青蘭の決意
戦の武功で、婚姻を許してもらおうと考えた長恭は、あわただしく青蘭を鄭家に返すと、一族の実力者段詔を訪ねる。
二月朔日(一日)、長恭は酒を携えて段韶邸を訪れた。昨年、段韶が宣訓宮を訪れた際、長恭を招いてくれていたのを思いだしたのである。
段韶は、この時尚書右僕射で宰相の一人である。長恭は、礼儀通り宦官を送り訪問の許しを得ていた。
段韶は、皇太后の甥に当たり、高歓、高澄、高洋の三代に仕えた功臣である。その邸宅は戚里の中にあり、広大な規模を誇っていた。
馬車を降りた長恭は、大門で門衛に声を掛けた。若い宦官が、長恭を正殿に案内した。段韶は、武勇に長けているだけでなく、学問を佳くし風流を解する違丈夫であった。
邸内には、さながら王宮のように蓮池を持ち四阿や築山、珍しい巨石など自然の絶景を映す美しさであった。
家人に導かれ長恭が書房に入ると、書類を開いていた段韶が、目を上げた。
「おう、長恭皇子よう来られた」
大人の風格を湛える目に温柔な皺を寄せて、段韶は几案から立ち上がった。
「孝先(段韶の字)様、先日のお招きの言葉に甘えて押しかけてきました」
長恭は、族伯父である段韶に揖礼(顔の前に手を合わせるていねいな礼)をした。
「楽に、・・文襄帝の皇子である長恭殿は、皇太后様の秘蔵っ子。我が子も同然だ」
段韶は長恭の腕を支えると、目の周りに皺を作ると親しげに右肩を叩いた。
「御祖母様から下賜された酒を持って来ました。一緒にいかがですか?」
長恭は、下げてきた酒壺を見せて笑った。
段韶はこの時、平原郡王の爵位を持ち、尚書右僕射の職にあり、散騎侍郎で爵位を持たない長恭にとっては、遙か雲の上の存在であった。しかし、従兄の息子として温かい笑顔で一族の情を示してくれたのだ。居房に移ると、卓の上に宴の用意がされている。
「妻がおらぬので行き届かぬが、酒だけは沢山あるぞ」
段韶は、三年前に正妻を亡くしている。自ら二つの酒杯に酒を満たすと、一つを長恭の前に置いた。
段韶は、向かいに座る今年で十九歳になる美しい青年を見た。
長恭の妖艶といっていい瞳は、従兄の高澄によく似ている。秀でた鼻梁と、形のいい桃の花弁を並べたような唇は、美貌を謳われた母の荀翠容譲りであろうか。幾多の調練にもかかわらず、その頬は玉のような白さを保っている。
「あの小さかった長恭皇子と、このように酒を酌み交わせるとはな。・・・大きくなられた」
段韶は、懐かしい人に会ったように目をしばたかせた。
「散騎侍郎として、職責をよく果たしていると聞いておる」
「私など、恥ずかしい限りです」
長恭は、酒杯を引き寄せた。
「長恭皇子のこれからの活躍を祈念して」
「孝先様の、健康を祈念して」
段韶と長恭は、酒杯を打ち合わせると酒を干した。
居房には、曹操の『短歌行』詩賦が記された掛物が掲げられている。
月明らかに 星稀にして
烏鵲 南に飛ぶ
樹を繞ること三匝
何れの枝にか 依る可き
月は明るく星はわずか
鵲が南に翔る
木の周りを三たび回り
身を寄せる枝を探す
曹操は、『乱世の英雄』と言われ、武人として有名であるが、三国時代の代表的な文人でもある。
長恭は、段韶の雄大な手跡に感嘆の溜息をついた。
「顔之推の元で、学問をしたそうだな。それも、皇太后様の期待の表れだ。職務に励むがよい」
「私の学問など、まだ孝先様の足元にも及びません」
長恭は、持って来た酒を、段韶の杯に注いだ。
「実は、族伯父上に願い事があるのです」
長恭は、緊張して段韶の顔を見た。
「長恭皇子から、願い事とは珍しいな」
段韶は、差し出された酒杯に口を付けた。
「私の婚姻のことで、ご助力をお願いしたいのです」
「ほう、そなたの婚姻とな」
長恭もすでに十九歳である。婚姻の早い皇族の中で、格段に遅い。その美貌は広く知られており、婚姻を望む令嬢は多いと聞く。しかし、昨年斛律光の息女との噂が立ったが、婚約したという話は聞いていない。
「婚姻したい令嬢がいるのです」
長恭は、酒杯を干すと顔を赤らめて俯いた。
「ほう、長恭皇子が自ら婚姻したい令嬢とは、どの高官の令嬢であろう」
「梁の王琳将軍の令嬢、王青蘭殿です」
長恭は、意を決したように一気に言葉に出した。
