神霊界の秘密
プロローグ
地底の長いトンネルを抜けると、広々とした洞窟に出る。松明が辺りを照らす。黒々とした岩肌が湿気の為に、ぬめぬめと光っている。
「おい!、行き止まりじゃないか!」
鮫島が声を怒らして振り返る。小柄だが威厳が漂っている。彼の後ろに、1人、背のひょろりとした男と、2人の屈強な男が従っている。その後ろに、髪の毛を後ろに束ねた少女と、若者がいる。2人はスニーカーに作業服。
4人の男達は迷彩服の軍服と長靴のスタイルだ。屈強な男の1人が少女の腕を鷲づかみにして、鮫島の前まで力任せに引き出す。少女は鮫島よりも小柄である。色白で細面の顔を伏せている。
「おい!、お嬢ちゃん、行き止まりだよ。この先は!」
どうしたらよいのだとばかりに、口から唾を吐きだして少女を責める。
少女はうつむいたまま答えようとはしない。鮫島は少女の顎をしゃくり上げる。少女の顔が上を向く。
「やめてくれ!」若者が飛び出してくる。鮫島から少女を引き離す。後ろにかばって身構える。
彼は年の頃18,9。髪を真ん中から分けている。興奮して顔が蒼白だ。眼が大きく、頬がそげている。少女を守ろうとして、精一杯虚勢を張っている。松明の火で、陰影が陽炎のように揺れる。若者の表情は幽霊のように危なつかしい。
鮫島はせせら笑う。
「おい、松本、女から離れろ」余裕のある表情だ。屈強な男の1人に顎で合図する。男はかすかに頷くと、松本の肩に手をかける。
「判ったわ、手荒な真似はしないで!」
少女の凛とした声が響く。少女は松本を押しのける。鮫島と向き合う。
「飛神さん!」松本は驚愕の眼差しを少女に向ける。
少女の名前は飛神雪絵、15歳。つい先ほどまで、彼女は恐怖のあまり口を利かなかった。全身を小さくして松本にしがみついていた。
それが今―――殻を破り捨てて豹変している。驚いたのは松本だけではない。鮫島やひょろりとした男、鮫島の秘書の末次、2人のボデーガードも眼をむいている。
「この奥がパンドラの箱よ」
雪絵の体が急に大きく見える。指さした先は、黒いゴツゴツした岩肌だ。
「何だ、岩の壁じゃないか!」
鮫島は八の字眉の小さな眼を剥く。総髪の髪を撫ぜつける。顎髭をたくしあげる。ゆったりとした動作だ。それが自分の威厳を高める事を知っている。
「黙って見てらっしゃい!」
雪絵の底響きする声は、少女とは思えない。洞窟内にピーンと、弦を張ったように響く。鮫島は顎髭をピクリと震わす。小さな眼が宙を泳ぐ。
飛神雪絵は岩肌に手を押し付ける。
「満君」松本を呼ぶ。
雪絵は松本の手を取ると、固く握りしめる。あまりの痛さに松本は顔をしかめる。しばらくすると、痛みを感じなくなる。熱いものが雪絵の手を通して流れ込んでくる。全身が焼ける様に熱い。
「おお!」四人の男達から驚愕の声が漏れる。
雪絵の手が触れている岩が白く輝いてくるのだった.黒い岩肌が熱を帯びて輝いているように見える。真昼の太陽よりも明るく眩しい。手で眼を覆う。
光の輪が大きくなっていく。2メートル四方の岩の壁が白色の光輝を放っている。男達は恐怖の色を見せて後ずさりしている。白い光は雪絵と松本を包み込む。洞窟全体が眩しい光に包まれる。
やがて、光が薄れていく。
光が輝きを失う。元の闇に戻る。その瞬間、突風が吹きこんでくる。トンネルの奥の方に吹き込んでいく。松明が消える。4人の男は風にあおられて、地面にたたきつけられる。
雪絵と松本は平然と突っ立っている。男達は立ち上がる。ボデーガードの1人が松明に火をつける。
「おお・・・」男達は再び驚きの声を上げる。壁が消えているのだ。その奥に淡く銀色に輝く”部屋”が出現していた。
「これは・・・」鮫島が声を震わせる。
「パンドラの箱の入り口」飛神雪絵は悠然と答える。もはや少女の面影はない。不敵で老獪な表情を浮かべている。
銀色に輝く部屋は、ほぼ正四角形。歴然とした人工物である。大理石のように磨き抜かれて光沢を放っている。一辺の長さは約3メートル。雪絵は恐れる事もなく、中に入って行く。松本達も後に続く。
雪絵はそのまま歩くと、突き当りの壁に手を当てる。その壁が押し切られるように、鈍い音を立てる。壁は後ろに押されるようにして下がる。1メートル程下がったと思うと、引き戸でも引く様に、横に消えていく。壁が消えて、ぽっかりと黒い空間ができる。
