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長恭の決意

青蘭が、鄭家に戻ることが決まり、天灯をあげながら婚姻を誓う会う二人だった。南朝では、簫莊の帰還の日が迫っていた。

年が明けるとほどなく、青蘭の父王琳将軍は、甥の王叔宝(おうしゅくほう)を鄴に()り永嘉王簫莊(しょうそう)を迎えさせた。一月の中旬、|王叔宝に鄴都に到着し、永嘉王(えいかおう)簫莊の帰還が二十日に決まった。

それに伴い、王琳は今上帝高洋より、梁の丞相(しょうじょう)都督(ととく)中外諸軍・録尚書事(ろくしょうしょじ)に任じられた。


簫莊(しょうそう)は、梁の皇子である。幼少の頃当時の東魏に人質に出され、皇宮の片隅で育った薄幸(はっこう)の皇子である。

莊皇子が鄴にいる間に、父の元帝は崩御(ほうぎょ)し梁王朝は、滅んでしまったのである。

しかし、梁の再興(さいこう)執念(しゅうねん)を燃やす青蘭の父である王琳将軍は、永嘉王簫莊の帰還を斉に願い出た。前皇帝の皇子である簫莊を旗頭(はたがしら)にして、梁の旧臣の結集を図ったのである。


当初、王琳将軍は、高敬徳と青蘭の婚姻によって斉からの援軍を引き出そうとしていたのだ。しかし、青蘭の出奔によって、そのもくろみはあえなく消えてしまったのである。青蘭が江陵から出奔しなければ、簫莊が帰還することもなかったと思うと、簫莊に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。



蕓望亭(うんぼうてい)の書房には、蝋燭の灯火が灯り、火爐(かろ)が置かれて温かい空気が漂っている。

「永嘉王も今年で十一歳だ。ずいぶん逞しくなって来ている」

書架(しょか)の側に立ち、『史記』の書冊を開きながら、長恭は莊皇子を思った。昨年南院を訪れて以来、長恭は簫莊の元を訪ね、兄のように投壺や学問を教えていたのだ。

長恭は、几案に座る青蘭に振り向くと、青蘭の背中から両肩に手を置いた。

「南朝は、戦乱のさなか。・・・梁に帰れば、その苦労は並大抵ではないわ」

青蘭は、莊皇子の前途を思うとその哀れさに深い溜息が出た。

「私も皇子が心配だ。・・・出立の時は、ぜひ見送りに行きたいと思っている」

青蘭は、几案(きあん)(机)の上で開いていた『文選』を閉じると、ゆっくりと立上がった。

「師兄、私も見送りに連れて行ったください」

春の温かさが増すにつれて、青蘭の腰の痛みも少なくなっている。青蘭は、向き直ると長恭を見上げた。蝋燭の灯火が、青蘭の秀でた鼻梁と黒目がちな瞳に美しい影を作っていた。

「もちろんだ。王将軍の令嬢である君が見送りに行けば、どれほど心強いか」


長恭は、青蘭の肩に腕を回すと、優しく引き寄せた。ほどなく、青蘭は宣訓宮を出て、鄭家に戻るのだ。そうなれば、今のように頻繁に会うことはできない。茉莉花(まりか)の香りが、長恭に寄せた青蘭の首筋から立上ってくる。

