元宵節の天灯
年も明け、父王琳の叙任と共に、斉の高官の令嬢になった王青蘭は、侍女として仕えていた皇太后府を離れなければならなくなった。ところが、正月の宴で・・・
正月の酒宴が後宮で催された。
李姐娥の立后以来、李皇后と不仲の婁皇太后であったが、たっての願いで出席することになったのだ。
太陽が中天から傾いた頃、婁皇太后は輿に乗って後宮に渡った。青蘭も供の一人として皇太后に従った。飾り石の道の向こうに、基壇も高く後宮の正殿たる乾寿殿が建っている。階の上で輿を降りると婁氏は、秀児に手を預けながら、正殿に入っていった。
壮麗な乾寿殿の堂の両側には列柱が林立し、二つの階を隔てた上座には、黄金の玉座が置かれていた。
正面の玉座には高洋が着座し、隣りには皇后の李姐娥が起立して皇太后たる婁氏を迎えた。左右には綺羅を尽くした衣装に身を包んだ妃嬪が並んでいる。
その中を木賊色の質素な衣を着た、皇太后が進んでいく。妃嬪の顔に困惑と侮蔑《ぶべつ》の色が見えた。
『皇太后様は、身をもって宮中の贅沢を戒めようとしているだろう』
皇太后はいつもの温色を消し、青蘭も緊張に唇をきつく結んでいだ。今上帝との、久し振りの親子の対面である。ほどなく青蘭と秀児は目立たぬように榻の後ろに控えた。
玉座の左には、伯父の段韶によく似た段妃の端整な温顔が見えた。
高歓、高澄と美丈夫が多い高一族の中で、皇帝高洋は、背も低く風采の上がらない男であった。兄弟の中では、むしろ醜いといってよく、幼少の頃より軽蔑されることが多かった。
そのためか、劣等感が強く、果断な判断を下せる反面、残忍な面を持っていた。特に酒に酔うと酒乱と言っていい乱れ方をしたのだ。
李皇后は、婁皇太后の反対側に座っていた。麗艶な美貌に金糸で刺繡した猩々緋の外衣は美しく映え、李皇后の佳容は、他を圧倒していた。
高洋の李皇后への寵愛は深い。酒に酔うと剣を振り上げ残忍さを示す高洋も、李皇后のいるところでは、血を見ることはなかった。
新年を寿ぐ皇帝の言葉で、正月の宴は始まった。
「皇太后様の、長寿を祝福して、この杯を献げたい」
今上帝高洋は、珍しく機嫌のよい笑顔を見せると、酒杯を掲げた。婁氏は、目を細めて笑顔を作った。元氏の惨殺以来、ほとんど顔を合わせることがなかった親子であった。高洋は、母親の機嫌を取るような笑いを母親に見せると目を逸らした。
親子のやり取りに、緊張した雰囲気で始まった宴は、舞姫達の踊りが楽人の調べにあわせて始まると、宴らしい雰囲気が漂い始めた。三曲目の踊りが終わった頃であろうか、高洋の身体はすでに酒毒に染められていた。
「母上、その見窄らしい衣は何なのだ。斉の皇帝に恥を掻かせるつもりか」
高洋はすでに酒に毒され、目は据わっていた。
「洋よ、これは、そなたに倹約の心を忘れてもらいたくないためだ」
婁氏は、温顔を改め冷然とした眼差しで言い放った。子を思う言葉にさえ、棘を含む親子関係になってしまっていたのだ。
「質素倹約?ふん、母上の考えは時代遅れだ。・・・ふふふ、ええっ、うるさい」
高洋は、苦く唇を歪めると、侍女に目で酒杯を満たすように命じた。
「陛下、そのようにご酒を過ごされては」
李皇后が、心配顔で酒を制すると、高洋は自ら酒瓶を取り、杯を満たした。強い酒が入ると、高洋の理性はすっかり霧散されてしまった。
「ふ、ふ、ふ、不埒な、婆め」
高洋の怒鳴り声が響き渡り、堂内の空気が一気に凍りついた。
「お前など、どこぞに、嫁にやってしまうわ。・・・ふふ・・・はっはっ」
高洋は、やおら立上がると、憎しみを込めた目で、母親を睨みつけた。
「朕に逆らうとは、許せん」
激情が高洋を突き動かし、その腕が婁皇太后の胸元を殴打するのは、あっという間だった。
「こんな婆々あ、こうしてやる」
もう一度、高洋が右腕を振り上げたとき、青蘭は思わず婁氏の身体の上に身を投げ出した。青蘭の左肩にそして背中に腰に、高洋の拳が足が跳び衝撃が走った。焼け付くような痛みが背中に広がり、青蘭の意識が遠くなった。
