旅立ちに最適な放課後
某短編小説賞で一次落ちだったものです。テーマは雪の幻想です。
ヘンゼルとグレーテルが受けた親からの仕打ちを、他人事だと思えない俺は、結構不幸な身の上なんじゃないか、と思う。
帰りにラーメンでも、という友人たちの誘いを断って、俺は教室のドアを開け昇降口へと向かった。途中、いつもの癖で隣のクラスの教室を覗いてしまう。ちょうどドアから、一年のとき同じクラスだった奴が出てきて、その背後に兄が机に突っ伏している姿が見える。またか。前を向き直し教室を素通りしようとすると、後ろから声を掛けられた。
「よお圭二、兄貴寝ちゃってるぞ。起こしてきてやろうか」
「いいよ、別に」
一緒に帰るつもりなんてさらさらない。あっちだって、俺と下校する気なんて微塵もないだろう。高校に入学してから一度も登下校を共にしたことがないのだ。
元級友が不思議そうに瞬きをしてから、俺の隣に来て話し出す。
「俊一の奴、ちょっとまずいかもよ? ほぼ毎日居眠りしてるよ。成績も落ちまくってるし」
「家でもよく寝てるよ。飯の食いっぱぐれもしょっちゅう」
三度の飯より睡眠。そんな言葉が兄にはよく似合う。兄が食べるはずだった晩ご飯は、その日のうちに母がすべて食べてしまう。だから母はデブだ。いや、兄が居眠りするようになるずっと前から、太っているけれど。
「もしかして入れ替わってたりして。おまえと俊一」
「あり得るかもな。一年のときは、あいつの方が成績良かったしな」
俺と俊一は一卵性双生児だ。母をがっかりさせた双子。ひとりで良かったのにふたりで生まれてきてしまった双子。
元級友と下駄箱の前で別れ、身震するほど冷え込んでいる外へと足を踏み出した。やっとひとりになれた。ほっと息をついた途端、だらけた腹がぐうぅと音を立てた。昇降口の階段を降りると、一面雪に覆われた校庭が目に映る。どんよりとした暗い空を宥めているかのように、雪の表面は弱くて優しい光を放っている。足早に校門へと歩を進める。空腹だった。おやつのラーメンを、俺だって皆と食べに行きたかった。
家に向かってひたすら歩き続けるうちに、べっとりとした濡れ雪が空から落下しはじめた。帰り道には寄り道ができるような店なんてない。コートのフードを深くかぶって、わざと咳を連発してみる。少しだけ体が温まったような気がした。雪の落ちる音が鼓膜に響くほど、周りは静かで、本当にこの道であっているのか不安になるぐらいだった。こんなに雪でなにもかもが埋もれていると、元々そこに何があったのか分からなくなる。たまに立っているオレンジ色の街灯が、積もった雪の白さを際だたせている。その光景が何回目なのか数えていくうちに、俺の耳たぶからは痛覚が消えていく。顔は冷水で冷え切っているし、歯はかみ合わなくなっている。こんな状況なのに、なぜか瞼が重くなってきた。自分の口から流れ出す白い呼気だけが、俺の存在を証明してくれている気がした。
かわいそう。自然と口からこぼれた言葉を、母は耳ざとく拾い上げた。
「甘ったれたこと言ってないで、さっさと間引いちゃいなさい」
苛ついた声で母は俺に指示した。俺はこのとき、まだ小学生だったはずだ。目の前には家庭菜園用のプランターが置かれていた。せっかくたくさん芽が出ているのに、半分以上は引っこ抜かなければいけない。瑞々しく水分を放つ緑色の葉っぱを見ていると、自分がこれから悪いことをしているような気分に陥った。躊躇している俺に苛ついたのか、母が横にやってきて、見せつけるように太い指で、ランダムに芽を毟り取っていく。ブツブツと草が引きちぎられる音がする。
「ああ、ほんっとうに苛々する。こんことぐらい、ひとりでやんなさいよ。働かざる者食うべからず。分かった? 役立たずな子は、この葉っぱみたいに間引くからね?」
自分もいつか引っこ抜かれてしまうのか。母の言葉が恐ろしく胸に響いた。兄は台所でのんきに皿を洗っている。太陽の光が白いプランターに当たってまぶしい。俺は目を瞑った。
