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チューダー家のキャサリン王妃

 ケルト系ウェールズの系譜に連なるとされる、異色のチューダー家第二代の王ヘンリー八世。1500年代、英国の王族としては新興勢力との見方もあり、絶対的な王位継承権がまだ確立しているとは言えなかった。他の有力な諸侯、名門諸侯がひしめいており、ヘンリー八世は強力な世継ぎを欲した。

 女子が王位を継いだ場合、その夫の多くは国際結婚であり、その背後にいる国家に干渉される可能性もあった。ヘンリー八世は、その不安を失くすべく、男子の継承者に極めて強く拘った。またこの頃は、国王自身が戦場に赴く事もあり、男子の継承者が重視されていた時代でもあった。

 最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンは大国スペイン国王フェルナンド五世の王女。この頃まだその他の「小国」に過ぎなかった英国にとって、大国との関係は重要であり、また欧州での王族間の国際結婚は広く一般的なものだった。

 キャサリン・オブ・アラゴンは知的で優しい王妃で夫婦仲も極めて良かったという。

 1513年結婚後間もなくして、ヘンリー八世はフランスとの戦争で大陸に赴き、留守を任されたキャサリン妃にスコットランドが突如侵攻してきた。キャサリン王妃は逆にスコットランド王ジェームズ四世を戦死させる。そしてヘンリー八世の姉マーガレット(スコットランド王太后)をスコットランドの摂政とし戦いを収めた。

 1517年ロンドンで暴動が起こる。この頃、貧富の差の拡大や流入する外国人の増加などで国内治安が悪化し、ついに外国人地区の焼き討ちや、囚人となっていた同胞の解放の為、牢獄を襲撃した。ノーフォーク公の軍勢によって鎮圧されたが、ヘンリー八世は その首謀者だけでなく数百人の逮捕者全員を処刑しようとした。

 ヘンリー八世は誰の意見にも耳を貸そうとせず、その決定を変えようとはしなかった。唯、キャサリン妃は王の姉マーガレットと王の妹メアリー(ジェイの祖母)を伴ってヘンリー八世を説得した。その除名嘆願により首謀者十数人が処刑されるに留まった。

 そのようなキャサリン妃でも無事に成長できた子は、1516年に生まれた、メアリ王女だけだった。ヘンリー八世は次第に浮気を繰り返していく。

 キャサリン妃の侍女となっていたアン・ブーリンとも関係していき、アンとの結婚のため、ヘンリー八世は教皇側にキャサリン妃との離婚の許可を求めるが教皇側からの返答はなかった。

 カトリック教会は基本的に離婚を認めていなかった。

 だが1527年ヘンリー八世は王妃キャサリンに対し離婚の意思を正式に伝える。これまでともに歩んできたキャサリン妃にとって離婚は有り得ない事だった。キャサリン妃は敬虔なカトリック教徒でもあった。

 ヘンリー八世もルターの宗教改革を批判する『七秘蹟の擁護』を著し、1521年教皇から「信仰の擁護者」の称号を受ける程の、本来は熱心なカトリック信者だった。

 1533年キャサリン妃との結婚の無効の宣言がなされた。そしてアンが正式な王妃と宣言。その年に、アンは第2王女となるエリザベスを生んだ。誕生と同時に英国王位推定相続人となった。キャサリン妃はアーサー王太子の未亡人とされた。

 キャサリン妃はキンボルトンに移され軟禁状態に置かれる。しかし近隣の住民となるべく交流を図り、住民からは王太子妃ではなく王妃と呼ばれた。

 1534年、英国国教会が創設されてヘンリー八世はその長となり、ローマ教皇庁から独立する。そしてメアリ王女は庶子とされてしまい、王位継承権が剥奪された。

 1536年1月7日、キャサリン妃はキンボルトン城で逝去する。葬儀にはメアリーの出席が禁じられ、目立った行事も禁じられたが、住民たちは お構いなしに葬列に加わり、数百人にも及んだという。

 ヘンリー八世はアンの侍女ジェーン・シーモアとの関係が深まり、1536年結婚。1537年、後のエドワード六世を生む。しかし難産で体力が回復しないジェーン・シーモアは、洗礼式には出席したがそのまま回復せず数日のうちに息を引き取った。

 その頃、エリザベスも庶子とされてしまい、王位継承権を剥奪される。

 その後もヘンリー八世は結婚と離婚を繰り返し、結局六人の王妃を迎えた。

 その中で、王妃アン・ブーリンと五番目の王妃キャサリン・ハワードは処刑されてしまう。誰のどのような罪なのか、定かでない。

 1543年ヘンリー八世はキャサリン・パーと結婚。キャサリン・パーは家族を大事にしようとした。

 キャサリン・パーの説得もあり、メアリーとエリザベスに、庶子のままではあったが、王位継承権が復活された。キャサリン・パーはその教養から、まだ幼いエドワードとエリザベスの養育も任された。

 また「王の妹」とされてしまっていた、4番目の王妃だったアン・オブ・クレーブズを度々訪れ、交流を深めたという。

 キャサリン・パーはプロテスタント寄りであり、その勉強もしていた。ヘンリー八世はローマ教皇とは袂を分かったが、プロテスタントそのものは嫌っており、その事で告発されそうになる危機もあったという。

 大陸では宗教改革が広がっており、それを知ることは国同士の関係からいって必要な事とも言える。

 ヘンリー八世の持病は悪化していたが、キャサリン・パーの尽力もあり、フランスへの遠征も出来た。留守は、キャサリン・パーが摂政として務めを果たした。

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