祝ひの詩【上】
スヒチと出逢った日から半月ばかりの間、僕はまるで憑りつかれたかのように毎日丘に通い詰めていました。社の仕事など手につかず、なす術もなくあの風を待っていたのでした。あの日と同じようにしていればまた会えるのではないかと。そんな短絡的発想に至るくらい、当時の僕はまだ幼かったのです。
スヒチのいない時間を僕は、それまで独りでそうしてきたように、虫を手に乗せて遊んだり、風が包む音を聞いて過ごしました。しかしどうしても独りで過ごす丘は、僕には退屈な場所になりました。“風の形”を知ってしまったから。
じわじわと寂しさが胸を蝕み始めたころでした。頃合いをうかがったかのように“あの風”が再び姿を現したのです。あの日のように、小気味いい足音を奏でながら。
スヒチ!と、叫びたくなりましたが、慣れない恥ずかしさで硬直していた僕は、足音の主があの日のように声をかけてくれるのをひたすら待っていました。気づいて当たり前のところを、寝たふりをして澄まし顔でいるなど……相当、恥ずかしいことをしていたのかもしれません。
「あーやっぱり、コヤネだ。また会えたね」
僕はあまりの恥ずかしさに瀕死のごとき顔でゆっくりと目を開けると、「スヒチ」と、これまた残息奄奄の声を出したのでした。
「コヤネ、どうしてそんなに死にかけなの」
そう言って彼女はぐいと屈んで僕の顔を覗き込みます。僕は無性に嬉しかったのでした。いろいろな思いがこみ上げて、脈絡もなくこう言いました。
「俺、ずっと待ってた。前みたいに……風、見たくて。だからその……嬉しくて」
するとスヒチは、優しく溶けた表情でこう返すのでした。
「そっかあ。待っててくれたんだね。嬉しいな。……私もね、コヤネに会いに来たんだよ」
そんなやけにまっすぐな言葉を紡いで、最後にくしゃっと笑って見せたのでした。
恥ずかしいような嬉しいような、それでいて温かいような――全部合わさったような何とも言えない暖色の感情が渦巻いて、こちらも酸っぱい笑みをこぼしました。見上げる空は紺碧が張り付き、僕だけが落ち着きのない熱を漏らしていました。
僕は、自分のことをスヒチに話そうと思っていました。彼女のことを知るために、まずは自分のことをさらけ出すのが筋だと思ったからです。ところが僕は、僕自身の表し方を知りませんでした。肉親を亡くして遠縁の卜部の神社で過ごしているほかにまったく思い当たらず、それ自体も大して意味のあることには思えなかったのです。僕は僕自身について、何の答えも出せずにいました。
今まで生きてきた僕の輪郭は蜃気楼のようにもやもやと不鮮明で、熱が冷めれば消えるような危ういものでした。自分をつなぎとめるものも無く、何に対しても魂を込めたことなどない。なにしろ、人を愛した記憶がない。愛された記憶がない。それだけで僕がいかに現世から遠い人間かが伺い知れました。
浮かばぬ言葉のむなしさを、僕はまた風の形でごまかしました。
僕たちふたりはこの日、虫や花で遊んだりしながら、共に過ごせなかった半月を埋めあいました。スヒチは桔梗の花を何本か器用に折り合わせて冠をこしらえると、頭に乗せて見せました。傍らには風と戯れる黒髪。冠が飛ばされないように頭に手を添えたまま、首をかしげてこちらを見やる彼女の表情はとてもやわらかでした。彼女の瞳をじっくり見つめると、その髪に鎮座する桔梗の花のように、物憂げな青色をしていました。
スヒチは僕と歳がほとんど変わらないはずなのに、彼女の方がずっと大人びて見えました。柔和な優しい微笑みには母性のようなものが感じられ、無邪気な表情ですら、言いようのない奥行きを感じました。何もかも彼女に委ねれば、もっと世界は優しくなるのではないか。もっと早く出会えていれば、自分はこの十年を違う過ごし方ができただろうと、なぜか後悔さえ覚えたのでした。
日が少し西に傾いたころ、スヒチが徐にこう切り出します。
「コヤネ。神社の手伝いはしなくていいの」
僕は驚いて目を見開きました。
「なんで、知ってるの」
「国神様の社まで半里ばかりじゃない。それに、この近くの里にコヤネみたいに綺麗な麻衣を着た人はいない」
僕は唖然としました。そんなにも違うものだったのかと。僕は民について本当に何も知りませんでした。
「俺、親いなくて、隣国から拾われてきたから……。神事にはあまり興味ないし。俺が知ってるの、山とか海とか川のことばかり……草とか虫とか。鳥の声。それを全部作った国生みの神。それくらいしか知らない。友達もできたことない。スヒチ、いろんなこと教えてほしい。知りたいんだ。スヒチのことだって」
それが結果的に、初めて自分を表す言葉となりました。
「そっか。コヤネにはコヤネの世界があったんだね。ごめんね。気にすることなんて全然ないの。でもコヤネが知りたいことだったらなんでも教える。友達だから」
そういってスヒチは僕をぎゅっと抱き寄せて頭をくしゃくしゃと撫でまわしました。彼女の白妙の衣からはなぜか懐かしいような匂いがして、僕はさらにぎゅうっと彼女を抱きしめたのでした。
初めてできた“友達”は、その名で表すにはあまりに不格好な関係のように思えました。それでもできるなら、このまま一緒にいたいと、強く思いました。
「コヤネ、今日は日が沈んだ後もたくさん話そう。コヤネにいろんなものを好きになってほしい」
僕は本当にうれしくて、声もなくただ頷きました。
「……ああ、でも今日は月が出ないね」
「月が見たいの?」
「一緒に見たかった」
「うん、じゃあまた来なきゃね」
おそらく今こうして話せているのはあの夜の満月の御力だろうと、僕は信じて疑いませんでした。満ち欠けていく月が朔を迎える最後の瞬間まで、己が力を使い切って、二人の縁を結んだ。そんな気さえしたのでした。次の満月がこの丘を照らすとき、二人で眺めたい。そしてまた新たな願いを聞き届けて欲しいと。そのときには、彼女のことをもっと知れているような気がしました。
「……ねえ、スヒチはどこから来たの。亜褄国の生まれじゃないみたいだけど」
「……端蒲国から」
「そんなに遠くから?どうして」
「……遠くに行きたくて。どうしても」
彼女の言葉は虚空をつかむように、曖昧な感触で僕の鼓膜を震わせました。あからさまに返答に困った僕を追い越すように、「うん。私できればずっと、ここにいたい」と、彼女は続けるのでした。
なにか引っかかるような感じがしたけれど、その言葉の通りになるのであれば――スヒチと共に過ごせるのならば――何も問題ないと、単純に考えていました。
「スヒチ、俺と一緒に……神社の離れで暮らさないか。神職に聞いてみる」
彼女と共に生きたい。
それまでの人生で、最も強く自分を突き動かした欲求でした。