鮫島は松明を掲げて、黒い空間を覗き込む。数段の石段がある。その下に空洞がある。
「パンドラの箱・・・」鮫島はオーム返しに呟く。
「そこには、あなたの求める物がある」
「わしの求める物・・・」
鮫島の心に浮かんだのは金銀財宝である。
「末次、一緒に来い!」
鮫島は末次に松明を持たせる。
「お前たちはここで待て」2人の屈強な男に命令する。
鮫島と末次の姿が消える。
「あなた達、ここで待っていてもいいの?」
飛神雪絵は可愛らしい顔で言う。あの2人に宝物を1人占めにされるとそそのかす。男達は顔を見合わす。不安の色が表れる。松明を手にすると、一目散に石段をかけ降る。
5分後―――闇の中から4人の男達の絶叫が響き渡る。
・・・パンドラの箱を開くと、多くの災いが飛び出した・・・
雪絵は歌でも歌う様に呟く。
凄惨な悲鳴が続く。松本は恐ろしさのあまり、声を立てる事も出来なかった。石段の奥で一体何が起こっているのか、想像すら出来ない。
「あの男達は、過去生で犯した業に苦しめられているの」
雪絵は平然と言い放つ。やがて絶叫はやむ。
「彼らは・・・、消えた」
飛神雪絵は松本の手を取ると、石段を下りる。手をかざすと、周囲の壁が金色に輝きだす。3メートル程の高さと幅の黄金色の壁が百メートル程続いている。4人の男達の姿はない。
壁は行きどまりとなる。
「ここから先が、私達のパンドラの箱」
飛神が手をかざす。黄金の壁が観音開きの様に開く。
その先は白色の光に満ちた空間である。飛神はしっかりと松本の手をにぎりしめる。歩を確かめる様に、ゆっくりと、光の中に入って行く。
―――パンドラの箱が、今開こうとしている。―――
放浪
松本は中学を卒業と同時に叔父の家を飛び出す。母の実家が愛知県常滑市。そこまで行こうと決意する。
松本の両親は、彼が10歳の時に交通事故で亡くなっている。孤児となった松本は、父の弟に引き取られる。
叔父は小田原市の小田原厚木道路の小田原東インターを降りた南にある、久保田鉄工所の孫請けとして、この地に根を張っている。 叔父夫婦は朝8時から夕方6時まで働く。
1997年(平成9年)、松本満が叔父夫婦の家を飛び出したとき、高校3年生の長男を筆頭に女2人、男2人の子供が6帖2間の和室と8帖1間の洋室にひしめいていた。
叔父夫婦は真面目で、松本の面倒をよく見てくれた。松本も学校から帰ると、叔父の仕事の使い走りや、元請け工場へ注文書をもらいに行く。一応ファックスで送られてくるが、形式上元の注文書をもらっておく。
叔父は高校まで通わせてくれると言ってくれたが、松本は辞退した。バブル崩壊後の大不況の最中、叔父の工場も人件費節減のために、3人いた従業員を解雇している。長男と高1の次男は、学校をから帰ると仕事を手伝っている。
松本は叔父に甘えて、高校に通いながら手伝おうとする気持ちがあったが、大して役に立つわけではない。
両親を亡くしてから、松本は叔父の家で寝食を共にして、叔父の苦労を見てきている。自分が叔父の家を出る事で、叔父の家計がずいぶんと助かる。子供心にもそれぐらいの事は判断できた。
中学卒業と共に、松本は叔父の家を後にする。叔父は餞別として10万円くれた。
・・・母の実家に行こう・・・叔父に自分の思いを伝える。
母の実家には母の兄がいると聞いていたが、会ったことがなかった。松本の両親の葬儀の時にも来なかった。文通や電話などもない。
「新幹線で行くか」叔父は電車賃を出してくれると言う。
松本はそれを断る。
「僕、歩いていく」叔父は驚いたが、何も言わない。日頃の松本は大人しくて従順であるが、いったん言い出したら言う事を聞かない、芯の強さを秘めている。
・・・急ぐ旅ではない・・・時間をかけてゆっくりと行けばよい。たとえ母にの実家に行ったところで受け入れてくれるとは限らない。
叔父の話では、両親の死後、叔父は母の兄に連絡を取っている。子供の満をどうするかという相談である。母の兄は”そちらに任せる”の一言であとは音信不通のままと言う。
だから母の実家に行ったところで、追い返される公算が強い。そのことは、子供心にも松本は理解している。養ってもらおうと思ってもいない。母の生まれ育った家を1度見てみたい。郷愁の気持ちが強くなっている。