「青蘭、寒い中で大丈夫か?」

長恭は青蘭の背中を(いたわ)るように()でた。そして耳元で囁くと、高く輪に結った侍女の髷に頬を寄せ口づけした。


           ★        ★



簫莊が帰還(きかん)する日は、一月の早春には珍しい粉雪の降る日だった。長恭と青蘭は、簫莊を見送るために早朝、南院に出掛けた。

南院の門の前に着くと、大門前には数台の馬車が準備され、多くの護衛の兵が物々しく取り囲んでいた。


長恭は令珮(れいはい)を見せると、雪がうっすらと積もった院内に入った。簫莊に仕える宮女や宦官達が、忙しく家財や大きな(ひつ)を門の外に運んでいる。

長恭達は、案内を請わずに正殿の扉の前に立った。

「莊皇子、・・・私だ。高長恭だ」

長恭が声を掛けると、おずおずと扉が開かれた。そして、萌黄色(もえぎいろ)の長衣が扉から跳び出してきた。

「長恭兄上、見送りに来てくれたのですね」

簫莊は、(うれ)しげな叫び声とともに長恭に跳び付いた。

「よかった、よかった。・・・もう会えないかと思った」

莊皇子は、(たくま)しい長恭の腕にぶら下がるようにして喜びを表している。長恭は、簫莊を抱き上げると嬉しそうに差し上げた。


堂の中は、すっかり片付けられて殺風景(さっぷうけい)である。簫莊は、長恭の手を引くと僅かに残された(とう)(長椅子)に座らせた。

「莊皇子、風邪を引いていないか?」

長恭は、簫莊の方を向くと乱れていた外衣の(えり)を合わせてやった。

「莊皇子、南朝までの道は長い。・・・身体に気を付けて」

簫莊の顔を見ると、初めて会った頃が思い出される。この半年で随分逞しくなっている。長恭は、隣りに座る莊皇子の肩や腕を励ますように軽く叩いた。


簫莊は、ここでやっと青蘭に気が付いてくれた。青蘭は、陵の臣下の礼を尽くして揖礼(ゆうれい)をした。

「王琳将軍の娘王青蘭でございます」

簫莊は立上がると、笑顔で拱手(きょうしゅ)した。

建康(けんこう)の菓子を持ってきてくれた王琳の令嬢ですね」

簫莊は、人の気持ちを()らさない少年である。

「斉で受けた青蘭殿の好意は、必ず王将軍に返します。北朝に来て六年。鄴都(ぎょうと)に住んだ年月の方が長いのだ。むしろ、故郷を離れる思いがするのです」

簫莊が堂から外を見ると、鈍色(にびいろ)の雪雲から白い雪が舞い降りているのが見えた。雪の中では(りょう)への道すじは、困難(こんなん)を極めよう。

出立(しゅったつ)の時の雪は、吉兆(きっちょう)。必ず()きことがございましょう」

長恭は簫莊を励ますように、自分では信じていない吉兆の話をして笑顔を作った。

「兄上、私は怖いのです。南朝で私は何をすれば・・・」

簫莊は心細さに眉をひそめると、隣に座る長恭に身を寄せた。出立が目前になって、簫莊は急に先行(さきゆき)きが恐ろしくなったのだろう。こらから行くのは、父母もいない幼き頃に離れた土地である。

「莊皇子、南朝には青蘭殿の父上の王琳将軍がいる。心を強く持って」

長恭は、簫莊の肩に両手を置くと励ますように見詰めた。


堂の外から、見知らぬ侍衛(じえい)が簫莊に声を掛けた。

「永嘉王様、出立(しゅったつ)の時刻が迫っておりまする」 

簫莊は、扉の外を睨んだ。

雪模様(ゆきもよう)の時は、夕暮れが早いそれで心配しているのでしょう。今日は安陽(あんよう)に泊まるはず。心配いりません」

青蘭は、莊皇子を(なだ)めるように微笑んだ。


早春の雪は、やがて牡丹雪(ぼたんゆき)となった。

長恭と青蘭が、門の外で待っていると、黒貂(くろひょう)(えり)を付けた青い被風姿の簫莊が現われた。

(うつ)ろな目は、雪の降る横街を見渡した。そして、雪の中に長恭と青蘭を見付けると、一瞬灯りが(とも)ったように微笑んだ。しかし直ぐに顔を引き締めると、王青蘭の従兄の王叔宝に目を遣り馬車に乗り込んだ。乗り込む直前、これが見納めと思ったのであろうか、長らく暮らした南院の門を一瞬振り返った。

雪は一層激しくなり、皇宮の東の出口、春建門(けんしゅんもん)を出る頃にはすでに馬車の姿は見えづらくなった。後には、馬車の(わだち)の跡が四筋残った。そして、ほどなくその跡も薄れて見えなくなってしまった。


長恭は、横街の東門の春建門の向こうをじっと見詰めていた。

「南朝で、無事にやって行けるであろうか。、何しろまだ十歳の子供だ」

「師兄の弟子です。しっかり遣って行くに違いありません。それに父もおります」

青蘭は、長恭と自分に言い聞かせるつもりで力を込めて言った。長恭は、まだ完全に治りきっていない青蘭を後ろから抱きしめた。



永嘉王簫莊は、およそ半月をかけて、長江のほとり郢州(えいしゅう)まで至り、安城郡(あんじょうぐん)で梁の皇帝に立てられた。王琳は簫莊により、梁の侍中、使侍節大将軍、中書監(ちゅうしょかん)に任じられた。また、元帝により封じられていた建寧県侯(けんねいけんこう)より、安城郡侯(あんじょうぐんこう)改封(かいふう)された。

