砂の白い塔
エドワード六世のもと最高権力者は伯父の初代サマセット公爵エドワード・シーモアだった。しかし、1552年サマセット公は失脚し、処刑された。この頃、枢密顧問官の一人だったジョン・ダドリーがノーサンバランド公爵となり実権を握るようになっていた。
ヘンリー八世はプロテスタント的変革を嫌っていたが、エドワード六世は、よりプロテスタント的な信仰の確立を目指した。サマセット公からダドリー公爵へその意向は引き継がれ、その政策を推し進め英国国教会の基礎を確立していく。
1548年、カンタベリー大司教トマス・クランマーの主導で共通祈祷書が完成する。それまでラテン語による礼拝だったが、英語が礼拝で使われるようになる。内容はプロテスタント寄りだが、激しい宗教対立を避けるため、一応カトリック的解釈も可能なようにぼやかしていた。しかしプロテスタントとカトリックのせめぎあいは続く事になる。1552年の礼拝統一法によって全ての教会に、この祈祷書の備え付けを命じ、英国唯一の合法的礼拝様式と定めた。1553年にはアウクスブルク信仰告白をもとに42信仰箇条を制定。
エドワード六世は、自らの推定相続人のメアリに対してプロテスタントの信仰を促したが、母キャサリン同様、敬虔なカトリックとなっていたメアリはそれを拒絶した。メアリはエドワード六世のいる宮廷から足が遠のいていった。
1553年になると元々病弱だったエドワード六世は悪性の風邪をこじらせて重い肺の病にかかり、深刻な状態に陥る。
エドワード六世にもしもの事があり、推定相続人であるメアリが王位につけば、カトリックに回帰するのは必至であり、プロテスタント派は、どのような処分が待ってるかわからない。
15歳になっていたある日、ジェイの両親は、ジェイとダドリー公爵の6男ギルと婚約する事になったと告げた。それまでサマセット公の子息エドとの縁談があり、ジェイはその縁談が進んでいると思っていたので、ジェイは猛反発した。しかし、この頃の結婚は家と家の間で取り結ぶのが普通だった。
縁談は急速に進められ、結局1553年5月結婚式は執り行われた。しかし当日になっても、ジェイは教会の祭壇に行くのを嫌がった。
そして結婚して1週間後、ジェイはダドリー家に無断で実家に一時帰宅してしまう。
ダドリー公爵はエドワード六世に、次の王位はジェイがよいと説得した。エドワード六世は悩んだ末、それを了承し遺言を作成した。
本来なら次の王位はメアリで、その次がエリザベスとなっていた。ジェイにも一応継承権はあるという程度だった。とは言え有力諸侯でも、簡単には継承権は持てないだろう。
1553年7月6日、エドワード六世が逝去。15歳の若さだった。その死は10日まで公表されなかった。
7月9日になって枢密院からの召喚があった。ダドリー公爵が枢密院の代表として国王の死を発表し、国王は2人の姉を後継者とすることを望まず、ジェイを後継者として指名したと宣言した。
ジェイはあまりにも突然の事に仰天し、顔面が蒼白となった。親しい同世代の王の死に打ちのめされ、そして同時に自身に降りかかった王位継承へのショックが重なり、床に崩れ落ち人目も憚らず号泣した。
「間違いです。何もかも間違いです。こんな事、あるはずが有りません」
やがて、自分に王位は不適任だと、次期王位はメアリ様と決まっていると言った。しかし周囲の者は、
「仕方のない事だよ。エドワード陛下が決めた事だ。どうかエドワード陛下の意志を継いでいおくれ」
翌7月10日、ジェイはロンドン塔に入城した。しかし観衆は見慣れない聞きなれない新女王を静かに眺めるだけだった。多くの諸侯もメアリが継承者との認識が強かった。
君主としてロンドン塔内の王宮ホワイト・タワーに居を移すが、程なくメアリが「自らが正式な女王」と表明すると、多くがメアリ側につき、7月19日、枢密院がメアリの女王即位を正式に宣言した。
ホワイト・タワーは当初、巨大な石作りの威容からグレート・タワーと呼ばれていた。その後、石灰塗料で外壁が真白に塗られホワイト・タワーと呼ばれるようになった。又その後、長い経年変化により近年、灰色のホワイト・タワーとなっている。
ジェイは王位を略奪しようとした反逆者として、ロンドン塔内にある看守用の住居ナサニエル・パートリッジズ・ハウスに幽閉される。夫ギルもロンドン塔内の監獄ビーチャムタワーに連行された。
ダドリー公爵は、カトリックへの改宗を宣言したが、8月22日、処刑された。
メアリと母キャサリン・オブ・アラゴンと親交があったフランセスの懇願もあって、父のヘンリー・グレイ公爵は罰金を払っただけで釈放された。
11月14日、ジェイと夫ギルの裁判が行われ、2人に「反逆罪」として死刑判決が下される。
しかしこのまま事態が収束すれば刑の執行はされない可能性もあった。