・・・何も慌てていく必要はないのだ・・・
松本は16歳にしては大柄である。面長で髪を頭の真ん中で分けている。そげた頬が寂しく見える。作業服にスニーカー姿で叔父の家を出る。
国道1号線に沿って歩く。大平洋を見ながら歩けば、嫌でも三河湾にでる。
季節は4月。春うららのおだかな日が続く。1日歩いたら、2日ばかりバイトをして、休息をとる。工事現場、道路舗装など、日雇いの仕事ならある。民宿で一泊する。
1週間後、松本は駿河湾の田子の浦に入る。清水港を通り焼津港に入ったころには4月も下旬となっていた。いつまでに到着しなければならないと言う目的はない。
御前崎の海岸線を歩いて、浜名湖までやってきた。愛知県は眼と鼻の先だ。
天源教
JR東海道本線豊橋駅前で一泊する。当初浜名湖海岸から、海伝いに伊良子岬を一周しようと計画していた。5月に入り、雨の降る日が多くなる。海岸線を歩いてずぶ濡れになるのは困ると思って、東海道本線沿いを歩く事にした。これなら雨が降っても雨宿りできる所が多い。
豊橋駅前の旅館で一泊した。翌朝、バイトを捜そうと、周辺をうろつく。道路工事や日雇い工事もやっていなかった。仕方なく駅前の喫茶店で休憩する。マスターに、この近くでアルバイト先がないかを尋ねようと思った。
コーヒーを飲んでいると数人の若者が入ってきた。松本の隣に席を占めると、コーヒーを注文しながら、B4版を4つ折りにしたチラシをテーブルの上に載せる。
「まだ1万枚あるわよ。今日中にやれる?」
「まだ10時だもんなあ、何とかなるんじゃない」
年の頃は20歳前後、白のスニーカーに、スポーツジャケットを着こんでいる。
「1人当たり2千枚か、きついなあ」
5人の男女は顔を見合わせる。
喫茶店内は薄暗い。店の間口が2間、南側の入り口のドアを開けると、真ん中に通路がある。左右にテーブルが並んでいる。
松本は彼らの会話に耳をすます。。今日中に1万枚のチラシを配らねばならぬようだ。
「すみません」彼らの会話に割り込む。
「何でしょう?」リーダー格の男がいぶかし気に松本を見詰める。
「そのチラシ、僕がくばりましょうか」
松本は寂しそうな表情をしている。愛想笑いをしても、泣き出しそうに見える。
5人の眼が松本に集中する。
「あなた一体・・・」女の子の声が誰何する。
松本は頭に手をやりながら、今金がなくてバイトを探している。5千円くれれば有難いと話す。5人の表情が緩む。松本の事情を知って、リーダー格の男が話す。
「自分たちは豊橋にある、天源教豊橋支部に所属している。教義を広め信者を獲得する為に、チラシ配りをやっている」
「功徳の為にやっているんで、人に頼むわけにはいかないです」別の若者が口をはさむ。
バイトにならないと知って松本は失望する。
「一緒にチラシ配りをしませんか。仲間になってくれると有難い」
リーダー格の男は1人千円寄付しようと皆に提案する。他の4人は頷く。これで当座の生活費に宛てたらどうか。しきりに松本を引っ張り込もうとする。松本は5千円に眼がくらんでいる。1も2もなく同意する。
5人の車に乗せられて繁華街や住宅街、団地などをを回る。団地では1時間で3百枚、住宅街で約百枚、ポスティングする。夕方5時頃に何とか1万枚の配布が完了する。
「今日は教団で一泊しなさい」と言われる。
車は豊橋駅から北東方向にある神ヶ谷の郊外に向かう。東には遠州灘、西には渥美湾が遠望できる。
少し行くと、山の中腹を切り拓いた広大な敷地が拡がっている。百坪ほどの2階建てのプレハブが西の方に建っている。玄関先にはアーチ形の門がある。その天井に、丸の中に点を入れたマークがある。アーチ形の門の西側に、天源教豊橋支部と金色の文字で書いた立て看板がある。建物の北側の広々とした駐車場がある。平日という事もあるのか、人の気配がない。
駐車場に車を置くと、松本達はアーチ形の門をくぐる。玄関の引き戸を開ける。玄関だけで3帖程の広さがある。その右隣りは1枚1間幅もありそうな襖で仕切られている。玄関ホールの正面に事務所があり、受付の札がぶら下がっている。事務室の中で、女性が1人、熱心にワープロを打っている。
玄関ホールの左手に1間幅の階段がある。2段上がると千枚敷きの部屋である。