この後、王琳は簫莊と共に長江沿いの濡須口(じゅすこう)に進軍し、大いに勢力の拡大を図るのであるが、それは後のことである。


     ★     ★


侍中府の前の白梅が、足元に残雪を残してほの甘い香りを漂わせている。


侍中府(じちゅうふ)の書房では、季節に関係なく散騎侍郎(さんきじろう)達が、上奏文(じょうそうぶん)格闘(かくとう)していた。

散騎侍郎の定員は四名である。鮮卑族の不満を解消するために、以前鮮卑族の一人が任命されたことがあったが、時々登朝(とうちょう)するだけで、半時ほどいると職務(しょくむ)に飽きて帰ってしまうのであった。長恭のように、文書の分類や要約文(ようやく)、そして文書の作成に関われる皇族は稀であった。

中国の政は、文書によって成り立っている。斉国の全土から送られてくる上奏文は膨大(ぼうだい)で、慢性的な人手不足であった。それを補うために、廬思道(ろしどう)のような員外の散騎侍郎が数名任命されているのである。その多くは、(たた)き上げの学者でありその全てが漢人であった。


「兄上」

聞き慣れた少年の声で、長恭は上奏の帖装本(ちょうそうぼん)から目を上げた。僅かに開いた扉の脇に、鮮やかな鴇色(ときいろ)の長衣に若草色の背子を着た延宗が立っている。

「長恭兄上、ちょっと」

延宗が手招きをすると、侍郎達は仕事を中断して挨拶をする。

王の爵位(しゃくい)を持つ安徳王延宗は、ここにいる誰よりも爵位が上なのである。侍中府の職務を滞らせるわけには行かない。長恭は、立上がると延宗のいる回廊に出た。

「どうしたのだ、延宗」

長恭は、珍しく不機嫌(ふきげん)な顔で延宗を見下ろした。

「兄上に、お願いがあるのです」

延宗は、新しい玩具を見付けたように得意顔(とくいがお)で長恭を見た。


長恭は書房に声を掛けると、延宗を誘って侍中府の中庭にある梅林に出た。白梅に混じって紅梅が(かぐわ)しい香を放っている。

「延宗、侍中府に来るとは、どうしたのだ」

長恭は、露台の()に腰を掛けて延宗を見た。延宗は、警戒するように辺りを見回すと、向かいに座った。

「今日、斛律将軍が三月には、斉へ出兵すると言っていたんだ。二月には練兵に行くそうだ」

延宗は、後宮に住まってているので、朝議にかけられる前の事案を耳にすることも多いのである。

「三月の出兵で初陣(ういじん)を飾りたいのだ。兄上から御祖母様に言ってくれないかな」

延宗は、後宮から出たがっている。この度の戦いで初陣を飾り、褒美(ほうび)として屋敷を(たまわ)り後宮を出るつもりなのだ。

「延宗、今の剣術と射術の腕前では、命が危ないぞ。今回は我慢しろ」

「なんだ、あんなに稽古をしたのに、まだだだめだというのですか」

延宗は、椅に腰かけた足をぶらぶらしている。長恭は、延宗のがっかりして肩を落している姿が、可愛いと思った。

「そうだ、斛律(こくりつ)将軍に師事したらどうだ。斛律家で認められれば、すぐに初陣も叶う。今度、宣訓宮に来たとき、御祖母様にお願いしてみよ」

延宗は、後宮を出る道筋が見えたと、軽い足取りで帰って行った。


     ★     ★


長恭は、書架(しょか)書冊(しょさつ)を重ねると(ひつ)に入れた。

「青蘭、君の書冊はこれだけか?」

青蘭は、筆と文鎮(ぶんちん)、硯を書箱にしまった。


昨日長恭が侍中府より早く帰ると青蘭の住まう蕓望亭を訪れた。

「青蘭、早く鄭家に戻るのだ」

「師兄、いきなりそんな・・・」

青蘭は不満げに口を(とが)らせ、長恭を見上げげた。黒目がちな瞳が、麗雅(れいが)な光を(たた)えて魅力的に見える。

「私が恋しくて離れられないと?」

長恭が、いきなり花顔を青蘭に近付けてきた。驚いた青蘭は、のけぞると()れ隠しに長恭の胸を叩いた。長恭は、青蘭の腕を捉えると逞しい腕で優しく抱き寄せた。

「私も、一日とて顔を見ない日は耐えられぬ。しかし、時がないのだ。三月には出兵があるのだ」

青蘭は理解できないと言うように、首を傾げた。

段孝先(だんこうせん)〈段韶)様に協力をお願いして、御祖母様に君との婚姻の許しを得たいと考えているのだ。この出陣で手柄を立てれば、褒美として君との婚姻を許されるだろう。だから、急いでいるのだ」


