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掌編集  作者: 叶 こうえ
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二日目のカモミールティー

「ハーブティー」というお題で書きました。

産後鬱の女性の話です。

 ポッチャリがベッドのすぐ近くで私のことを見ている。きっとその目は厳しく光っている。彼女から目をそらしていても、私にはわかる。

 緊張で喉が渇く。ドーナッツクッションに載せているお尻が汗ばみ、肌が痒くなってきた。

 一層私は、腕の中の子供に意識を集中させた。子供は大人しく私に横抱きにされ、目をつむっておっぱいを吸っている。母乳の出は良い。完全母乳でいけるほどだ。でも私にとってそれは苦行だった。口に含まれた瞬間の激痛が、授乳中ずっと尾を引くのだ。

「お母さん」

 とうとうポッチャリが私を呼んだ。

「そんな抱き方、教えましたっけ?」

 こういう言い方は、一番メンタルにくる。「教えていませんよ」で良いのに。

「あ……えっと、他の人に教えてもらって」

 おっぱいに吸い付くピンク色の唇だけを見ながら、私は答えた。嘘は吐いていない。彼女以外の助産師二人からは、横抱きを教えてもらった。このポッチャリ助産師だけが、フットボール抱きを推奨してきたのだ。そして私は、ラグビーボールの如く赤ちゃんを小脇に抱えるスタイルが好きになれなかった。

「そうですか」

 まだ納得がいっていないようなひんやりとした声に、私の体は竦んでしまう。

「じゃあ好きにすれば良いですけど。乳腺炎になっても知りませんよ」

 匙を投げるような物言いにカチンとくる。でも何も言えない。彼女は助産師歴二十年のベテランで、私はきのう第一子を産んだばかりの、新米ママだ。

 妊娠中、何回も夫と一緒に両親学級に通った。親になる心構えを教えてもらって、準備は万端だったはずなのに。全然そんなことはなかった。分からない事だらけだ。

 ポッチャリが病室から出て行ったとたん、我慢が効かなくなって私は泣いた。子供をベッドに置いて、ボックスティッシュから紙を一枚抜き取り涙を拭いた。唯一この産院で気に入っているのは、備え付けのティッシュが「エリエール」だということだ。鼻の下に優しい使い心地なのだ。あとは最悪だ。助産師の指導は厳しいし、出される食事は美味しくない。掃除は行き届いているけれど、建物自体が古いから、暖房をつけていても朝と夜は隙間風が入って来て寒い。病院から出産祝いでもらったハーブティーを一回試しに飲んでみたけれど、やっぱり不味かった。箱に入った、ちょっとお高めのティーバッグ。でも私の好きなローズヒップ、レモングラスは入っていなかった。カモミール一種類だけ。私はカモミールティーが嫌いだった。においがキツイし、味も曖昧だ。甘いんだか苦いんだかわからなくて掴みどころがない。ひねくれている。コーヒーみたいに、ガツンと主張する何かがあってほしい。

「コーヒー飲みたい」

 でも飲めない。いや、一杯ぐらい平気なのだろうけど、飲んだあと罪悪感を覚えるのは必至だから、飲まないほうが良い。自分のために。

 私の涙は止まったが、ベッドに寝かせていた子供が泣きだした。授乳を中断していたことを思い出す。慌てて子供を抱き上げておっぱいを吸わせる。と、軽いノックのあとドアが開いた。スポーツバッグを持った夫が、手を軽く振って部屋に入ってくる。

「どう? 元気?」

 悩みなんて全然なさそうな夫の顔に、私は絶望した。なんでそんなに笑っていられるの。これから私たち二人でこの子を立派に育て上げなくちゃいけないのに。夫は事の重大さをわかってはいない。

