僕が人間だったときの話をします。
僕が人間だったときの話をします。
愛する人がいました。長い髪が美しく舞う、素敵な女性でした。名をスヒチといいます。
虫に話しかけ、風の音ばかり聞いていた僕が、言葉を交わす喜びを初めて知った相手でした。
両親を早くに亡くし、親類の卜部のもとに引き取られた僕は、社の手伝いばかりの退屈な暮らしを送っていました。それでも寝床があるだけで幸せな方でした。そのころは家屋を持たない民などたくさんいたのですから。
親代わりの神主とは申し訳程度の会話しかしませんでした。神事における所作を教えられ、書物を授かって世の理を知りました。与えられた食事は簡素ではありましたが事足りて、僕はまあまあ健やかに育っていきました。
そうしてずいぶん大きくなった十二か十三のころ、僕はスヒチと出会ったのでした。その歳頃には祭ごとを覚えなければいけなかったのですが、あまりにも億劫で祝詞の言霊さえ毒のように感じられ、いつも社を抜け出していました。
神主は僕を咎めることはありませんでした。我が子でもない僕に気を遣ってなのか、興味がなかったのか、今でも定かではありません。僕は昔からひとりぼっちで、そうであることを望んでいました。
ある夏の日、丘の上で寝ていると、誰かが歩み寄る小気味いい律動が聴こえてきました。眼を開くと、当時の僕と同じくらいの歳頃の少女が僕の顔を覗き込んでいたのでした。
「何してるの」と、一言目はその程度だったと記憶しています。
僕はすぐに応えることはできませんでした。何しろ歳の近い子供と話すことは初めてだったからです。
子供といえば流行りの病で死んだものを何度か見ました。我が子の命欲しさに、親が社へと死体を連れてくるのです。神主は何か言って“親子”を帰らせていました。中には死にかけの子供もいたかもしれませんが、そんなことは大した違いではありませんでした。
そのときはじめて、生命がみなぎる人の子を見た僕は——春の小鳥が伴侶をみつけて踊るように、微々たるものではあるけど、確かな胸の高鳴りを感じました。
しばらくの間、僕は仰向けのままで彼女のことを見つめていたと思います。綺麗な白い衣と、それに映える黒い髪を物珍しそうに、じっくりと。
僕は急に込み上げた恥ずかしさに思わず目を逸らして、ふわりと風になびく髪に視線を委ねました。恥じらいを悟られぬように。なにより、美しかったから。
「……風の音を聴いていたんだ」
随分間が空いてから、僕はそう答えました。
ふぅん、と、ぎりぎり聴こえるような微かな疑問の音が、曖昧に風に流されて行きました。
「楽しいの?こうしてて」
少し微笑んで見せて、彼女は再び問いかけます。
「楽しくは……ない、けど、落ち着くよ。ここは里から遠くて、しかも海が近い。潮の香がごまかしてくれる」
ごまかす——何を。腐敗の匂いです。里から這うように主張してくる、死の匂いに、僕はとても敏感でした。僕が拾われたとき、僕は両親の骸のそばで衰弱していたらしいのです。そのときのことは覚えていないのですが、親だったものの腐敗の臭気は、もはや僕の一部となっていました。事あるごとに、死の感覚が僕を支配していました。
ふと、僕は自分の言葉の不気味さに気づき狼狽しました。
なんとか誤魔化そうと視線を泳がせていましたが、「たしかに、ここはいい香りがする」と彼女は同調して視線を外したのでした。
空でも山でも海でもない、僕の知らない遠いところを見つめていたように思います。
僕はにわかに彼女のことが気になりました。何を知り、何処からきたのか。その瞳は深いところの感情を映したように蒼くゆらぎ、長い髪は相変わらず無邪気に風と戯れていました。
そのあとしばらくは二人で寝そべって風を聴いていました。時がゆっくり、でも劇的に過ぎていきました。生きていれば経験するであろう当たり前の"今まで"を、むりやりかき集めて詰め込んだみたいに。
叙情的な熱を帯びた西日が草はらを萱草色に染め始めたとき、僕らは立ち上がり向き合いました。
「そろそろ行かなきゃ。名前聞いてもいいかな。私の名はスヒチ。あなたは」
「……コヤネ」
「愛らしい名前。ありがとうコヤネ。とっても楽しかった」
にこりと彼女は笑いました。両頬に現れた喜びの形は、とても健やかで可愛らしいものでした。
「俺も……楽しかった」
「楽しくは、ないんじゃないの」
悪戯な笑顔が鮮やかに咲く彼女の表情。
「……風を、見たんだ」
それが僕の精一杯の表現でした。
風を見た、とスヒチが繰り返します。
「君の髪がなびくと、風の形が見えるんだ。いつも違う形をして、ときどき止んだり、また躍ったりする。面白いし、とても綺麗だ」
僕は自分の言葉に恥ずかしくなって、顔を背けました。
あはは、という笑い声。そよ風の中で木漏れ日が踊るような、軽やかで透き通った音でした。
「それじゃあ私は見れないじゃない。ねえ、コヤネ」
そう言って僕の視線を自分へと誘うと、スヒチはくるりと廻って見せました。風の形はより複雑に、そして美しく舞いました。
「どう?……風」
その問いがとても滑稽に思えて、僕は少し笑いながら、
「とても綺麗」と答えました。
スヒチはまた嬉しそうに微笑むと、少しの間だけ、また風と戯れて見せました。
夕焼けの丘に立つ踊り子は朱く照らされて、その"風"は今まで僕が見てきたどんな事象よりも美しく、輝いて見えました。
「きれいだ」
何よりも。そして、その瞬間がそれまででいちばん、美しい時間でした。
僕はただ、風を見ていただけです。
しばらくするとスヒチは行ってしまいました。途端に僕は寂しくなって、草はらに倒れこんでみたのです。硬く支えてくれるはずの地面は、何かふわふわ浮いた感じがして、もどかしい気持ちでした。
静寂へと落ちるように委縮していく風に、やりきれない思いで天を仰いでみます。いつしか空は青黒く染まっていきました。
陽の神が命を与える昼から、月の神が命を見守る夜へと。
その夜はちょうど満月でした。
冷たい色をした光。でも、だからこそ傍らで見守ることができるのです。
月の光は丘を広く照らし、僕はその下であまりにも無防備でした。何か全てを見透かされているような気さえして、堪らず僕はその光に願ったのです。
「またスヒチに、会えますように」
ふわりと、風が揺れました。