寿退社
過去作。
ピンクのカーネーションとかすみ草を組み合わせた花束を両手で抱え、涙ぐんで見せながら、私は退職のスピーチを終らせた。夢にまでみた寿退社。突然笑いの発作に襲われた私は、急いで右手を口元にあてがい、深めにお辞儀をした。途端、周りから大きな拍手があがる。私を取り囲むようにして立っている同僚の女性社員や上司、花束を渡す役目を終らせた社長が、惜しみない拍手を向けてくれている。
「ありがとうございます」
もう一度お辞儀をすると拍手の音が頼りないものになった。やっと帰れるかな……と顔を上げると、それが甘い考えだという事が分かった。
「出会いは?」
「旦那の職業は?」
「妊娠したの?」
いきなり始まる質問攻め。
この職場は独身女性の集まりなのだ。「おめでとう、お幸せに」で終るわけがなかった。私はあらかじめ用意していた答えを、すらすらと述べた。
「出会いはねえ……彼に道を聞かれたのがきっかけなんだ。職業は……まあ普通の会社員。妊娠はしてないよ」
まだ社長が近くにいる。あけすけな話は流石にできない。
「へえ……道を聞かれて……なんて、すっごいロマンチックだね」
十歳年上の原田さんが、羨ましそうに私の顔を見ながら言う。声は弾んでいるけど、目は笑っていない。当たり前だ。十歳年下の私に先を越されちゃうんだから。原田さんは美人だ。だから、結婚相手への理想も高くて、婚期を逃したっていうパターンらしい。私みたいに多くを求めなければ、いきおくれる事もないのに。三十半ばになれば、どんなに美人でも老化現象には勝てない。そうなる前に手を打つのが利口ってものだ。
「先輩はいつなさるんですか? 結婚」
ちょっと意地悪な質問を返してやると、急に周りが静かになった。
「ちょっと……」
窘めるように、隣に立っていた同い年のルリちゃんが私の右腕をつつく。でも私は怖くなかった。どうせ今日でこの会社ともおさらばだ。ここで言いたい事を言わなかったら、五年間原田さんにいびられ続けた私は報われない。
余裕で私は、原田さんの顔に視線を向ける。と、案の定顔が引きつっていた。唇がぶるぶると震えている。
「結婚っていいもんですよ、先輩」
私はちょっと調子にのっていた。
「……ストーカーと結婚するぐらいなら、独身の方がマシよ」
原田さんのその言葉で、今度は私が凍りついた。……なんで知ってるの?!
右隣のルリちゃんを横目に見ると、彼女は慌てて視線を逸らし、「トイレ行ってきます……」と言って走り去ってしまった。……ばらしやがった。あんなに、誰にも言うなって言ったのに……!
「ストーカーに逆ナンパ……なんて、がっつきすぎよ? あなた」
形勢逆転のつもりなんだろうか。得意気に私を鼻で笑いながら、周りの同僚に向かって大声で話し出す。
「普通、ストーカーなんてきもいよねえ? よくそんな人と結婚できるわぁ……」
社長や上司や同僚が、私の方を「本当なの?」と不審そうな目で見てくる。ここで否定しなかったら、やばい。
「ストーカーじゃないです! 帰り道がいつも一緒で……」
「あらあ? 道を聞かれたんじゃないのぉ? まあ、ストーカーと気が合って付き合い始めた……なんて言えないもんね、普通」
毎日、帰り道をつけられていたのは事実だった。でも、その人が私のタイプだったんだから、問題はないはずだ。出会いなんて、そんなもんじゃないの?
「……原田さんだって人の事言えませんよね? 出会い系サイト、こそこそ見てましたよね? 会社のパソコンで……」
こうなったら私も暴露してやる。原田さんは、欲求不満のババアだ。その上、人の幸せに嫉妬して、足を引っ張る奴だ。
「で、そこで知り合った人と付き合ってたんですよね? ルリちゃんに聞きましたよ?」
あ、ルリちゃんって、おしゃべりだって知ってたんだよな、私。なのになんで彼女にしゃべっちゃったんだろう……? 旦那との馴れ初め。
「神経疑いますよ。見知らぬ人と簡単に会えるなんて。私はその点、リアルな出会いですから」
やけに私の声が響いている。社長も上司も同僚も、表情が固まっていた。原田さんは、悔しそうに私の顔を睨んでるけど、言い返してこない。言い負かした快感で、私はまた、突発的な笑いの発作に襲われた。咳き込んだ振りをして誤魔化す。さすがに一人で大笑いをしたら、この場から浮いてしまう。
もうこれ以上は言うまい。このまま優雅にお暇してしまおう……そう思って、私は社長に一歩近づいてお別れの言葉を告げようとした。すると、いきなり社長が、顔の贅肉を震わせて、抑揚のない声を吐き出した。
「私は、妻と文通で知り合ったんだけどね。神経おかしいかね?」
了
文通が流行ってた時があるんですよ。