宣訓宮の正月
高長恭は、親友の高敬徳が青州に刺史として赴任する宴を催す。その席で、長恭は敬徳の王青蘭への思いを知る。
長恭は、青蘭との婚姻を速める決心をするのだった。
明日は立春、大晦日の弱い陽光が、文昌殿の前庭に居並ぶ文武百官の上に降り注がれている。新任の散騎侍郎である長恭は、文昌殿の前庭の中程に並び始めての追儺の行事を観ていた。
中国では、古来より、大晦日(節分の日)には追儺追儺が行われてきた。追儺は、立春の前日に悪鬼を退治して新年を迎える祭事である。
北斉が建国されてから皇宮での追儺は、閲兵の形で行われるようになった。
文昌殿の前に広がる前庭には、文武百官が左右に分かれ整列している。北側に並ぶ騎兵は北斉を、南に並ぶ歩兵は南朝の陳を象徴する。
春を待つ光に輝く長剣が打ち合わされ、兵達の喚声が湧上がる。芝居じみた様子で、斛律将軍により、北斉の勝利が報告され、今上帝(高洋)が斉を寿ぐ詞を述べた。
「皇帝陛下、万歳、万歳、万々歳」
文武百官は拝礼すると、斉の勝利を祝う言葉が、雷鳴のように皇宮に響き渡った。
『陳に対する、単に戦意高揚の芝居だ。全く茶番だ』
初めての追儺に興味を持っていた長恭は、大袈裟に前庭で模擬戦を繰り広げる将兵の姿を腹の中で笑った。
人波が、南の側門に向う中、遠くで聞き慣れた声が聞こえた。
「兄上、待って」
声がした方を振り向くと、弟の仁徳王延宗が人波をかき分けて近付いてくる。側門の手前でやっと長恭に追いついた。
「ちょっと、話したいことがあって」
「今日は、大晦日だぞ。年が明けたら来るといい」
長恭が横街に出ようとすると、延宗が手を捉えてきた。
★ ★
長恭と延宗は連れ立って長恭の住む宣訓宮に向った。
宣訓宮でも、年越しの準備が進められていた。南門の安仁門には、神奈・鬱壘の二神の名前を書いた桃符が掲げられている。
延宗は父高澄の死後、母の陳氏が仕えていた李皇后の手元で養育された。現在でも、後宮に居舎を持って生活している。安徳王という爵位を持つ延宗だが、母親と封地を持たないという点では長恭と似た境遇であった。第四皇子の長恭と、第五皇子の延宗は、兄弟に中でも一番仲が良かったのだ。
睡蓮池の氷が、北の半分以上が溶け、水面が見えるようになってきている。
「延宗、私に|相談事とはなんだ」
延宗は自分を落ち着かせるように菓子に手を伸ばすと、茶で飲み下した。そして、躊躇いを払うように前を向いた。
「兄上、僕は後宮を出たいのです」
延宗は、今上帝と李皇后の寵愛を受けて後宮で生活していた。直の皇子と同じ待遇を受け後宮で生活することは、皇族の憧れであった。
「延宗、なぜ後宮を出たいと?」
日頃は怖いもの知らずの延宗が、言いにくそうに躊躇している。
「この頃、陛下が・・・怖いのです。元氏を斬首に処して以来、いや高岳様を讒言により刑死させてから・・・」
「そなたは、陛下に咎められたのか?」
延宗が、後宮で罰を受けたとは聞いていない。
「酒が入ると、ちょっとしたことで激怒されるので、宮中の者は一時も心が安まることが無いのです」
そして、延宗は皇太子高殷に関わるある事件について語り始めた。
高殷は、皇后李氏を母とする今上帝の皇子である。幼くして皇太子に立てられた。斉で一番の美女と謳われた李姐娥の容貌を受け継ぎ、幾分線が細いながらも、精美な眉目と温厚な人柄の十歳の少年であった。学問を良くし、経書にも通じている。
しかし、今上帝には、返ってこの高殷の温順さが不満であった。荒くれ者の多い鮮卑族の武将を統率して行く将来の皇帝として、皇太子の善良な性格に不満があったのである。
ある日高洋は、高殷を罪人の刑場に連れていった。そして高洋は、皇太子高殷に自ら罪人を斬首するように命じたのである。