婚姻は、家と家との結びつきである。ゆえに、正式な婚姻のためには、一族の重鎮の承認が不可欠なのである。正室は深窓(しんそう)の令嬢こそ相応(ふさわ)しいのである。青蘭が侍女勤めをしていた経歴は軽く見られ、正式の婚姻の障害になる可能性がある。

「侍女では都合が悪い。王琳将軍の令嬢として、孝先様に助力を()いたい。分かってくれ」

長恭が言葉に力を込めて見詰めると、青蘭は頷かざるをえなかった。

『師兄は、真剣に考えてくれているのね』

しかし、宣訓宮で働く自分が、深窓の令嬢より(たっと)ばれないとは、何か理不尽(りふじん)な気がした。

「分かったわ。明日にでも鄭家に戻ります」

青蘭は、溜息をつくと長恭の肩に頬を寄せた。



    ★         ★  



二月朔日(さくじつ)(一日)、長恭は酒を(たずさ)えて段韶邸を訪れた。昨年、段韶が宣訓宮を訪れた際、長恭を招いてくれていたのを思いだしたのである。


段韶は、この時尚書(しょうしょ)右僕射(うぼくや)で宰相の一人である。長恭は、礼儀通り宦官を送り訪問の許しを得ていた。

段韶は、皇太后の甥に当たり、高歓、高澄、高洋の三代に仕えた功臣である。その邸宅は戚里(せきり)の中にあり、広大な規模を誇っていた。


馬車を降りた長恭は、大門で門衛に声を掛けた。若い宦官が、長恭を正殿に案内した。段韶は、武勇(ぶゆう)()けているだけでなく、学問を()くし風流(ふうりゅう)を解する違丈夫(いじょうふ)であった。

邸内には、さながら王宮のように蓮池を持ち四阿や築山、珍しい巨石など自然の絶景(ぜっけい)を映す美しさであった。


家人に導かれ長恭が書房に入ると、書類を開いていた段韶が、目を上げた。

「おう、長恭皇子よう来られた」

大人の風格を湛える目に温柔(おんじゅう)(しわ)を寄せて、段韶は几案から立ち上がった。

孝先(こうせん)(段韶の字)様、先日のお招きの言葉に甘えて押しかけてきました」

長恭は、族伯父(おじ)である段韶に揖礼(ゆうれい)(顔の前に手を合わせるていねいな礼)をした。


「楽に、・・文襄帝(ぶんじょうてい)の皇子である長恭殿は、皇太后様の秘蔵っ子。我が子も同然だ」

段韶は長恭の腕を支えると、目の周りに皺を作ると親しげに右肩を叩いた。

「御祖母様から下賜された酒を持って来ました。一緒にいかがですか?」 

長恭は、下げてきた酒壺(さかつぼ)を見せて笑った。

段韶はこの時、平原郡王の爵位を持ち、尚書右僕射の職にあり、散騎侍郎で爵位を持たない長恭にとっては、遙か雲の上の存在であった。しかし、従兄(いとこ)の息子として温かい笑顔で一族の情を示してくれたのだ。居房に移ると、卓の上に宴の用意がされている。

「妻がおらぬので行き届かぬが、酒だけは沢山あるぞ」

段韶は、三年前に正妻を亡くしている。自ら二つの酒杯に酒を満たすと、一つを長恭の前に置いた。


段韶は、向かいに座る今年で十九歳になる美しい青年を見た。

長恭の妖艶(ようえん)といっていい瞳は、従兄の高澄によく似ている。秀でた鼻梁(びりょう)と、形のいい桃の花弁を並べたような唇は、美貌を謳われた母の荀翠容(じゅんすいよう)譲りであろうか。幾多(いくた)調練(ちょうれん)にもかかわらず、その頬は玉のような白さを保っている。

「あの小さかった長恭皇子と、このように酒を()み交わせるとはな。・・・大きくなられた」

段韶は、懐かしい人に会ったように目をしばたかせた。

散騎侍郎(さんきじろう)として、職責(しょくせき)をよく果たしていると聞いておる」

「私など、恥ずかしい限りです」

長恭は、酒杯を引き寄せた。

「長恭皇子のこれからの活躍を祈念(きねん)して」

「孝先様の、健康を祈念して」

段韶と長恭は、酒杯を打ち合わせると酒を干した。

居房には、曹操(そうそう)の『短歌行』詩賦(しふ)が記された掛物が掲げられている。

 

月明らかに 星稀(ほしまれ)にして

烏鵲(うじゃく) 南に飛ぶ

樹を(めぐ)ること三匝(さんそう)

(いれ)れの枝にか ()()


月は明るく星はわずか

(かささぎ)が南に(かけ)

木の周りを三たび(めぐ)

