長恭の出陣
戦の武功により、婚約を勝ち取ろうと決心した長恭であった。北周への出陣の前に長恭は北軍の調練に向かった。
二月下旬である。既に桃花の蕾は膨らみ、山桜の薄紅色の花も咲きはじめていた。月は晦日月となり、星は夜空に輝いている。
長恭は剣架にあった剣を抜き、その刃に目を遣った。父の高澄より賜った剣である。宝石などの飾りはないが、精巧な造りで刃には美しい模様が浮き出ている。長恭は、剣を一振りした。空を引き裂く響きが、その振りの鋭さを表している。
幕舎の中は、蝋燭の燃える音以外、何も聞こえないほど静かである。
長恭は、調練での出来事を思い出していた。前の出陣では、斛律須達の属将として調練に参加していた。しかし、こたびは、直接五十人の兵卒の調練を担っているのである。
兵卒達は皇族の指揮官に表面上従うものの、命令の徹底は難しく訓練は遅々として進まなかった。
『まったく、ぴりっとしない調練だ』
長恭は苛立ちから、身体を翻すと思いっきり振りかぶると下に振り下ろした。横に払い、斜めに切りつけると、幕舎の入り口に斛律須達が現われた。
「おい、おい長恭、いやに荒れているな」
須達は酒壺を二つ見せると、おどけたように入ってきた。須達は、幼少の頃より剣術の道では師匠である。
長恭は決まり悪げに表情を静めると、剣を鞘に収めて剣架に架けた。
「いやあ、友の婚約を祝いに来たのだ」
須達は酒壺を卓に置くと、几に座った。
「長恭、婚約をしたんだって?」
「まだ、正式じゃない。戦から帰ってからだ」
公に結納を交わしていないにも拘わらず、斛律家には既に伝わっているらしい。
「何を言う。皇太后様のお許しを得たら、もう決まったも同然であろう?」
須達は、陶器の椀に酒を注いで、長恭に勧めた。
「何を苛立って居る。婚姻を前にして、もう花嫁が恋しくて、身体が熱くなるのであろう。・・・分かるぞ。長恭の婚姻に乾杯だ」
須達は、豪快に笑うと長恭に椀を持たせて音を立てて打ち合わせた。
「何を言っているのだ。彼の女子とは、まだ、そのような関係ではない」
「昨年、そなたと瑤児の婚姻を壊してから、そなたの婚姻は心に掛っていたのだ。婚約とはめでたい」
昨年妹の瑤児が、長恭に手巾を贈ったとき、父斛律光の意志を受けて、瑤児との婚姻を考えてくれるなと釘を刺した須達であった。
「兵卒の訓練が、どうもぴりっとしないんだ」
長恭は、酒壺から二つの椀に酒を満たした。須達は、調練の悩みに眉をひそめる長恭を見て言った。
「なあ、長恭。怒らないで聞いてくれるか?」
「ああ、何でも言ってくれ」
長恭は溜息をついて、二杯目の酒に口を付けた。
「あの者どもは、そなたの顔に見とれているのではないか? だから、気もそぞろで命令が耳に入らないのだ」
「何を、・・・冗談を言うな。」
長恭は、酒の上の戯れ言だと受け止めた。
「冗談ではない。『自分の女房より綺麗だ』と言っている校尉もいるほどだ」
女子のいない陣中は、そのような心配から解放されると思っていたが、男からそのような目で見られるとは思わなかった。長恭は、陣中での粘り着くような視線の謎が解けた思いだった。
『なんということだ。自分の容貌が指揮の障害になるとは』
長恭は、溜息をついて両手で頬を叩くと、立ち上がり行李の中から羊肉の乾物を取りだした。
「それは、私の罪だと言うのか?顔に刀傷でも付ければ、少しは偉容が増すと?」
長恭は口にしようといていた干肉を置くと、指を頬に当てた。
「だ、だ、だめだ。それでは、鄴中の女子に俺が恨まれてしまう」
須達は、慌てて手で押さえるような手振りをした。
「皆は、そなたの武勇を知らぬ。そなたの強さを皆に知らしめるのだ。将兵の中に入り、強さや人柄で信服させることができれば、反ってそなたの命に忠実に従う頼もしい軍となろう」
須達は干肉を口に入れると、長恭を励ますように酒を注いだ。
★ ★
調練も五日目に入り、兵卒の間にも微かな疲労感が流れていた。
昼食時である。兵卒達は、汁物と焼餅を手に三々五々地面に座り、やっと訪れた休息の時を楽しんでいた。
「さあ来い。稽古を付けてやるぞ」
小隊長である石逸が、二本の木剣を手に若い兵卒に声を掛けた。