『これは何なの?宮中でこんなことが・・』
青蘭は、意識を失ったまま、宦官数人に抱えられるようにして宣訓宮に戻った。
★ ★
宴の翌日、今上帝は皇太后の見舞いに宣訓宮を訪れた。しかし、婁氏は対面を許さず息子に見舞いをさせることはなかった。
高洋は、酒を飲むと己を失い些細なことで、宦官や宮女を斬り殺した。時には、皇族や高官も怒りを被るときもあった。高洋は素面の時は、己の酒害による乱行を悔いたが、その罪悪感は反って酒の量を増すだけだった。
しかし、丞相の楊韻は、見て見ぬ振りを決め込んでいた。独自性を出し漢人官吏の権力を削ごうとする皇帝より、酒や女人に耽溺し政を官吏任せにする皇帝の方が、御しやすかったからである。
しかし、儒教を素養の第一とする漢人である青蘭にとって、衆目の中で皇太后に暴力を振う皇帝の姿は衝撃的であった。儒教では、両親への孝行は、君主への忠義よりも尊ぶべきものだと言われている。皇帝が、実の母である皇太后を殴打したことは、瞬く間に国内に広まろう。
雲望亭の榻牀に横たわる青蘭は、左手を動かそうとして肩に激痛を感じた。目を瞑ると、高洋の鬼の形相が浮かんでくる。青蘭は、身震いして衾を引き上げると唇を硬く結んだ。
『鮮卑族と、漢族は根本的に違うのであろうか』
それは、長恭を思うとき常に青蘭の心に付きまとう思いであった。儒学を道徳の基本とする漢人と遊牧民族のしきたりを多く残す鮮卑族とは、行動の規範が違うのでる。
冷たい空気が流れ込み、人の気配がして瞼を開けると、そこに長恭の顔があった。
「青蘭、大丈夫か?」
秀麗な瞳が、心配そうに青蘭を覗き込んでいる。長恭は、申し訳なげに微笑むと青蘭の額に手を当てた。
「痛むのか?熱があるな」
青蘭は、起き上がろうとして頭を上げたが、背中に痛みが走った。
長恭は、心配げに微笑むと、眉を寄せて苦みに耐える青蘭の口に、二口三口と薬湯の匙を滑り込ませた。
「身体が楽になる。・・・良薬口に苦しだ」
長恭は、薬湯の椀を側の几(机)に置くと、身体を寄せ優しく青蘭を抱きしめた。
「御祖母様をかばって、傷を受けたそうだな。申し訳ない」
「申し訳ないなどと、・・・師兄には何の罪も」
長恭は、解かれた青蘭の髪を撫でた。
「私は、皇族の一員で御祖母様の孫だ。君にはすまないことをした。・・・ほら、まだこんなに熱い」
長恭は、青蘭の額に己の額を付けると嬉しげに微笑んだ。
「君が鄭家に戻ったら、遠征に参戦するつもりなのだ。手柄を立てて君との婚姻を認めさせて見せるよ」
「師兄、・・・婚姻のために遠征に参戦するって・・・」
長恭の言葉に目を見張る青蘭に対して、当然だというように笑顔を作った。長恭は、横たわる青蘭の額の後れ毛を掻き上げると豊かな髪を撫でた。
★ ★
月が満ちて元宵節が近づいたが、青蘭は肩や腰の痛みが引くことはなかった。
宣訓宮の前庭から元宵節の人々の賑わいの声が聞こえる。正殿の向こうには、昼と欺くような明るい空が扉の間から見えた。青蘭は榻牀を降りると、腰をさすりながら、扉を閉めた。
青蘭は、元宵節に出掛けることはできず、横になり『史記』を読むばかりであった。
『屈原列伝』である。
屈原は、戦国時代の楚の皇族である。
博学で王と国事の計画をめぐらし、外交に当たっては諸侯と論議を交わした。上官大夫は、それを妬み讒言し、その地位を奪われた。そして、南方を彷徨ったあげく、汨羅に身を投じたという。
その命日は五月五日であった。端午の節句に粽を食べるのは、粽を水に投じて魚が屈原の遺体を食べないようにするためであるという。
『屈原は、道を正しくし行ないを真っ直ぐにし、忠をつくし智力のありったけで、その君に仕えたのに、讒言の人に隔てられた。師兄の臣下としての道も正しいからといって安泰というわけではないのだ』
