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掌編集  作者: 叶 こうえ
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ホワイトカラー

もし、人生の分岐点に戻れたら。

 雪の降る町に住んでいると、雪に娯楽を見出すようになる。小さい頃は、真っ新な雪に最初の足跡を付けるのが嬉しくて仕方なく、一番を取られるといちいち悔しくなった。もう少し年齢がいくと、降り積もった清潔そうな雪に直接かき氷用のシロップをかけてスプーンで掬って食べていた。ほぼ無料のおやつだった。中学生の頃は、家の庭で固まった雪に、絵具で色付けするのにハマっていた。なかなかの出来だったと思う。そんな馬鹿らしいことはしていられないと悟ったときから、人面雪を頻繁に発見するようになった。それがパレイドリア(錯覚)だと分かってはいるけれど、どの人面雪も話しかけてほしそうに、ジッと佳也子を見つめてくる。無視するのは心苦しく、周りに人がいないときは、こっそり挨拶をするようになった。その中でも相性の良い人面雪は、毎年外で仕事をしていると現れる。いつの頃からか、彼女のことをおばさんと呼ぶようになった。物言いがおばさんっぽく、話す内容が観念的で説教臭かったからだ。自分も三十五歳で十分おばさんと言える年齢なのだが、そのことは敢えて棚に上げている。自分をおばさんと認めてしまったら、庭師という肉体労働ができなくなってしまいそうで、怖い。 

 ――私はなぜ、凍えそうなほど寒い雪の中、他人の家の雪かきをせっせと行っているのだろう。 

 佳也子は、スコップを投げ出し、今すぐにでも娘と夫が待つ温かい家に帰りたかった。しきりに前髪に向かって息を吐く。冷え切った顔の皮膚に、少しでもいいからと温もりを送り込む。降り続く湿った雪に、ささやかな温みは呆気なく打ち消された。

 ここは玄関前だというのに、まったく雪かきがされていなかった。住人たちは、いつも勝手口を使っているから手入れを怠けたのだろう。訪問者から苦情を言われ、慌てて佳也子の父親に仕事を依頼してきたに違いない。

 コンクリートの地面にへばり付いた雪をスコップで力任せに剥がす。ガリガリと耳障りな音。疲れて動きを止めても、その音は耳の中で鳴り続けていて、佳也子は自分が雪の中に一人、取り残されてしまったのではないかと不安になった。そんな妄想を振り払うように、おばさんに声をかける。

「雪かきなんてね、本来私のすることじゃないのよ。こんなの、家主が自分でやればいいことじゃない?」

 表札が嵌っている石造りの郵便受け。そこのてっぺんに、おばさんは鎮座していた。

「お父さんが勝手に雪かきの仕事、引き受けちゃった。私はこんな、誰でもできるような雑用、やる立場じゃないのよ」

「日も落ちてきたし、帰っちゃえばいいじゃない」

 おばさんがやっと口を開いた。

「辞めたいのよ、こんな仕事。全然給料よくないし、力仕事で腰も痛めるし……」

 愚痴というものは、言い出すとなかなか止まらない。 

「松の手当がうまくいって、やっとこの仕事に自信が持てるようになったのに」

スコップを持つ手が、寒さで麻痺してきている。雪かき用手袋を装着しているにも関わらず。

「去年もあんた、仕事の愚痴ばっかり言っていたわよ。そんなに仕事に不満があるのなら、転職すればいいじゃないの。毎年愚痴られてこっちはいい迷惑だわ」

「転職したくても学歴がないし、庭師しかしたことがないからつぶしがきかないのよ」

 年上なのだし、愚痴ぐらい聞いてくれてもいいじゃないか、と佳也子は口をとがらせた。佳也子には愚痴を言える相手がいなかった。夫には先週、「これ以上愚痴を言ったら口をきかない」と宣告された。友達もいない、娘はまだ話の意味が分かる年齢ではない。父と母は雇い主。

「あのとき、中退していなければ……事務職とか、もっと楽な仕事に就けたかもしれない」

 佳也子より成績の悪かった同級生が、そこそこのレベルの大学に入って、名の知れたメーカーに勤めている。知りたくもなかった些細な情報が、この小さい町では嫌でも入ってくる。確かに佳也子の通っていた高校は入学難易度が高い進学校だった。そこを辞めてしまうなんて、狂気の沙汰だった。

 高校を中退したのはもう二十年近く前だというのに、いまだに後悔で地団駄を踏んでしまう。地面にしつこく降り積もる雪を、半ば八つ当たりで蹴っ飛ばした。

「じゃあ、人生の分岐点とやらに戻って、やり直してごらん。ただしタイムリミットは次の雪が降るまでだからね。はい、スタート」

 パチンと手を叩いたような音が響き、同時に、おばさんの顔が粉砕して、私の顔面に飛びかかってきた。雪の破片が目の中に入り、視界が白と夕日で散らかる。とっさに目をきつく閉じた。