「俺を負かしたら、夕飯の焼餅をやろう」
石逸と小柄な男は、木剣を構えると広場の中央に出た。
「さあ来い」
石逸が挑発するように声を掛けるが、男はなかなか動かない。春の陽光の中、痺れを切らした石逸が男に打ち掛かって行った。木剣を受けた小柄な男は、声を挙げると石逸に向っていく。
「よし、いいぞ。もっと強く」
「そうだ、その調子」
石逸は、ほどなく木剣を収めた。
長恭は、自分の幕舎に行く途中、広場で繰り広げられていた二人の稽古に目を留めた。石逸は、長恭が預かった五十人の小隊長であった。三十代の半ばであろうか、数々の戦場をくぐり抜けて来た年輪を、浅黒い頬の皺に刻んでいる百戦錬磨の勇士である。五十人隊の兵卒の信頼も厚い。
石逸は、決して長恭の命令にあからさまに逆らうわけではない。しかし、言葉の端々に女子に見紛う美貌の皇子に対する侮りの感情が滲み出ていた。
長恭は、地面に座り汗を拭いている石逸の横に立った。
「石逸、そちは、なかなかの腕前だな。私と手合わせをしてみるか?」
石逸は、長恭の言葉に驚いて立上がった。石逸は眉の太い、色黒の顎が張った逞しい男である。立ってみると長恭より僅かに背が低い。
「ふん、私に勝つ自信は無いのか?」
長恭は、傲慢を装って言ってみた。長恭の言葉に、石逸は悔しげに唇を噛んだ。
「青白い女子みたいな貴公子に、負ける気はしねえなあ」
「私に勝ったら、そうだな。酒を奢ろう」
長恭と石逸は、木剣を持って広場の中央に出た。
美貌の皇子と叩き上げの小隊長の対決である。自然に、広場の中央に人垣が出来る。
「ようっ、石逸やってやれ」
「そんな、女みたいなやつ、一撃だ」
石逸を煽り立てる声が、人垣から挙がる。
いつもは、身分を憚って口に出せない罵声が、回りから浴びせかけられた。
長恭は背を伸ばして木剣を構えながら、晴朗な瞳で石逸を睨んだ。石逸の隙を窺って丸く回ってっていく。
長恭が、呼吸を整えながら、一歩踏み出し上段から打ち掛かって行くと、石逸は思わぬ力で押し返してきた。先ほど見た稽古から推し量った力量より、遙かに強い。
時を置かず、石逸が斜めに打ち掛かってくる。長恭は左で受けて、横様に打ち払う。
石逸は飛び退くと、いきなり腹を足で蹴ってきた。長恭は、腹に衝撃を受けてよろめいた。高貴な皇子の腹を蹴った石逸の戦い方に、周囲からどよめきが起きた。
石逸の剣術は、正規の剣法ではない。しかし、生き死を賭けた戦では、卑怯も何も無いのである。一介の小隊長が、皇族である皇子を相手に形振り構わぬ剣法で勝負を挑んでいるのである。この勝負に勝っても、処罰は免れないであろう。
腹を蹴られた屈辱感と痛みが、長恭の秘めた闘争心に火を点けた。長恭は、湧上がってくる青白い怒りに任せて、矢継ぎ早に木剣で打ち掛かると、石逸を追い詰めていった。
その剣先は鋭く木剣でありながら、人を斬捨てる鋭さを帯びていった。そして、気が付いたときには、石逸が持っていた木剣を遙か遠くまで弾き飛ばしていたのだ。
白皙の皇子が叩き上げの小隊長に鼻をへし折られる場面を期待していた兵卒達は、言葉も無かった。女子にも見紛う皇子が、いつもの温顔を脱ぎ捨てて、凄まじい剣気を示したのだ。
長恭は、衆目の中、雑兵相手に殺気を示してしまった自分に戸惑った。荒い呼吸を整えながら決まり悪げに俯くと木剣を拾い、石逸に返した。
「そなたの剣術はなかなかのものだ。・・・後で酒を取りに来い」
長恭の剣気の凄まじさに茫然としている石逸に、長恭は声を掛けた。
「参りました。皇子」
石逸は暗い眼差しで、逞しい肩を落した。
「気に病むことは無い。気に入った」
長恭は清涼な笑顔で石逸の肩を叩くと、自分の幕舎に向った。
長恭は、幕舎に戻ると、榻牀に身体を投げ出した。
『無我夢中で、剣を振ってしまった』
石逸と対峙をしているとき、腹を蹴られた衝撃で長恭は我を忘れてしまった。長恭は日頃の温順な顔を打ち捨て、怒りと共に荒々しいもう一人の自分が現われたような気がした。
命のやり取りをする戦では必要な事なのであろう。しかし、仁愛と寛容を学んできた長恭にとって、鬼神のように我を忘れて剣を振う自分は衝撃的であった。
