諍いと受容と
魔王のスパイらしき男が、ドミニクの店前に現れたのは、ドノバンがドミニクと物別れしてから、しばらく経過した後だった。帽子を目深にかぶり、大き目のカバンをぶら下げて、たまたま通りがかった風情で、店に近づく。とそこへ、ドノバンが襲い掛かり、肩を掴んで押し倒そうとした。男は帽子を取ると、眉毛を角のように尖らせて、頭突きでダメージを与えようとする。月明かりの下、単調な頭突き攻撃をしゃがんでかわすと、相手のボディに一発パンチを叩きこむが、男の腹は鎧のように硬くて、逆に拳に鈍痛が走る。
男は、再度頭突きを見舞ってとどめを刺そうと、後頭部を後ろに振って勢いをつけたが、振り切ったと同時にドノバンの足裏が、男の顔面をとらえた。顔を押さえてうずくまる男。一方、ドノバンは靴底に穴が開いたようだ。靴を脱いで、足裏を確かめると、靴下が血で染められていた。
物音に気を取られて、エプロン姿のドミニクが店外に出てきた。足を抱えて地べたに座っているドノバンを見つけて声をかける。
「どうした。往来で喧嘩とはドノバンらしくない」
「ドミニク、気をつけろ。あいつが魔王のスパイだ」
ドノバンが指をさした相手は急いで帽子で眉を隠して、目をそらした。
「あの男の眉毛は凶器だ」
「うるさい。あの若僧がいきなり殴りかかって来たんだ」
「まあ、怒るのはわかるが、ドノバンも怪我をしているようだし、今回は私に免じて許してやってくれないか」
「別にいいが。条件がある。今晩は俺の貸し切りにしてくれないか。金ならある」
男は紙幣の入った財布を取り出した。
「他のお客の手前もあるので急には無理だが、30分ぐらいなら延長できないこともない」
「ありがとうよ。じっくり飲まさせてもらうぜ」
「おい。そいつは……」
「とっとと消えろ狂犬め。それとも出る所に出てもいいんだぜ」
「わかった。ここから去ろう。ドミニクさんくれぐれも気を付けてください」
「お前と違って、俺は何もしねえよ」
ドミニクは、身を挺して魔王のスパイらしき男から自分を守ろうとしたドノバンの身を案じていた。ドノバンは、右足が痛むのだろうか、足裏を浮かせつつ歩いて帰ろうとした。
「大丈夫か。手当てをした方がいいぞ」
「これくらいの怪我は大したことありませんよ。それより、あいつを逃がしてはいけません」
ドノバンは片手をあげて、笑顔を見せると、平気そうな足取りで、去って行った。背中がかすんで見えた。
男は帽子を脱ぐと、眉毛は元通りになっていた。スラックスについた土ぼこりを払うと、カバンを小脇に抱えて、ドミニクの店に入って行った。
店内で、男は見晴らしのいいカウンター席の中央に腰を下ろし、十年来の常連客のように、貫禄十分にふるまい、鴨料理と強めの酒を注文した。ドミニクが酒を注ぐと、グラスの八分目までを一挙に飲み干す。酒に強い俺様は凄いと言わんばかりに、顔を近づけて目で同意を迫った。
「あんまりハイペースだと、酔いつぶれてしまうぞ」
ドミニクは、相手の顔の赤味を見て、健康状態を推し量っている。男は気にも留めず残り全部を飲み干した。やがて、客は少しずつはけていき、店内の客は怪しい男と、ドミニクだけになった。
「訊きたいことがあるんだが、あなたがこの国で一番強いというのは本当かい」
「誰が、そのような噂を撒き散らしたかは知らないが、誰が一番というのに興味はないのでな」
「噂を耳にしてね、何やら天空を操るとか」
「祈りの事か。殺生は嫌いでな、手加減をしている」
「命が危なくなるとしたら」
男は顔をじろじろとなめ回すように見つめた後、ドミニクの目に焦点を合わせたが、彼女は動じることはなかった。
「その時は、その時だ」
ドミニクは目を閉じて、落ち着き払ったまま回答を告げた。彼女の堂々とした落ち着き払った態度に、男は、逆に恐れを感じていた。死が怖くないこの女は、守るものができた時、最大限の刃を自分たちに向けてくるだろうことを想像し、胸の奥に冷たいものが降りてきた。
「あばよ。世話になったぜ」
男は代金を支払うと、逃げ出すように扉を開けて店から飛び出した。バザ・ギャリ様に、ドミニクのことを告げて、早急に対処してもらわないと、わが身が、いやドブリジューカが危ないと、鋼のベルを打ち鳴らすような警告を感じていた。
月明かりの元、男は荒々しく地面を蹴りながら、巣穴に戻ろうとする地ネズミのように駆け出して行った。その後男の姿を見た者はいなかった。男の慌てぶりから、ドミニクは、スパイがどのような報告をするか感づいてはいたが、魂は平穏だった。魂の導きにより最善を尽くすことを心に決めていた。