 瞼の裏が、真っ白い雪の残像でチカチカと瞬いている。目を開けると、そこには二十年前に置いてきた風景が再現されていた。つまり、高校の、授業中の教室。はじめに目に入ってきたのは、鉛筆を握る自分の手の甲だった。疵もアカギレもない、真っ白で滑らかな皮膚だ。正面を向くと、前の席に座っている女子の絶壁頭が目に映った。この後頭部には見覚えがあった。あまりにも薄っぺらい頭。だけど、成績は優秀で、いつも学年の上位に入っていた。理恵、蒲池理恵だと、今まで思い出すこともなかったクラスメイトのフルネームがすぐに浮かんできた。蒲池理恵が突然大声を出す。

「先生! また内山さんが絵を描いています!」

 内山という苗字に、佳也子は自分のことだと気が付かなかった。結婚する前の旧姓だったのだが、この苗字を捨ててから七年も経っている。自分のことだと認識したのは、ヒステリックな川口先生の怒鳴り声だった。

「そんなんだから赤点ばっかり取るのよ、内山さんっ! ちゃんと聞いていれば小学生でもわかるような問題、間違えて!」

 教室は、あからさまな嘲笑で満たされた。にやにや笑って佳也子の顔を見る人、無関心な人、教科書を読んでいる人と反応は様々だったが、フォローしてくれるクラスメイトは皆無だった。

「そこで立ってなさい!」

 黒板消しが佳也子目がけて飛んでくる。コントロールがよく佳也子の肩にぶつかった。昭和の学校ではよくある風景で、懐かしくなる。この後佳也子は、この女教師に向かって「くそ婆」と暴言を吐き、教室を出て行ったのだ。それ以降、この学校に足を踏み入れていない。辞めたのだ。鮮明に最後の授業が蘇ってきた。その時の感情も浮かび上がってくる。だって英語は苦手だったから、ちょっと絵を描いただけなのに告げ口しやがって、怒りすぎじゃないの? ヒステリー?

 客観的に見て、そういう感情は子供っぽいし自己中心的だと、佳代子は思った。高校生のときと今とでは、物事の受け取り方が全く違うと発見する。ここでもう一度教師に反抗する気にはなれなかった。周りの生徒たちは、何かが起こることを期待し、熱い視線を向けてくる。それに応える気はさらさらない。

「すみませんでした」

 すいません、ではなく、すみませんと言い、佳也子は教壇に向かって頭を下げた。


 人生の分岐点は呆気なく去った。佳也子は授業が終わった後、もう一度先生に謝り、急いで下の階に降り、ロビーに設置されている公衆電話の受話器を取った。暗記しているのは、我が家の電話番号だけだ。

「あ、佳也子? まだ帰ってこれないのか? 麻里が寂しがってるよ」

 夫の声が聞こえた途端、佳也子の目から安堵の涙が流れた。電話越しに、娘の泣き声も聞こえてくる。――ああ、よかった。二人は私の傍にいる。未来は変わっていない。

 変わらないでいて欲しいことと、変わっていてほしいことがあった。現金なもので、安心の確保ができた途端、欲が出てきた。

「あのさ……変なこと聞くけど、私の最終学歴教えてくれない?」

 さっきの授業で、多少未来は変わっているはずだ。少なくとも今日は高校を辞めない。

「なに言ってるんだ? 自分の学歴忘れたわけじゃないだろう? 農業大学を出ていてもなんの役にも立たない、さっさと見習いになっておくんだったって、よく愚痴っているじゃないか」

 夫の呆れたような声が耳に響く。佳也子は冷静にその言葉を受け入れた。

 子供は娘が一人、夫は庭の仕事を発注してきた元顧客、そして自分の職業は庭師。

結果は出ていた。未来はさほど変わらなかったと。だが、不思議と落胆はしなかった。運命の糸は思った以上に強固で不動なものなのだと、安堵の混じった諦観が緩やかに自分の価値観に入り込んできた。

「帰りたいのは山々なんだけど――まだ帰れそうにないや。ごめんね」

ロビーから見える空模様は、雲ひとつない晴天だ。雪はいつ降るだろう。早く実家に帰って天気予報を見なければ。それと。

 佳也子は夫との電話を切り、次の授業を受けずに実家に帰った。元自分の部屋へと向かう。高校生の佳也子宛てに何か書き残したいと思った。アドバイス、人生訓、それとも未来の自分について? 数秒思考を巡らせたが、思いつきそうで、思いつかない。まあ良い。まだまだ帰るまで時間がありそうだ。ゆっくり考えよう。

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