身を寄せる枝を探す


曹操は、『乱世の英雄』と言われ、武人として有名であるが、三国時代の代表的な文人でもある。

長恭は、段韶の雄大な手跡(しゅせき)感嘆(かんたん)溜息(ためいき)をついた。

顔之推(がんしすい)の元で、学問をしたそうだな。それも、皇太后様の期待の表れだ。職務(しょくむ)に励むがよい」

「私の学問など、まだ孝先様の足元にも及びません」

長恭は、持って来た酒を、段韶の杯に注いだ。

「実は、族伯父上(おじうえ)に願い事があるのです」

長恭は、緊張して段韶の顔を見た。

「長恭皇子から、願い事とは珍しいな」

段韶は、差し出された酒杯に口を付けた。

「私の婚姻のことで、ご助力をお願いしたいのです」

「ほう、そなたの婚姻とな」

長恭もすでに十九歳である。婚姻の早い皇族の中で、格段に遅い。その美貌は広く知られており、婚姻を望む令嬢は多いと聞く。しかし、昨年斛律光の息女との噂が立ったが、婚約したという話は聞いていない。

「婚姻したい令嬢がいるのです」

長恭は、酒杯を干すと顔を赤らめて俯いた。

「ほう、長恭皇子が自ら婚姻したい令嬢とは、どの高官の令嬢であろう」

「梁の王琳将軍の令嬢、王青蘭殿です」

長恭は、意を決したように一気に言葉に出した。


段韶の知る王琳将軍は、猜疑心(さいぎしん)の強い元帝の裏切りにあってもその忠義(ちゅうぎ)を貫いた義臣であった。先日は、永嘉王簫莊を帰還させ、梁の旧臣を結集してその再興を図ろうとしている。その、王琳将軍の令嬢と長恭に関わりがあるというのか。

「ほう、王琳将軍の令嬢か」

「永嘉王の元に、皇太后様の御命(ごめい)で何度か訪問しました。その帰還に当たり、王青蘭殿には協力をいただきました」

長恭は、顔之推門下で共に学問をしたことなどは、伏せて話をした。

「王琳将軍は、梁の武将ですが、今は斉に臣従(しんじゅう)しています。長江流域(ちょうこうりゅういき)では、陳を圧倒しているとか」

斉にとっての王琳の価値を測っているのか、段韶は目を細めた。

「王琳将軍の令嬢をそなたが見初めたのか?」

皇太后と王琳将軍の間で婚姻が決まっているなら、自分に助力を請うはずがない。

「はい、王青蘭殿は、見識の高い女人なのです。博学多才(はくがくたさい)で美しい方です。生涯を共にしたいと思う女人なのです」

長恭は、(すが)る思いで段韶を見詰めた。


「皇太后様のお考えは、どうなのだ?」

「武功をもって、自らの力で獲得せよと仰せなのです。」

こたびの戦で確実に婚約のお許しが出るとは限らない。一族の信頼されている年長者から皇太后に話して貰うという形を取った方が、上手くいくのではないか。そう思って、一番信頼を置いている段韶に助力を願ったのであった。

「皇太后様も、そなたの婚姻については考えていよう。しかし、当人同士の思いだけで成し遂げられるものではない」

士大夫の婚姻は、通常政治的な利害関係により決められるのが普通である。長恭は、妻に母のような悲しい思いをさせたくないと、妻はただ一人の思い人と心に決めていた。

「王琳将軍の令嬢との婚姻は、斉の政にとって必ず有益(ゆうえき)だと思うのです。娘が斉の皇族に嫁げば、斉の朝廷に従うはずです」

段韶は、この美貌(びぼう)族甥(おい)を改めて観た。若者らしい純粋な情熱だけでなく、政治的な策略(さくりゃく)にも長けているらしい。


「確かに、南朝で輿望を集める王琳将軍を味方に付けることは、斉にとって意味のあることだ」

(けわ)しかった眉を(ゆる)めると、段韶は長恭の酒杯に酒を満たした。

「そなたの思いは分かった。皇太后様に話してみよう。しかし、そのためには・・・今度の出兵で一人前の武功(ぶこう)を挙げねばならぬぞ」

鮮卑族は、武を持って国に仕えることを(むね)としている。褒美として婚姻を賜るほどの活躍をせよと言っているのだ。

「必ずや、手柄を立てて見せまする」

長恭は、段韶に向って力強く拱手すると、一気に酒杯を干した。その日は、夜遅くまで二人の酒盛りは続いた。


  


長恭は、婚姻について族伯父にあたる段韶に相談した。そこで、戦功による賜婚しかないと言われ、出陣への決意を新たにするのだった。

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