段韶の知る王琳将軍は、猜疑心の強い元帝の裏切りにあってもその忠義を貫いた義臣であった。先日は、永嘉王簫莊を帰還させ、梁の旧臣を結集してその再興を図ろうとしている。その、王琳将軍の令嬢と長恭に関わりがあるというのか。
「ほう、王琳将軍の令嬢か」
「永嘉王の元に、皇太后様の御命で何度か訪問しました。その帰還に当たり、王青蘭殿には協力をいただきました」
長恭は、顔之推門下で共に学問をしたことなどは、伏せて話をした。
「王琳将軍は、梁の武将ですが、今は斉に臣従しています。長江流域では、陳を圧倒しているとか」
斉にとっての王琳の価値を測っているのか、段韶は目を細めた。
「王琳将軍の令嬢をそなたが見初めたのか?」
皇太后と王琳将軍の間で婚姻が決まっているなら、自分に助力を請うはずがない。
「はい、王青蘭殿は、見識の高い女人なのです。博学多才で美しい方です。生涯を共にしたいと思う女人なのです」
長恭は、縋る思いで段韶を見詰めた。
「皇太后様のお考えは、どうなのだ?」
「武功をもって、自らの力で獲得せよと仰せなのです。」
こたびの戦で確実に婚約のお許しが出るとは限らない。一族の信頼されている年長者から皇太后に話して貰うという形を取った方が、上手くいくのではないか。そう思って、一番信頼を置いている段韶に助力を願ったのであった。
「皇太后様も、そなたの婚姻については考えていよう。しかし、当人同士の思いだけで成し遂げられるものではない」
士大夫の婚姻は、通常政治的な利害関係により決められるのが普通である。長恭は、妻に母のような悲しい思いをさせたくないと、妻はただ一人の思い人と心に決めていた。
「王琳将軍の令嬢との婚姻は、斉の政にとって必ず有益だと思うのです。娘が斉の皇族に嫁げば、斉の朝廷に従うはずです」
段韶は、この美貌の族甥を改めて観た。若者らしい純粋な情熱だけでなく、政治的な策略にも長けているらしい。
「確かに、南朝で輿望を集める王琳将軍を味方に付けることは、斉にとって意味のあることだ」
険しかった眉を緩めると、段韶は長恭の酒杯に酒を満たした。
「そなたの思いは分かった。皇太后様に話してみよう。しかし、そのためには・・・今度の出兵で一人前の武功を挙げねばならぬぞ」
鮮卑族は、武を持って国に仕えることを旨としている。褒美として婚姻を賜るほどの活躍をせよと言っているのだ。
「必ずや、手柄を立てて見せまする」
長恭は、段韶に向って力強く拱手すると、一気に酒杯を干した。その日は、夜遅くまで二人の酒盛りは続いた。
★ ★
啓蟄が過ぎた。草木は紅梅から杏の白い花が咲く季節になった。鄭家の後苑にも薄紅色の木瓜の花が可愛い花を見せている。
数日後、青蘭は顔氏邸に出掛けた。
王青蘭の姿で顔氏邸に来るのは初めてである。垂花門から内院に入ると、男子ばかりの学士の目が青蘭に集まった。顔之推の名声を頼ってくるのであろうか、学士の数が、格段に多くなっている。
「王青蘭様、お久しぶりでございます?」
物思いに耽っていた青蘭に、一人の家人が声を掛けた。見ると元烈である。四ヶ月しか経っていないが、身体が一回り大きくなり、逞しい少年になっている。
「元烈なの?久し振りね。元気なの?学問は続けている?」
青蘭は、矢継ぎ早に質問した。元烈は、女人の姿の青蘭から眩しそうに視線を外して微笑んだ。
「旦那様がお待ちでいらっしゃいます」
青蘭は、元烈の後を正房まで進んだ。
顔之推が筆置きに筆を戻し、青蘭に目を遣った。
「王文叔、師父に御挨拶を申し上げます。お久しぶりです」
青蘭は、胸に手を当てて優雅に礼をした。常に男装をしていた青蘭が、今日は春らしい薄紅色の外衣と孔雀緑の長裙を纏っている。芽吹き始めた雪柳のような可憐さである。
『文叔とは、このように清々しい少女であったか』
昨年の十月に、高長恭が文叔の行方を捜して執拗に食い下がったのも納得がいく。
「昨年は、師父の許しも得ず学問を中断しましたことをお詫び致します」
青蘭は、玉の入った櫃を之推に献げた。
「文叔、どこへ雲隠れしていたのだ。鄴を出ることを、長恭には知らせなかったのか?そなたを探してここへきたのだぞ?」
「申し訳ありません。師父にはご迷惑をお掛けしました」
話は聞いていたが、長恭があらゆる手を尽して青蘭を探していたのだ。
