心を移す者
ランセットは旅立ち、一夜限りの祝宴が終わった後、リヒータナの町には、平穏な日々が戻る。ただ二人の女性の心を、強風にあおられて多方向に咲き散っていく花のように、乱れさせたまま、生活のリズムに追いかけられて日常が何食わぬ顔をしてやってくる。
ナーシェは、涙をこらえつつ、礼拝堂の掃除をし、バザーの準備を計画する。ドミニクは、魂との対話を続けながらも、自分ができる施しのために、日々ハムを切り分け、パンを焼き、新鮮な野菜を買いに市場まで出かける。たまに二人は、市場で出会うのだが、お互いが意識し合っているせいで、顔を合わせるたびに、もって行き場のない罪悪感が、逢瀬の邪魔をする。ここ数日、二人は口をきかない状態が続いていた。
ドミニクは、町に侵入する小鬼たちの立ち話から、変な噂を耳にした。ドブリジューカの支配者である魔王=デシク・ジークァが、ドミニクに興味を持ったというのだ。彼女は、再度太陽を使い、小鬼たちを追い払った。逃げ出す小鬼たちは、「デシク様が、成敗しに来るぞ」と捨て台詞を吐いて、塀から外の世界へ戻って行った。
デシク・ジークァの噂はかねがね聞いていた。薄青い髪の毛に紫の肌を持つ、金色の細い目をした人外だということ。ハートバルクの人々の間では好戦的な魔王として恐れられているという話だった。
「その情報は魔王に直接聞いたのか」
噂話をする人に、こんな問いかけをしていたので、ドミニクはすっかり変わり者の評判を得たが、当人はさほど気にもしていない様だった。真意は魔王の胸の中にあると、持ち前の直感で見抜いていたからだ。取り巻きが、勝手に暴走して、主の指図にない行動を取ることは、知識として織り込み済みだった。肩まである緑色の艶やかな髪を手櫛でなでつけながら、魔王の心中を案じていた。
夜になり、店を開店させると、早速ドノバンが店に現れる。徴兵を免れているとはいえ、まつりごとを仕切るものとして心得ているのか、鍛えられた身体は引き締まっていて、同年代の若者と比べて引けを取らない体つきをしていた。
「魔王がスパイを送り込むかもしれませんよ」
「よく知っているな」
「想像ですよ。あなたの力は魔王を凌駕するかもしれません。天体を味方につけて自由に操る能力は脅威ですから」
「スパイは捕まえるのか」
「泳がせておきますよ。こちらの切り札を知らせておくに限ります」
「協力はしないと言ったら」
「協力はするでしょう。貴女はそういう人だ」
ドミニクはあえて返答はしなかった。心の迷いを見抜かれていることはわかっていた。鋭敏な嗅覚を持つのがドノバンだと知っていたからだ。
ドノバンはワインを一気に飲み干すと、ドミニクに別れを告げて、店の外に出ていった。玉砂利を踏みしめる音が夜道に鳴り響いたが、店の中の喧騒が相討ちして、別れの足音を消し去った。
「魔王の心は読めないだろうか」
ドミニクは、客にアルコールを出しながら、魔王の真意を推し量ろうとしてみた。
ドブリジューカは、建国の頃はもめていたが、最近ではあまり紛争を起こしておらず、領土は縮小ぎみであった。これを戦意の喪失と取るか、新たなる戦争の準備ととるか。ハートバルクの国民たちは後者だと思うものが多かった。
教会のバザーが人を呼ぶのか、見たことのない旅人が数多く訪れるようになった。その中に魔王が派遣したスパイが紛れ込んでいるのだろう。ドミニクは、何が起ころうとも、いつものように生活を続けて、自分の能力を隠そうともしなかった。
「バザ・ギャリ様の手の者が、お前に天罰を加えるぞ」
太陽光で顔を真っ赤にした小鬼たちが、憎まれ口をたたいて何度も逃げていった。バザ・ギャリというのは魔王の配下の者らしい。初めて聞く名前だとドミニクは思った。
リヒータナの町の噂話に詳しい人達に聞いても、バザ・ギャリには聞き覚えがないらしい。口の軽く頭の足りない小鬼どもが、うっかり舌をすべらせて漏らした魔王側の側近だと推測した。
スパイが、ドミニクのことをどう報告しようとも、彼女は揺るがなかった。問題があるとすれば、魔王側が先手を打って、こちらの町を攻め滅ぼさないかということだった。
果たして、その時に、自分はどう動けばいいのか、自分の心とどう折り合いをつければいいのか、最終回答はまだ出てはいない。自分の力で町の人を守るのが正しいのか、殺生を禁じたまま力を封じ込めて戦うのがいいのか。二つの解答に挟まれた心は揺れ動き、振り子は定まる目的地を見つけられぬままでいた。
「おはようございます。そろそろ氷を届けましょうか」
「マーロおはよう。そうだな一塊り頼む」
ドミニクが、戦う姿勢を見せなければ、マーロはいずれ徴兵に取られるだろう。マーロが戦死する可能性は今時点では低いが、魔王側が動き出しているとすれば、いさかいが起きてもおかしくはない。人を愛するという感情は、今まで強く想ったことがなかった。熱く拍動を続ける心臓が、えぐり取られて投げ捨てられるような喪失感を味わうかもしれない。彼との未来は、自分の出方いかんによっては、悲嘆を押し付けられるだろう。
ドミニクは今も迷い続けている。魂に訊いてみても答えは出ない。ドミニクはここに来てやっと、一人の人間としての感情を取り戻して、悩み始めていた。