温柔な高殷の恐怖は、想像に余りある。震える囚人を前にして躊躇する高殷に業を煮やした高洋は、高殷の手の上から剣を握ると、高殷の目の前で罪人に向って振り下ろした。罪人の断末魔の叫び声と、高殷がその場に倒れるのがほぼ同時であった。そして、罰として高殷を鞭打ったという。
その夜から、皇太子高殷は、悪夢に魘され、言葉がまともに喋れなくなってしまったのである。
「それまでは、皇太子は気さくで良く笑っていたのです。しかし、あれから何時も何かに怯え陛下の前に出ることもできません。・・・陛下が怖いのです」
この時代、刑罰は一種の見せしめとして、公開の場で行われるのが普通であった。しかし、漢族であり神経の細い十歳の高殷に手ずからの斬首を強いるのは、乱暴なことであった。
長恭は、様々な噂は聞いているが、侍中府での仕事では、今上帝高洋の恐ろしさと姿を垣間見る機会はほとんどない。しかし延宗から皇帝の残虐な所業を聞くと、怒りがむくむくと湧き出した。
『斉の宮中では、いったいどんなことが起きているのだ。これが、御祖母様が夢描いた国の在り方なのか』
「後宮を出るのには、力にはなれない。皇后に頼むほうがよかろう」
「兄上、皇后様は出してくれませぬ。皇太后様に口添えをしてよ」
延宗は、唇を尖らせると長恭の腕を掴んだ。
「御祖母様と皇后は不仲だが、・・・まあ、頼んでみよう」
長恭は、うるんだ瞳に溢れる延宗の涙に負けて、延宗の腕を優しくなでた。大晦日の夕日が西の空に傾く頃、延宗はとぼとぼと後宮に帰って行った。
★ ★
年が明け、皇太后は新年の一族あげての拝礼のために神武帝が祭られている宗廟に出向いた。常日頃は、後宮の運営に関わらぬ皇太后であったが、正月には、皇帝高洋、李皇后、諸妃嬪を従えての拝礼を欠かすことはできない。
宣訓宮に戻った婁氏は、高氏と婁氏の者達と正月の膳を囲んだ。蓮の実の羹など、縁起の良い正月の料理が並んでいる。婁氏は、一家の主を失って困窮している臣下を援助している。多くの者が、正月の挨拶に訪れていた。
「本年も良い年であるように」
婁氏は、挨拶に訪れた者たちに、笑顔で挨拶を返した。
「御祖母様の、建康をお祈り致します」
長恭は、酒杯を掲げ新年を寿ぐと、酒を干した。
「そういえば、延宗も今年で十五です。先日後宮を出たいと申しておりました」
長恭は、涙目で訴えた延宗の顔を思い出した。
「ほう、延宗がのう。後宮を出たいと・・・」
婁氏は、蓮の羹を口に運んだ。
「はい、延宗も、もう子供ではありません。いつまでも後宮に置いておくのは、如何なものかとも思います。一度、話をお聞きください」
「確かに、延宗も十五になるのか。・・・考えておこう」
婁皇太后は、ゆったりと微笑むと、蜂蜜酒に口を付けた。
その時、遠くから爆竹の音が聞こえた。爆竹は、大きな音で悪鬼を追い払うため、鄴城内で盛んに鳴らされていた。
「あの音も遠くで聞くと、正月らしいのう」
南の空から聞こえてくる爆竹の音が、息子たちのいない宣訓宮の閑散とした正月の宴をより一層さみしく感じさせる。
「私から、御祖母様に一曲琴を披露しましょう」
速やかに薫香がたかれ、琴が二艘、台の上に用意された。
青蘭は、鄭家でつれづれに弾くぐらいである。まして、長恭と合わせたことなど一度もないのだ。
皇太后の所望に、青蘭は渋々琴の前に座った。長恭を見ると、温順な瞳で青蘭に微笑みかけてきた。
「それでは、『春暁吟』を弾じます」
『春暁吟』なら、奏でたことがある。長恭と青蘭は、目を合わせ合図を送り合うと弾き始めた。
『春暁吟』は、幽冥な調べで始まり、やがて、玄妙な琴韻が明るくなった。長恭は、青蘭を視界に捉えると、その指の動きに合わせて調べを揃える。
左の指は、滑らかに絃の上を滑り、右の指は清雅な弧を描きながら幽美な音を紡ぎ出していた。長恭と青蘭の琴心が響き合い幽艶な調べが居室に満ちた。最後の音韻が、二人の指から放たれ、正月の朝の蒼天に吸い込まれて行った。
★ ★
昼過ぎ、平原郡王の段韶が皇太后府を訪れた。身内の段韶には、居房で対応した。