はっと我に返って周りを見渡した。肌を刺すような悪寒が爪先から尻に向かって駆け抜けた。点滅する青い光が目に入ってくる。あれは信号だ。自分の立っている場所が、横断歩道の一歩手前だということに気が付く。黒と白のシマシマも、雪で隠されていて全く見えない。急いで信号を渡ろうとしたが、靴底に違和感を覚えて立ち止まった。固い雪の感触ではなかった。足元に目を凝らすと、雪明りの中、黒い手袋がひとつ浮き上がって見えた。しゃがみ込んでそれを拾い上げようとしたが、予想外の重さに思わず声をあげ、尻もちまでついてしまう。手袋の中は空っぽではなかった。俺は慌てて、手袋が嵌っている手を持ち上げ、雪で隠れている腕を引っ張り出そうとした。が、失敗する。手袋が手からすっぽ抜けてしまったのだ。手袋は黒くて薄っぺらくて安っぽい。小指の指先部分には穴が空いている。
「ちょっと待てよ。俺のやつも」
俺が今嵌めている手袋も、同じところに穴があった。
俺の方が先に学校を出たはずなのに。そう思いつつ、もう一度、足元に転がっている人間に顔を近づける。手から腕、肩、首と、降りかかっている雪を両手で払っていく。
「やっぱり俊一だ」
そう認識した途端、両手の動きが鈍くなった。早く助け出さないと。そう思うのに、かじかんだ手は言うことを聞かない。いや、違う。俺はぼんやりと、赤になった信号を見つめた。ひとりの方が良いんじゃないか。そんな囁き声が耳元で聞こえる。
小さいころ、そう、小学生の頃までは兄と仲が良かった。俺たちの家が貧乏で、父も母も学歴がなく、安い給料で会社にこき使われていること。子供二人分の食費、学費を捻出するのも一苦労だという、家庭の台所事情を理解できるようになったのは、中学生になるかならないかの時期だった。事あるごとに母は「ひとりで良かったのに」と毒づいた。俺も兄も小さい頃からあまり食べさせてもらえなくて、体には申し訳程度の贅肉しかついていないのに、母だけはなぜか肥えていた。その疑問を父にぶつけても、空気を吸うだけで太る体質なんだろう――その一言で片づけられた。
ひとりだったら、もうちょっと良いものを食卓に出せるのに。ひとりだったら、習い事のひとつやふたつ、させてあげられるのに。ひとりだったら、公立の大学ぐらい通わせてあげられるのに。ふたりも大学に行く必要はないわ。ひとりで十分。だってあんたたちの叔父さん、小学校から塾通いして一流大学に入ったのに、すぐにやめちゃったのよ。それからは家に引きこもって寝てばかり。投資してもダメなケースがあるのよね。
ねっとりとした口調の母の声が、今でも鼓膜に張りついている。
雪は勢いよく降りつづけている。このまま気が付かなかったふりをして信号を渡れば――俺がごくりと唾を飲んだ瞬間、信号機の向こう側にある一軒家の屋根から、雪の塊が大きな音を立てて落下した。
今は遊ばない方が良いよ。そう親に言われていたのに、俺たちは外に出て雪遊びをしていた。この頃は、まだ雪の鬱陶しさや怖さを分かっていなかった。雪かきも雪おろしも経験していなかった。公園の広場には雨避けが付いていた。その屋根に上って雪を蹴り飛ばした瞬間、俺の体はすっぽりと雪の中に埋まってしまった。屋根から落ちたのだと、数秒後に気が付いた。肩まで雪に浸かっている俺に向かって、兄は慌てて駆け寄ってきた。雪でもつれる足を強引に進めながら。
「俊にい、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。ぜんぜん俺、痛くないし」
恥ずかしかった。屋根から落ちるという失態。雪に浸かった間抜けな格好。俺の強がりを知っていた兄は、泣き笑いを浮かべながら、手を差し伸べてきた。
無我夢中で兄と同化している雪をかき分け、叩き落とす。脇の下や胸元に汗が滲み、俺は寒さを完全に忘れていた。露わになった兄の全身を抱き起す。まだ体は温かい。口元に耳を近づけると、寝息が聞こえてくる。
「おい、大丈夫かよ。圭二」
兄の焦ったような声が聞こえる。俺は覚醒した。目を開けると、俊一の顔が迫ってきた。
「おまえ、こんなところで寝てたら、死ぬぞ」
ほっとしたような兄の声が白い吐息とともに俺の顔に降ってくる。腕を引っ張り上げられ、俺は体を起こした。俺たちは信号機の真下にいた。さっき夢で見た家が、目の前に建っている。屋根の部分に雪は積もっていない。二人で家路を歩く。
「圭二さ、最近居眠りすることない? 俺も所構わず寝ちゃうことがあるんだ。たぶんナルコレプシーっていう病気なんだと思う。今度病院で検査してもらうよ。お前も一緒に行かない?」
俺を助けるとき躊躇しなかったか。思わず聞きたくなったが、振り返ってこちらを見てくる兄の顔が優しくて、俺は口を閉じた。了
『旅立ちに最適な放課後』