殺してほしい神がいる
「殺してほしい神がいるんだけど」
そんな話をされたのはつい先刻で、新調したジャケットにコーヒーを派手にぶちまけたのも時を同じくする。
「クリーニング代は礼金に含めよう」
目の前にいる全身スーツ姿の男、對馬嵩大は、ビスカッチャを無理やりまじめにしたような腹立つ顔でそう抜かす。三十路越えでありながら不自然に垢抜けないもので、ある種の不気味さがある。
こいつに呼びだされるのはいつも面倒な依頼だったが、俺の方も仕事として割り切って対応してきた。しかし、今回のそれはまるでわけが違う。
「気が狂ったか對馬さん。ジャケットはこの際どうでもいい(よくない)。随分とふざけたことを言ってくれるな。“神殺し”なんて物騒な話を……。命がけなんてもんじゃない。今までの仕事もそれなりに命は懸けてきた。そういう役回りだからな。しかしこの場合は……死ねといってるようなもんだ」
「僕はいたって正気だよ。莱児くん。そして、その応答にも表れているように、"不可能ではない"仕事のはずだ。神衣家歴代最凶ともいわれる君の魂破をもってすればね」
“歴代最凶”か。ふざけた表現だ。そんなんじゃないし、そうなって当然だ。
俺ははっとして、すでに張っていた三重の結界をさらに五重に張りなおしてから口を開く。
「享けるつもりはない。だが詳細を話せ。あんたが何に首を突っ込んでるか分らんが、とても見逃せたもんじゃない。バランスが崩れてからじゃあ遅い」
そして、こいつを死なせるわけにもいかない。死なれたら困る。
「OK. ぜひ聞いてくれ莱児くん。そして必ず君の首を縦に振らせて見せよう」
俺は思わず舌打ちした。對馬はこの手の交渉のエキスパートだった。世界の裏の裏のそのまた裏、現世と幽世の境界をかき乱して金をめぐらす裏稼業。情報屋でもある。そして俺の得意先だ。こいつはこういう面倒な依頼を口上手に押し付けて、相手が頷くのを見ていつも恍惚な表情を浮かべるのだった。そして今、早くもにんまりと顔がゆがみ始めている。
「僕はね、この業界二十年近くやってきたから、複雑な事例もだいぶ慣れたけど……今回のは段違いだね。総スコア7500」
「ななせんごひゃく!?」
スコアというのは、對馬が持ち寄る依頼の難易度に比例した報酬の相場を表すもので、だいたいスコア1で5000円程度。人間に憑いた悪霊を滅するのがだいたいスコア4、二万円程度となる。もっとも、俺は放っておいても気にならない低級霊なんかは扱わないから、いつもスコア20以上のものしか享けない。それが今回は、総スコア7500ときた。別荘をたてた上で高級車も購入できるだろう。そんなつもりはないが。
神が関わるならばその値も納得だと思ったが、“総スコア”という単語から察するに、そんな単純な話じゃないらしい。
對馬は俺の表情の変化を捉えると張り切ったようにスーツの袖をまくった。
「まず第一に。柳城守の封印が解かれた。君の知るであろうところの、その道の者が最も近寄りたくない霊域の一つ。箒森洞窟のあの禍斎の碑だよ。
そう、君も不自然に思うだろう。なにせあの碑に封印されていたのは暴走したら国ひとつ簡単に滅ぼせるレベルの邪神だった。でもそんな魂が解放されたらふつう気づくよね? ましてや超高感度の君の霊体感知だったらさ。
ここが第二のポイントね。邪神は封印状態を維持したまま、何かに取り込まれて持ち出されたんだ。そして第三に、時期を同じくして、100km北にある萱女神社の神が消失した。
知ってるよね、主祭神のほか、計8柱もの配祀神が祭ってあった。でもそのすべてがね、消えたんだよ。
いやまずいよね。解放された神域には今も妖気が集まりつつあるみたいだ。
このまま神が戻らなければ、集約した妖気と神域の力で鬼神の誕生なんてこともありうるよ。
邪神一柱が3500。神域の妖気が現時点で……1500。ひと月もしたら2500くらいにはいくかな」
そこまで話すと對馬は、ふう、と満足そうに一息ついてコーヒーを口に含んだ。
俺は勝手に賢者タイムみたいになっている對馬をねめつける。
「享けるつもりはない。それにこのレベル、なおのこと俺がやる必要はない。天の神の腰が重くとも、死神が勝手に処理してくれる。
對馬さん。今回のあんたの情報は漠然としすぎている。確かな情報なしに仕事はしない。さらにスコアだが、残りの1500はどうした」
對馬はコーヒーカップをもったままフム、フム、と二、三回うなずくと、再びあの顔でにんまりと笑った。こんなビスカッチャがいたらたぶん蹴り飛ばすだろう。
「残り1500はちょっとした面倒料だよ。莱児くん。僕はね、事の全てを知っているんだ。今回の依頼は多段階のアプローチが必要となる。僕は君に簡単なものから順に完遂させ、その都度新しい情報を君に与えようと思っているんだ。君のモチベーションが最後まで保つようにね。そしてね莱児くん」
對馬はそこでぐーっと身を乗り出して目を見開いた。
「今回の依頼は君にしかできないんだよ。君は自分の運命を決定づけた歴史、それを知りたいと思わないかい」
……確かに心音が乱れるのを感じた。とたんに冷や汗が浮き始める。
「……どう関係している」
「僕は何でもわかる。君のような神通力はなくとも、なんでも見通せる。今まで65代にもわたって禍事を封じてきた神衣一族、そのうち一代置きに現れる破津世の御代は、転生して記憶と力を蓄積した存在であることなど」
こいつ……! ここまで知っていたか。なぜ知っている。どうして?
「困惑するのもわかる。莱児くん。君が自分の魂と真に向き合うときが来たんだよ。この依頼におけるすべての秘密を手に入れ、無事にやり遂げた暁には、君の魂にかかった呪いの解呪……さらに言うなら、輪廻からの解脱を手引きしよう」
「…………」
なんて飛躍した話だ。いままで32回転生して、そんなことは叶ったこともなかった。もっとも、呪いの影響でそんな方法が見つかる前に死んでいた。そしてこの俺も、もうすぐ死ぬはずだった。
「……對馬さん。俺の正体を知ってて飄々とふるまうのは非常に気に食わない。だが情報はきちんと聞かせてもらう。俺の生きた時間は、俺だけのものだ。勝手にかぎまわられるのは我慢ならない。……受けてやるよ。この仕事」
気づけば血が出るほど拳を握りしめていた。この濁流のような想い。どれだけ生きても決して得られることのなかった感情の高ぶり。逃れられない永久の時間に初めて変化が訪れる。俺は今度こそ、俺の人生を生きてやる。
「よく言った! 禍事を狩り、自らに禍を飼う者、神衣莱児。その呪いを打ち砕く時だ。僕も最高の下準備で君をサポートする。楽しみにしているよ。君が初めて“人間”になる瞬間を」
對馬は勝ち誇ったように目をギラギラと輝かせていた。俺はそれを見ないようにして、カップに僅かに残っていたコーヒーを飲み干す。熱の冷めたアメリカンはもはや何の風味も残していなかった。
今まで自分が積み上げてきたもの。胸に巣食う虚しさ。虚構の輪郭。……構うものか。それらをすべて破壊し、新しく歩む。それが最期の一瞬だとしても。もう一瞬たりとも残されていないとしても。
「指示を出せ」
少し乱暴にカップを置く。
こうして俺の、最期の仕事が始まった。