祝ひの詩【下】
結局、僕の申し出は通りませんでした。神主は至って物腰やわらかに、しかし不自然に緊張した感じで言葉を選んでいるようでした。
「やっぱりそうなるよ。私みたいなよそ者が寝るなんて、きっと神様の機嫌を損ねちゃう」
僕はひどく落胆して、おそらく捨てられた子犬のような顔を浮かべていたと思います。神様の機嫌がどうとか、本当にどうでもよかったのです。
「……ねえ、スヒチは今どこに暮らしてるの」
「空き家を拝借してるけど」
「じゃあ……俺もそこに住む!」
僕は神社を出ました。スヒチは最初戸惑っていましたが、僕が頑として意思を主張すると、まんざらでもないように僕を家へと連れて行きました。
その日から、二間四方のぼろぼろの竪穴が僕の家になりました。その里はいたって健やかで、死の匂いを感じずに済むとわかると、僕は本当に安心しました。決して豊かな場所ではありませんでしたが、人々が互いに許しあい、おのずから手を差し伸べる姿がありました。
助け合う民の暮らしに調和し、僕たち二人も家族のように生活をつないでいきました。暇さえあれば二人であの丘に行って、風に現を抜かしました。僕がときどき神社から書物をくすねてきて持ち寄ると、スヒチは興味深そうに読んでくれました。彼女は文字の読み書きも得意だったのです。彼女が普通の民でないことはなんとなくわかりました。文字を読める民などこの時代はほとんどいなかったからです。彼女の身分など僕にはどうでもよく、ただ一緒に過ごせるだけでいいと思っていました。だって、現に一緒にいるのだから。それならば何も問題ないはずだと。
二人の家で暮らし始めて半月経った夜、僕たちはついに満月のもとで祈りを捧げました。
この月のように欠けることなく、二人も共にありますように。
きっとその願いは果たされるだろうと、何の根拠もなく僕は信じました。
スヒチが隣に居るだけで、僕は自分がただの人間であることすら忘れてしまっていたようです。何も力を持たず祈るだけの存在なのに。神を斎うことを放棄していながら、一方的に願いを捧げたのでした。
僕たちは冷たい光の下で固く手を握り合いました。それだけは確かなものであると言えるくらいに。不確かな願いであることを、ごまかすかのように。
スヒチは瞳を閉じてつぶやきます。
「また一緒に、見れるといいね」
果たして、あの丘で月を分かち合うのは……それが最後になります。
ある日、神社の書庫に書物をくすねに行くと、そこには社に遣える巫がいたのでした。
「コヤネ、神職様がお待ちなれば、曹司にて」
ぎょっとして僕は絞り出すように聞きます。
「……どうして?」
「我々には頃合いが分かります。何も恐れることはありません。お行きなさい」
あのとき神主と話さなければよかったと心から僕は後悔するのです。いや、おそらくその結果は免れなかっただろうとも思います。ただひとつ、僕が何も知らなかったばかりに。
僕がもっと世界に目を向けていれば、あんなことにはならなかったのです。
「よく来た。此度汝を呼ばいしは長きの不在を咎めるのではない。手短に話す。烽火が上がった。端蒲国からだ。わが一族は星讀みにて戦の末を卜う。神社には巫覡たちを置いていく。コヤネ、共に来い」
それなりの衝撃を、僕は受けていたと思います。わざわざ巫女を用意して呼ばせたということは、こればかりは避けられなかったのでしょう。僕も、そこまで深刻には考えていませんでした。僕は急いでスヒチのいる家へと帰り事情を話しました。
「遠くの……国で戦が始まるみたいだ。神職の卜についていく。長く戻れないかもしれない」
スヒチの生まれの国の名を僕は出さずにごまかしました。
スヒチはしばらくぼーっとした顔で僕を見つめていましたが、あきらめたように笑みをこぼすと、「そっかあ、しばらく会えないんだね。さみしいな……。気を付けて行っておいで」、そう言い、いつかのように優しく僕を抱きしめました。
彼女の口からこぼれた「さみしい」の一言が、先ほどまであった平静さを容易く崩し去りました。僕は彼女の腕に包まれて、初めて涙を流しました。それにつられたかのようにスヒチも、初めて声を上げて泣きました。普段の彼女より数段幼く、子どものように声をあげていました。
「コヤネが無事に帰ってきてくれるように、呪いをかけてあげるね」
泣きはらした目で彼女は僕の胸にそっと手を置きます。
「吾の霊ありし処汝の霊あり
集ひ愈々密に寄りつ
揺らげど忽ち互に結ひて
相対うるところの清庭の際
心明き千歳の円満拝み
吾一途に汝幸ふ」
それは天への祝いの詩のようにも聞こえました。心地よく体に染み渡る、春の日差しを音にしたような、なんとも美しい声音でした。
僕はそのときはじめて、スヒチの出自が神に仕える一族であることを知りました。もっと早くに聞いていればと後悔しました。そのことをスヒチに問いかけようとするも、「つつみなく、戻ってきて」と言い、そっと目を伏せるのでした。
翌朝、端蒲国へ向かっているときのことです。僕は突然、星讀みに目覚めました。
死の兆しを見ました。
僕が死ぬ未来でした。