸惑い、距離をつかみかねていたのだが。その前に相手の積極性に負けた。というより何より、そのぼろぼろの様子は、あまりに自分に似た境遇を感じさせて、放っておけなかったのだ。
男と女というのではなく、ただの人同士として一緒にいればいいのかもしれない。
そう思って小屋へ招いたのだが、途中で彼女がぶっ倒れてしまったので、いやおうなしに距離を縮めることになった。
「おい、しっかりしろ!ロア!?ロア!!?」
抱き上げた彼女はあまりに軽かった。海を流されていたというけれど、どれほどの期間だったのか。まず水や食べ物をあげればよかったと後悔しながら、急いで小屋へ向かう。自分で石を積んで建てたその小屋は、煮炊き用と居住用でふたつに分かれているだけの簡易なものだ。当然体を休めるところもひとつしかない。
どうにか敷き布だけはとりかえて、寝台の上に、そっと身を横たえさせる。そこはおれの身体がぎりぎりおさまるだけのサイズのはずなのに、彼女が寝るとずいぶん大きく見えた。寝苦しくないように髪を結わっていた蔦をはずすと、なおさらか弱く、いとけなく見えて、それだけでひどく罪悪感を覚える。色をうしなった唇からもれる、熱をもった浅い呼吸も、苦しそうで、痛ましくて……そしてひどく扇情的だ。
全身がかっと熱くなった。馬鹿、何考えているんだ。おれは思わず自分の頬を叩くと、水を用意しに走った。ひとつは彼女のために、もうひとつは自分の頭を冷やすために。
それから。
彼女、ロアは数日間目を覚まさなかった。漂流中の無理がたたったのだろう。酷い熱に苛まれ、うわごとでいくつかの名を呼ぶ。特に親のことを幼い子のように呼びすがるのがあわれで、おれはできるかぎり彼女のそばにいるようにした。いない人の名ではなく、おれを呼ぶように教える。
「ロア、ここにいるよ、おれが、ロニーがここいにいる」
「ろにー?」
「そうだ、ロニーだ。ロアのそばにいる」
「いる、ろにー、ろにーがいる……うれしい……」
熱にうかされたまま無邪気に笑う。つられて、おれも笑っていた。頬を撫でてやるとひどく安心するようで、それに気が付いたおれは何度も何度もその頬に触れるようになった。
薬草や食事を与えるときも、汗をぬぐい着替えさせるときも、時々我に返ったように申し訳なさそうに遠慮する彼女にそっと触れると、甘えてくれるようになる。胃が受け付けずに吐き戻してしまって、申し訳なさとふがいなさでほとんど泣いてしまったときも、大丈夫大丈夫と優しく抱きしめると安心して眠る。
そうして触れて抱きしめる、彼女の柔らかさやあたたかさに、いつのまにか自分自身も甘やかされていたのだろう。おれはこの島にきて初めて、不思議に満たされた気持ちになっていた。
「ロア?寝たのか?」
彼女はだんだんと熱でうなされることも減り、深く安らかな眠りにつくことが多くなった。こうなったらしばらくは目を覚まさない。この間に、おれは外の仕事をこなすことにしていた。
というか正直、無防備な彼女の寝顔を見ていると、自分のよこしまな欲求を抑えられる自信がないのだ。苦しんでいるときならまだ自制がきくのだが……いや、どちらにせよ意識のない状態で勝手な行いをするなんて許されることではないと、情けなくも必死に自分を抑え、外に出る。
この島は一日もあれば見て回れるほどのものだ。家のそばの畑を見回り、森の中で果物と薪を集め、以前流されてきた動物たちの無事を確認し、海にもぐる。貝でつくるスープが気に入ったようなので、また作ってやるつもりだった。そうして何度も海の底でもぐっていたときに、おれは奇妙に光るそれを見つけた。
「これは……」
海面まで持ち上げて確認する。鎖でつながれた金色の枷だった。側面に五つの空洞があいている。ロアの唯一の持ち物といっていい袋の中身がぴったりとはまりそうだと見てとって、まさか、と思う。五属性すべてを操れる者などそうそういない。ましてそれを封じる枷なんて……ああ、でも……可能性を否定しようとしても否定しきれず、ぞくりと身の内が震えた。
だって、思ってしまったのだ、鮮やかな紅髪の彼女にこの金の枷はきっと似合っただろう、と。
つぶされ、えぐりとられた右目の痛みが、よみがえる。恨みも辛さももう忘れたはずなのに。右目のあった場所に埋めこまれた魔力封じが、久しぶりに働いていた。だが久しぶりすぎて、封じきるには魔力量が多すぎるようだ。漏れいでるおれの魔力に、凪いでいた海が荒れ始める。それはそのままおれの心だ。
「ロア」
その心のままに、いまだ眠り続ける彼女の名を呼びかける。
「もし君にこの枷をつけたものがいたなら、おれは決してそいつらを赦しはしないよ」
こぼれ出た誓言がやがてこの世界の運命となることを、まだ誰も知らない。
+++
棄てられたそれは、世界をうらんだ。悪というなら悪でいい。それよりもこの独りには耐えられない。
荒れるそれに、人々はその心を癒すにふさわしい供物を探した。そうすれば、少なくともこれ以上悪いことは起きないだろうし、もしかしたらその力で世界を守護するようになるかもしれない、と。
多くのものがささげられた。それでも時折災いは起きた。もしかしたらもう、それのせいではなかったのかもしれないけれど、人々には分らない。ただすべての災いを勝手にひっくるめて、それのせいだと考えた。
そして強欲なそれを満たすためにと、今度は、とびきり美しく、とびきり賢く、とびきり強い魔力の持ち主を供物にすることにした。
国中から候補が集められ、競われ、選定された。しかしその過程で人々は思った。一番の娘は、惜しい。それは人の国の発展のために残しておいたほうがよいだろう、と。
悪神に捧げるなら、そう、二番目の娘でいい……。
海が、彼女を送り届けるだろうといわれていた。だから、万が一にも娘が逃げないように厳重に縛りあげると、人々は、それが待つ海に『花嫁』を流した。まるでかつてのそれのように。