高一族には、高雅な容貌とは裏腹に、残虐な流血を好む性行があるのではないかと思うときがあった。ゆえに、長恭は理性的であることを自分に強いてきたのである。
『戦に行けば、私は私で無くなってしまうのか』
長恭は、榻牀の中でしばらく動けなかった。
★ ★
調練から戻り、明日が出陣と迫った二月の末日、長恭は青蘭と共に漳水の河畔に出掛けた。鄴都を守る西門豹廟に参るためである。
馬車を降りると、春真っ盛りの漳水は、若草が萌え河岸の喬木の中に桃の花が美しく咲いているのだった。
「青蘭、覚えているか?昨年の上巳節では、鳲鷗陂鳲鷗陂に行って潔斎を受けたな」
長恭は、傍らを歩く青蘭を見た。青蘭は、若菜色の上襦に桃染め色の長裙を着け、紅藤色の外衣を纏った春の装いをしていた。髷を低く結うと翡翠を飾った金の簪を刺し、後ろに長く豊かな髪を垂らしていた。
「青蘭、美しい」
長恭は、王家の令嬢らしく装っている王青蘭を見ると、唇を緩めた。
「師兄、世辞を言ってもだめですよ」
青蘭は、長恭の胸をつついた。
「君が、男の形をして居てくれて良かった。その格好だったら、どこぞの貴公子に君を取られていた」
長恭は、腕を伸ばすと青蘭の肩を抱き寄せ接吻しようとした。
「師兄、人が見ています」
漳水の河畔には、青踏のために出掛けている人がちらほら見える。
「いいではないか。我らはいずれ婚姻するのだ。誰に恥じることがあろう」
まだ、正式には婚約していないが、明日は出征しなければならない長恭にとって、一瞬も無駄にしたくない気持ちなのであろう。
「調練は、どうでした?」
青蘭は、性急に唇を求める長恭が気になって、話題を逸らした。
「ああ、なかなか大変だったよ。石逸という小隊長と手合わせをした。なかなか、手強かったよ」
「まさか」
「私が負けると思うか?もちろん勝ったよ。でも・・・その時、己の身体が・・・」
長恭は、眉をひそめ漳水の流れを見た。
「まるで、自分ではないように感じたのだ。まるで、怒りに自分をとられたような・・・制御できないような」
長恭は、なんと表現したらいいのか、もどかしさを感じた。
「武術でも、ある域に達すると、無我の境地に入り、考えずに身体が動くそうです。師兄の場合もそれでは?」
青蘭は、戸惑っている長恭を励ますように腕をさすった。
「師兄は、どのような時でも、仁愛に溢れた師兄です」
長恭は、信頼に満ちた言葉に青蘭を抱き寄せた。
「戦塵の中で、自分を見失ってしまうのが不安なのだ」
初陣は、ほんの形式的なものであった。斛律光将軍の側で、陣を遠くに望むだけであった。しかし、今回は本当の戦闘に初めて参陣することになるのである。
「手柄など立てなくとも無事に戻ってくだされば・・・」
青蘭は、長恭の肩に頭を預けた。
その時、木蓮の花をかたどって金の簪が目に入った。滑らかな翡翠が、木蓮の蕾を表している。長恭は、左手で髷から簪を抜いた。
「この簪を、守りとして私にくれないか?」
「そのような物、皇子が持っていては・・・」
青蘭は、取り返そうと手を伸ばした。
「懐に入れいつも身に付けていれば、君と一緒にいられる」
長恭はそう笑うと、簪を懐にしまった。そして、珊瑚と真珠が桃花を形づくっている簪を取り出した。
「この簪は、母上が父上より贈られた簪だ。以前から、妻になる女人に贈ろうと思っていたのだ」
長恭はそう言うと、青蘭の髷の左側に刺した。
二人は、春の陽光を惜しむように、喬木の林に佇む西門豹廟に向って歩きだした。
★ ★
三月の朔日(一日)、斛律光衛将軍の指揮の下、高長恭は出陣式に臨んだ。
上党郡の西部、沁水と汾水に囲まれた地域は、北魏が東魏と西魏に分裂して以来、東魏が斉に、そして西魏が周に変わってからも、沁水流域をめぐって常に攻防が繰り広げられてきた。
黃河は、年代によってその川筋を変えるが、この時期、黃河が南から大きく東へ流れを変える絳州は周の支配下にあり、晋州の平陽(白馬城)秦平城、安平郡(冀城)の一帯にも周軍が進出してきた。絳州から、副都の洛陽までは、僅か百里(四十キロ)あまり、絳州の支配を許すことは、斉の存亡に拘わるのであった。
長恭は、参軍として馬丁の劉安と従卒の樂緯、そして三人の侍衛と共に出陣した。
