スパイ現る
一人の瘴気をまとった魔物が人間の旅人のふりをして、リヒータナの町を訪れていた。バザーの準備で教会は活気にあふれていた。人々が手作りの商品を並べたり、露天の準備をしている所に、彼は身をかがめて、足早に通り過ぎながらも、それとなく人探しをしている。太陽が照り付ける中、深めに被った帽子で顔を覆い、
ぎょろりとした目つきで獲物を探す様を悟られないように、時々目を伏せる。その男性に、教会の娘、ナーシャが気づくまで、さほど時間はかからなかった。
「誰かお探しですか」ナーシャは男性に声をかけてから、背筋に悪寒を感じたが、気のせいだと思いなおして、相手の表情をじっくりと観察する。帽子の下から見える、油で撫でつけられた頭は、かすかに鼻を突く匂いがする。太い眉に大きな目が操られたように動く。
「この町で一番強いのは誰だろうか」単刀直入に男はつぶやいた。スパイとしては、一般人に同化しきれていない分、スキルの低い人物だと窺われる。
「お客様は、どういった方ですか」不審に思ったナーシャは、相手の素性について探ろうとした。その質問を遮るように、かぶりを振って、足早に教会の敷地内から立ち去った。
男は筆記用具と紙を綴じたものを出すと、「×教会」とだけ書いた。派遣主から、リヒータナにいる。卓越した能力を持つ人物について、詳細な情報を手に入れられなければ、帰国は許されない。男は、次なる標的を探るために、町中の市場にもぐりこんだ。
いろいろな食材の匂いが混じり合い、人でごった返す市場の中で、男は腕組みをして考え込んでいる。「強い奴の情報を、市場に来る客が知るわけがないな」男の予感は当たっていた。おそらく、その者の力を知っているのは、魔物の被害を受けている人間たちだということにたどり着いた。
男は、町のはずれにある。ティーニーラブ・アランフェスの農場に出向いた。畑の中には、労働者が作物を収穫していた。畑の表面に出ている葉のついた太い茎の部分を掴んで、力づくで引き抜いている。男は農家の労働者に声をかけた。
「やあ、旅の者だが魔物の被害に遭っていないかい」
普段は使わない表層筋を使いとびっきりの笑顔で話しかけた。農民たちは表情のわざとらしさに、警戒の表情を浮かべて、後ずさりした。
「ああ、昔は多かったが、ドミニクさんのおかげでだいぶ減った」農民たちは、距離を引きながらも、相手の問いに答えてやった。軽い世間話のつもりだった。ただ相手の容貌が少し人間離れしているような印象もあり、積極的に距離をつめる気にはなれなかった。
「そのドミニクはどこにいるんだね」
「町のはずれの一軒家で、夕方になると料理屋を始める」
「わかった。ちょっと礼を言ってくる」
農民たちをうまくだましたつもりになって、間者は畑から離れていった。男はドミニクの能力を確かめることを求められていたが、自分が犠牲になるつもりはさらさらなかった。
「あとは料理屋に来る客に聞けばなんとかなる」
男はこの後の調査を軽く考えている節があった。時間が来るまで、町中の喫茶店で時間を潰すかと思い、ステンドグラスを思わせるカラフルな色ガラスで飾られた戸を開いて中に入った。中にはドノバンが、書籍と首っ引きになりながら、コーヒーのぬくもりが冷め始めたことに気づかずにいた。男はドノバンに声をかけてみた。ただの暇つぶしのつもりだった。
「おい。若いのドミニクを知っているかい」
「失礼ですが、どちら様ですか」ドノバンは書籍から目を離し、男の姿を上から下までじっくりと見た。ずんぐりとした身長に、季節に不釣り合いな、革のコートを着込みコーデュロイのズボンを穿き込んだ帽子をかぶった男。一目見て奇妙さが網膜に焼き付く。怪しさが店の空気より浮き出て、かかわりを持つことをはばかられる形相だった。
「ああ、ただの旅の者だ」
「旅のお方がドミニクに何の用ですか。あいにく彼女のことはよく知らないんですが」
ドノバンは、怪しさに気づいて、ドミニクとは関係のない振りをした。
「ああ、いい。知らなけりゃいいんだ」男は深々と頭を下げた後、カウンターに腰を下ろし、赤い色のフルーツジュースを頼んだ。男はストローが苦手なのか、コップからつまみ出すと口をつけて半分ほど飲み干した。
ドノバンは、相手の素性になんとはなしに気づいて、会計を済ませると、気づかれずに店を後にした。その足で、ドミニクの店に出向いて、戸をノックした。
「なんだ。ドノバンか。開店はまだだ」
「怪しい男がうろついています。魔王の手下だと思われます。気を付けていただきたい」
「そのような者は、放っておけばよいだろう」
ドノバンは、前にスパイについて話した時、泳がせておくと発言したが、現状ではドミニクは自分の力を出し切ろうともしていない。このままの状態では、魔王が本気を出した時、成敗されると読んで勧告に赴いたのだった。
「あなたの力が知れたら、魔王は討伐に来るでしょう」
「ならば、それも運命であろう。私は逃げも隠れもせぬ」
やはり、彼女は国の運命について他人事の様だった。このままでは、ハートバルクは魔王軍に併呑されてしまうかもしれない。それだけは避けたかった。いくら軍隊がいて、魔法の訓練を始めた所で、魔法術でははるかに人間を凌駕する魔王軍と比較すると戦力的に劣ることは否めなかった。
「それは困ります。我が国はドミニクさんの力を必要としています」
「私は争いも殺生も好きではない」
ドミニクは、ドノバンに自分の意思を伝えると、戸に鍵をかけた。戸の外側からドノバンの声が聞こえたが、しばらくすると大人しくなった。
ドノバンは、男がドミニクの店から出たら、仕留めようと考えていた。ただ、もし万が一、相手が普通の人間だとしたら、ドノバンは罪人として、町の治安を守る者に取らえられてしまう可能性もあり、判断がつかなかった。ドノバンは悩んだが、名案は思い浮かばなかった。