顔氏門下で肩を並べ仲良く学ぶ姿は、二人の端正な美貌と相まってたいそう目立つ存在であった。。
「実は、長恭様との婚姻の話があるので、男子として学問をするわけにはいかないのです。でも、学問は諦めたくないのです」
以前のように男装をしては長恭との婚姻を壊しかねない。
「婚儀の話があるなら、以前のように学ぶことは難しかろう」
青蘭は、己が女人である事が悔しくて唇を噛みしめた。
顔之推は、書房の書架から、荀子の『臣道篇第十三』を取り出すと、青蘭に渡した。
「今度来るまでに、これを読んでおくがいい。その時、人臣についてのそなたの考えを訊きたい。学びは、場所ではない。学ぶ心あれば、そこが則ち学堂である」
青蘭は、顔之推に挨拶をすると、『荀子』の書冊を懐に垂花門に向った。
青蘭は、師弟の縁は切れていないという顔之推の言葉が嬉しかった。なぜ、女人は婚姻と学問のどちらかを選ばなければならないのだろうか。男子だったら、妻を持って学問をしている者は多い。いや、むしろ婚姻をしてから本格的に学問に励むと言っていい。なぜ、女人にはそれが許されないのか。
垂花門の側の白梅は盛りを迎え、隣の紅梅もちらほらと咲き始めている。
「なぜ、紅梅と白梅は同じでは無いんだ」
青蘭が、垂花門をくぐり大門に行くと、そこに長恭が立っていた。
「師兄、どうしてここに」
「鄭家の家人を買収している」
長恭は、悪戯っぽい笑いを浮かべると、青蘭の腕を取った。
★ ★
長恭は、青蘭を大門の前に駐めた馬車に乗せると、いきなり両手で抱きしめた。
「青蘭、君が出ていって以来、どれほど会いたかったか」
長恭の腕の強さに、青蘭は長恭の肩に頬を埋めた。長恭の甘やかな沈香の香が、首筋から立ち上り、会えなかった時間の切なさを感じさせる。
「会いたかったのは、私」
青蘭は、腕を伸ばすと長恭の背中に伸ばした。掌には、引き締まった長恭の背が温かく感じられる。
「顔師父に、挨拶に行ったの。・・・何故師兄がここに?」
「君の外出を知らせてくれるように、家宰に頼んでおいたのだ」
家宰の楊良信に長恭が渡りを付けたのかと、意外な気がした。
「君の外出の時にしか、会えぬであろう?」
悪戯を見付けられた子供のように眉をひそめて、長恭は青蘭を見た。青蘭は長恭の困ったような顔に、小さな笑いを抑えられなかった。長恭のためだったら、学問の道が困難になっても躊躇わないであろう。
「何がおかしい?」
「師兄が、そんな技を使うとは、・・・」
長恭は、青蘭の身体を引き上げると横抱きに膝の上に載せた。青蘭は思わず平衡を失って、長恭に抱きついた。
「君を守るためなら、卑怯者にもなる。」
長恭は、青蘭の耳元で甘く囁いた。
「清廉居士の師兄を、卑怯者にしたら、私は妖女と呼ばれるわ」
青蘭は肩に手をのせて身体を立て直すと、長恭の秀麗な瞳を見た。
「君が妖女なら、私に術を掛けてくれ」
長恭は青蘭の頬に唇を寄せた。
『師兄に、何時も術を掛けられているのは、私だわ』
「ああっ」
青蘭が、長恭の膝の上で身じろぎをすると、長恭は溜息をついた。
「青蘭、君は重すぎる」
長恭は、急に不機嫌な顔で青蘭を膝から降ろすと、窓を開け外を見た。馬車の外を見ると、中陽門街を南にゆっくり走っている。
馬車の窓からは、花の香りを含んだ薫風が入ってくる。長恭は、なぜか赤面した頬を風に当てていた。
「この玉珮を、君に贈ろう。この玉珮を金明門で見せれば、私に連絡が届くようにしておく」
長恭は、青蘭の涙を拭うと、腰の白玉に縹色の房飾りが付いた玉珮を青蘭に渡した。
長恭は、自ら青蘭の帯に玉珮を付けた。見ると、帯には青蘭の茉莉花の香り袋が下がっている。
「君のいない宣訓宮は、寂しすぎる。君の匂い袋を代わりに貰いたい」
青蘭は、帯から孔雀緑の匂い袋を外すと、手に取った。江南から送られてきた茉莉花を入れて作った匂い袋である。
長恭達の乗る馬車は、漳水の畔に至った。
そこは、長恭と青蘭が友として射術の鍛錬に励んだ場所だった。
二人は、若草の萌える漳水の河畔に降り立った。
鄭家へ戻った青蘭は、久しぶりに学問の師匠である顔之推を訪ねた。婚姻により以前のように学問に打ち込めないことを思い知らされた青蘭であった。