文昌殿の前庭は、将兵で埋め尽くされていた。長い階段の上、文昌殿の基壇の上には、大きな台が設けられている。
その中央には、今上帝(高洋)の姿が見えその左右には、皇后の李姐娥、そして尚書令(宰相)の楊愔が控えている。
多くの高官が居並ぶ中、斛律光衛将軍が、階段を登っていく。黒光鎧の大きな勇姿が、威厳を示しながらゆっくりと今上帝に近付いた。
前庭の中程中央に居並ぶ、長恭にも斛律光の背中は大きく感じられた。
前庭に隙間無く居並ぶ将兵を見渡していた高洋は、階段を登ってくる斛律光を一瞬睨んだが、すぐに苦い笑みを浮かべた。高洋は正面に立った斛律光を無表情で見詰めた。
浅黒い肌に、鋭い眼光、口に蓄えた髭はこれまでの斛律偉将軍の武功を誇っていた。
礼に従って、全臣下による挨拶が雷鳴のような大号令で行われた。
斛律光が、一段下から高洋を見上げた。今上帝は、威儀を正すと皇帝らしい冷酷さを含む声で言った。
「晋州への出兵を命じる」
斛律光は、大きな身体で跪くと拱手した。
「命に服します」
斛律光は、腹の底から絞り出すような声で応えると、鋭い眼差しで高洋を見上げた。気圧されまいと、高洋は斛律光を睨み返した。
斛律光は立上がると、基壇から降りて南面し、虎符を示しながら叫んだ。
「者ども、晋州へ出陣だ」
前庭に地鳴りのような二千人の将兵の喚声が響き渡った。
斛律光が率いる勲貴派の武力こそ、斉国の皇帝たる高洋の源泉だ。斛律光による一糸乱れぬ軍の統率と軍律は、皇帝にとって頼もしくはあったが、同時に恐怖の存在でもあった。
高洋は、止車門を出ていく将兵の騎乗姿を見送った。
★ ★
青蘭は、中庸門街の開化坊の前で出征の軍列を待った。
出征の時、軍列は含光門・中陽門を通り、中陽門街から城門を出て、城外の軍営にいる中軍と合流することになっている。
午の刻(午前十二時~午後二時ごろ)である。三月の春の陽光が大街に溢れ、出征を祝う民の熱気が満ちていた。鄴城には人が多いが、どこから湧いてきたのかと思うほどの人出である。
ほどなく、中陽門の方から喚声が聞こえた。長槍の歩兵の列が現われ、次ぎに騎兵が続いた。
先頭の斛律光の威厳に満ちた姿に、一段と大きな歓声が沸く。
斛律光は、当時中原最強の武将であった。その武功は他の追随を許さず、民の人気も絶大であった。
斛律衛将軍の後ろには、軍師、長史、司馬、従事中郎、参軍などの幕僚が続いた。
青蘭は、長恭の明光鎧を参軍の列に中に見付けた。壮強な将兵の中で、優美な明光鎧姿の長恭は目立つ。秀麗な眉目が白い肌に映え、馬が進む度に髷を結った黒髪が、背中でなびいている。
長恭は、騎上から青蘭を探した。中庸門街を進むと、薬房が見えてくる。昨年の夏、青蘭が見送ってくれた場所だ。薬房の店先に青蘭は立っていた。
青磁色の上衣に鴇色の外衣を身につけた姿は、男子の中でも決して埋もれることはない。髪を高く結い珊瑚と真珠を飾った母の簪を刺している。
長恭の唇が自然に綻んで、手綱を握った手を振った。不安げにさまよっていた青蘭の瞳が、喜色に染まった。
『必ず、生きて帰ってくる』
声の出ない唇でそう言うと、長恭は顔を引き締め前を向いて手綱を引いた。
長恭の花顔を見たとき、誇らしいと思うと共に、もう会えぬのではないかという痛みが心を貫いた。
城門の方に向う長恭の真っ直ぐな後ろ姿は清高でどこまでもついて行きたい衝動に駆られた。
「ねえ見た?皇子様が私に手を振ってくださったわ、小梅」
「ええ?そうでございますか?」
二、三人向こうに、十五、六歳ぐらいの令嬢と年嵩の侍女が話している。
「皇子様は、お嬢様をご存じで?」
「私を見初められたのだわ」
少女は夢見心地でそう言うと、次女と一緒に薬房の店先を離れた。
『師兄が知らなくても、師兄に思いを寄せる女人は多い』
それは、長恭には与り知らぬ事であった。しかし、皇族は、正室の他に多くの妃妾をおくのが普通である。一生側に居ると誓った長恭の言葉に関わらず、青蘭は不安を感じざるをえなかった。
青蘭は、大きく太陽が傾いた頃、鄭家の屋敷に戻った。
調練もすみ、いよいよ北周国境への出陣する長恭は、はたして武功を立てられるでしょうか。