段韶は、婁皇太后の甥に当たり、婁氏の姉である婁信相の長男である。
端整な面差しは文人を思わせ、常に慇懃な物腰は、大人の風韻を漂わせていた。
段韶は、早くから高歓に近侍し、北周との戦いで数々の戦功を上げた。高歓の信頼が厚く、その臨終に際しては、大事に当たっては段韶に図るようにとの遺命があった。
この時、段韶は、尚書右僕射として政の重任を担うに留まらず、斛律将軍と共に、軍の中心的な存在であった。
「孝先(段韶の字)、皇太后様に新年の御挨拶を申し上げます」
段韶は、立上がると婁氏によく似た温順な瞳で叔母を見上げた。
「皇太后様が、お元気で何よりです」
婁氏は、壁際の榻を勧め、並んで腰を掛けた。
「そう言えば、宗廟での拝礼の時、段妃がいなかったが、息災か?」
今上帝の妃である段妃は、段韶の妹でありもちろん婁氏の姪であった。
「はい、先日より風邪を引きまして、・・・先ほど見舞って参りましたら大分好くなっておりました」
「そうか、安堵した」
婁氏は、段妃を今上帝の皇后に出来なかったことを今でも悔やんでいるのである。
「そう言えば、叔母上もお聞き及びのことと思いますが、二月には翼州への出兵が予定されているとか」
昨年(紀元五五七年)の後半にも斛律将軍が出征し、北周の四鎮を陥落させている。そこで、北周は翼州方面の国境を侵す気配を見せているのだという。
その時、長恭が侍女を伴って現われた。青蘭は、長恭の後ろから茶器を運んできたのだ。
「高長恭、平原王(段韶)に御挨拶を申し上げます」
長恭は、礼に従って段韶に拱手した。後ろに控える青蘭も挨拶した。
「昨年任官したとか。散騎侍郎としての仕事ぶりも立派であると聞いておる」
段韶は、長恭に対してさえ皇族としての礼を忘れない。
「過分なお言葉です」
段韶は、謙遜する族甥の面貌を見た。
『何と、子恵様(高澄)に似ていることだ。いや、子恵様よりも端誠であるかも知れない』
段韶は、勧められた茶杯を傾けた。
「職務が忙しい中でも、長恭は好く顔を出してくれておる」
婁氏は茶杯を手にすると、厳しい表情を緩め、祖母の顔で言った。
「叔母上は、これからが楽しみですな。はっはっはっ、今度、我が屋敷を訪ねくだされ、共に詩賦を詠じましょう」
段韶は、慇懃に長恭を誘うと、宣訓宮を退出していった。
長恭はすでに十九歳である。しかし、いまだ爵位を賜らず、昨年やっと散騎侍郎の官職を得たのみである。他の皇子に比べると、昇進が遅れている事を不思議に思っていた。
しかし、高澄によく似た長恭の花貌を観て謎が解けた気がした。
『叔母上は、高澄に余りに似ている容貌が、いらぬ誤解や陛下からの嫉妬を招かぬか心配して出仕を遅らせていたのか』
長恭が、顔氏に弟子入りし、漢人に劣らぬ学問を身に付けているという評判を思い出した。
『叔母上は、長恭に着実に実務をこなす能臣になることで、朝廷での生き残りを図っているのか』
段韶は長恭という清廉な青年の、苦難が多いであろう前途を思うと、胸が痛んだ。
長恭は、正殿から戻りながら段韶の事を思っていた。平原王段韶は、皇太后の甥として宣訓宮にはよく訪れていた。しかし、官職に就く前は、親しく話をすることはなかったのである。
皇帝の後宮での乱倫な様を延宗に聞かされていた長恭は、大人の気宇を漂わせる段韶に救われた思いがした。
「世には、残虐と武勇をはき違えている者が多いが、孝先こそ、世の武将の模範となるべき者であろう」
段韶が退出後、婁氏が言った言葉が思い出された。
「この斉にも孝先様のような武将がいるのだな」
長恭は、青蘭に振り向くと明るい笑顔を見せた。久しぶりに闇夜に灯火を見付けた思いであった。
残虐な皇帝高洋の所業を耳にするに、自分が皇族であることに嫌悪感を感じる長恭であった。皇太后府を訪れた段詔に接し、斉の臣下としてあるべき姿として憧憬の念を感じるのだった。