長恭が清廉であればあるほど、乱倫の気風が蔓延る斉の皇宮で生き残るのは難しいのではないか。青蘭は、額に手を当てると溜息をついた。
その時扉が開き、黒い袋を持った長恭が入ってきた。
「青蘭、遅くなってすまぬ。身体の具合はどうかな?」
長恭は、青蘭の榻牀に座ると上半身を起こした青蘭の手を取った。長恭の秀でた鼻梁が、蝋燭の燈火が深い影を作っている。
「どうにか歩けるけれど、まだ外は・・・」
青蘭は、首を振ると衾の中の腰を無意識にさすった。
「まだ痛いのは、このあたりか?」
長恭は心配顔で衾の上から腰の辺りを撫でた。衾の上からであるにも関わらず、その手の感覚はなぜか温かく全身を駆け巡るように感じられる。
「これからは、私が君を守る。だれにも傷つけさせない」
長恭は、青蘭の手を取ると唇に持っていった。以前は滑らかだった手が、寒さでかさついている。
「遠征で武功を挙げたら、すぐに皇太后令を出してもらうから、安心してくれ」
長恭は笑顔を作ると、楽観的な希望を述べた。
長恭は、床に置いた袋から天灯を出して青蘭に見せた。
「青蘭、今日は元宵節だ。一緒に天灯を飛ばそうと思って持ってきたのだ」
長恭が侍中府から戻った後、手ずから作っていた物である。
「せっかく準備した灯籠も、ここからでは見えまい。一緒に元宵節を観に行かないか?」
この先長恭と共に、いつ元宵節を観られるか分からない。腰の痛みはあったが、青蘭は天灯を共に飛ばしたいとの思いを、抑えることが出来なかった。
青蘭は、髷を結い衣装を整えると披風をまとい、長恭と共に夜の後苑に出た。
所々に松明が焚かれ、小径を照らしている。南の空を望むと正殿の前庭が燈火の明かりに満ちている。
長恭は、青蘭の肩を支えるようにして小径を進み、睡蓮池の辺に出た。
「屋敷の者に見咎められます」
青蘭は、長恭から身体を離そうとする。
「離れたら、そなたの身体が冷えてしまう。もっと側に・・・」
長恭は、青蘭の腰に左手を回すと披風の頭巾の中から見える滑らかな頬に口づけをした。
青蘭は、慌てて周りを見回した。皇太后の耳に入れば、不興を買うこと必定である。
「師兄は、無邪気過ぎます。」
青蘭は、長恭を見上げて睨んだ。
「青蘭、元気が出てきたな」
長恭は睨まれたのを喜ぶように笑顔を作ると、先ほど持ってきた袋を開け、中から天灯を取りだした。天灯には桃の花が描かれ、詩賦が記されている。
『詩経』の詩の一章である。
桃の夭夭たる
灼灼たり 其の華
之の子 干に帰がば
其の室家の宜しからん
桃は若やぐ 輝くその花。
この子が 嫁に行ったなら
その家にもふさわしい。
婚礼における、祝いの歌である。幸福な婚姻を夢見る乙女の姿が目に浮かび、青蘭は瞳を瞬かせた。
長恭が、天灯に明かりを灯すと長恭と青蘭の花顔を明るく照らし出す。青蘭は、披風から両手を出すと天灯を支えた。
「天灯を上げて、ここに誓おう。私高長恭は、ここにいる王青蘭を妻にする」
長恭が厳かに誓うと、青蘭も強い眼差しで応えた。
「私王青蘭は、ここに誓います。我が心は、いつまでも師兄と共に」
青蘭は、長恭を夫にするとは口にできなかった。
天灯は静かに二人の手元を離れた。風のない夜空にふらふらと登っていく天灯は、これからの青蘭の運命のように頼りなげであった。風に乗って、天灯は瞬く間に見えなくなってしまった。
昨年の元宵節で柱の陰から仰ぎ見た長恭と、今年は二人で天灯を挙げている。その境遇の変転と衣を通して伝わってくる長恭の温かさが、青蘭に僅かだが勇気を与えた。
「さあ、宣訓宮の灯籠飾りを観に行こう」
長恭は、己の披風を右手で青蘭に掛けると、回りから見えぬように披風の中で抱きしめた。沈香の香が、青蘭を包んで幻惑する。
「私達は、いつまでも一緒だ」
長恭は笑顔で囁くと、青蘭の手を引き前庭へ向った。
怪我で元宵節の見物に行けなくなってしまった青蘭のために、長恭は天灯を作り二人で挙げるのだった。出宮を控え、婚姻を固く誓う長恭と青蘭だった。