 私の隣に夫が座った。ベッドが軋んだ音を立てる。夫は気にせずに、子供の頭を軽く撫でた。

「さっき親に電話で相談したんだ。成実ちゃんが助産師に虐められてるって。そしたら『心づけ渡してないからじゃないの』って言われてさ、持ってきたよ」

 そういって、夫はスポーツバッグから菓子折りを取り出した。

「これを渡せば解決だろ」

 手柄でも立てたように夫が言う。

「わざわざお義母さんに相談したの」

 怒る気力も湧いてこない。結婚する前から夫にマザコンの気質があることは気が付いていた。

「あれ、成実ちゃん目が赤い。また助産師にキツイことでも言われた?」

「さっきポッチャリに、嫌味言われた」

 愚痴る相手が夫しかいないことにまた絶望。無条件に頼れる母親は祖母の介護に明け暮れていて、私の出産を祝いに来る余裕もない。

 私がフットボール抱きの件を話すと、夫は「フットボール抱きって名称おかしくない?」と見当違いなことを言った。

「だってフットボールってサッカーのことだろ? ボールなんて抱えないじゃん」

 真面目な顔で話す夫に、私は呆れた。

「アメリカンフットボールの略だってば。知らない?」

「あ、そっちか」

 夫は自分の勘違いを恥じるように笑った。私は一緒に笑えなかった。笑う気にもならない。妊娠する前は、夫のバカっぽいところが好きだったのに。

「あ、俺、発見したんだ。カモミールティーを美味しく飲む方法」

「へえ」

 余計なお世話だ。私は工夫までして、カモミールティーを飲みたいとは思っていない。

 壁時計を見て時間を確認すると、授乳開始から十分が経過していた。私は授乳を終わらせ、眠そうにしている子供の背中を軽く叩いた。なんとかゲップをさせ、真横に置いてあるベビーベッドに子供を移した。ちょっと腰を浮かせただけなのに、股間に重い痛みが走る。

 夫がスッとベッドから立ち上がり、スポーツバッグから袋入りの飴を取り出した。ミルキーのソフトキャンディだ。封は開いている。

「これ舐めてスタンバイしてて」

 夫に促され、私は包み紙を外して、キャンディを口の中に入れ舌で転がした。口中が唾液でいっぱいになったが、舐めているうちにその甘味にも慣れた。

 夫は病室の窓際に置かれたテーブルに向かい、そこに常備してあるポットの湯で、カモミールティーを淹れた。鼻にツンと来る菊特有のにおいが漂ってくる。クシャミが出そうになった。

 煮出し時間三分が長く感じる。なんとなく手持無沙汰になり、私は夫のスポーツバッグの中を覗いた。そこにはピンクのショーツが入っていた。私が使った産褥用のショーツだとわかったとたん、頭がカッとなった。

「これ、捨ててって言ったじゃん」

 声が大きくなるのを止められない。

 悪露で血まみれになったショーツをビニール袋に入れ、昨日、夫に手渡したのだ。捨ててほしいとちゃんと頼んだのに。

 夫が私を振り返った。きょとんとした顔をしている。

「なんで捨てないの。洗ってなんて頼んでないでしょ」

 夫は血が苦手だ。医療ドラマを見ていても手術シーンが出てきたらチャンネルをかえるほどだ。目に浮かぶ。血まみれのショーツを風呂場でごしごし洗う夫の姿が。その顔はきっと歪んでいる。

「無理して洗わなくても良かったのに」

 嫌々洗ったに決まっている。

「無理してないよ」

 きょとんとした顔のまま夫が言う。

「うそ」

「無理してないって。成実ちゃんが大変な思いをして産んでくれたってことだろ。あの血はさ」

 夫の言葉で、私は勢いを失った。怒るタイミングを逸した。ううん、違う。これは怒りじゃなかった。涙がまた出そうになった。 

 夫がカップを持って私の元にやってくる。白いカップには薄茶色のカモミールティーが入っている。その色は紅茶に似ていた。

「飴を舐めながら飲むと美味しいよ」

 差し出されたカップを手に取り、私は一口飲んだ。

 本当だ。口の中の甘ったるいミルクを、清涼感のあるカモミールが緩和してくれて、爽やかな甘味が舌に伝わった。初めてカモミールティーが美味しいと感じた。

「でも何で、ここまでしてカモミールティーを飲ませたいの? 私に」

「飲むとリラックスできるって助産師さんに聞いたから。だから病院からプレゼントされたんだろうし」

 得意げに夫が笑う。つられるように私も口角を上げた。涙の膜で、夫の顔がはっきりと見えない。

「早く帰りたい」

 ここの居心地が悪いからじゃなかった。

 隣に夫が座った。やっぱりベッドが軋んだ。私は気にせずに、彼の肩に顔を寄せた。了

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