「こちらへ」リーダー格の男がその部屋に手招きする。
「ここが礼拝堂です」女の子が松本の耳元で呟く。
5人の男女は礼拝堂の入り口正面で正座する。両手を合わせて、しばし黙想する。両手を畳につけて平伏する。その姿に、松本は”ガマガエル”を想像する。
正面奥には黄金色に彩られた祭壇がある。
そこには等身大の男女の黄金像がある。男の方は髭を生やし、カールした髪に鼻梁が高く、彫の深い顔立ちをしている。女の方は肩まである長い髪が特徴だ。2体とも布を2つ折りにして肩からかけて、腰帯で締めている。
2体は顔をこちらに向け、片方の手を奥の神殿を指さし示す様にしている。奥の神殿には黄金の箱を手にした少女の像がこちらを向いている。2体の男女像と同じ服装である。顔立ちや服装といい、どう見ても日本の神様とは思えない。
「この御2人はね、ギリシャ神話の神様・・・」
リーダー格の男が説明する。男の方がゼウス、ギリシャ神話の最高神。女の方はその妻のセラ。
「奥の神殿に祀られているのはね、ゼウスが授けた箱を持つパンドラ」
「はあ?」松本は要領を得ない。リーダー格の男は優しく微笑する。
「パンドラの箱?」
松本は戸惑いの表情を見せる。大柄で高校生並みに見られるが、中学を卒業したばかりだ。
「僕、実は・・・」
松本は正直に話す。物心つく頃から仕事の手伝いをしている。叔父の家では学校から帰ると使い走りに精を出している。自慢ではないが、頭は良くない。学校の成績もビリから2,3番。ギリシャ神話やパンドラの箱の知識もない。
5人の若者は松本の正直さに好感を抱く。天源教の教義を説明しても仕方がないと思ったのか、それ以上話さない。1人1人の自己紹介の後、2階で夕食を摂る。
リーダー格の男は22歳。横山一男。
「私達フリーターなの」20歳の髪の短い女子が答える。
「ところで松本君」横山は親身に尋ねる。
駅前の喫茶店で何をしていたのか、もし心配事があるなら力になると言う。
松本は叔父の家を出て、亡き母の実家のある知多半島の常滑まで行く途中だと話す。
「歩いて!」
髪の短い女の子が呆れた顔で言う。
「住所や名前が判っているなら、電話してみたら?」
松本は首を横に振る。母の家に行くつもりはない。母の生まれた所を1度見ておきたいだけだ。その後の事は何も考えていない。
「気が向いたら、ここを訪ねてきて」
横山は涼し気な顔で松本を見ている。メモ用紙をわたす。そこには電話番号が書いてあった。松本は大切にポケットにしまい込む。
母の実家
天源教の道場で一泊する。翌朝横山達に再会を約して出発する。
松本は人生経験がないので、人の善悪ついて深く吟味する能力がない。それでも常識的な判断力は備えている。
一般的に、新興宗教の勧誘はうんざりするほどしつこい。日蓮宗系の某宗教団体も、2,30年前は朝駆け夜討ちみたいに、入信させるまで、5,6人連れが毎日のように押しかけてきたと聞く。
松本の叔父は優柔不断で人が好い。頼まれると嫌とは言えない。叔父は若い頃、色々な新興宗教に出入りしている。今もその名残がある。仏教系、キリスト教系を問わず、色々な宗教団体が入信の勧誘にやってくる。叔父の返事はいつも曖昧だった。だから勧誘はしつこさを増す。
松本は目の前でそれを見てきている。
・・・きっぱり断ればいいものを・・・
天源教の道場に連れてこられたとき、松本は叔父の事を思い出していた。入信するまで返してもらえないのではと不安を抱いていた。ゼウスだの、パンドラの箱だのと、ギリシャ神話の神々を崇拝している宗教だと言われてもピンとこない。たとえ仏教系であろうと、キリスト教系であろうと、教義を説明されても、全く理解できないのだ。叔父の家に押しかけてくる勧誘者は、子供向けの絵本を開けて説得しようとする。
横山は、松本が判らぬと首を横に振ると、それ以上追求しない。宗教の話も一切しない。松本の身辺の事をあれこれと尋ねては、アドバイスをしたり、別れ際、皆からお金を集めては、松本に餞別としてくれた。
・・・行くところがなかったら電話してくれ・・・
松本は横山に兄貴のような親しみと善意を感じた。
横山達の好意で懐は温かい。それでも常滑まで歩いていく事にした。5月で雨の日が多いが、幸い天気予報は快晴日が続くと報じている。
豊橋から蒲郡を抜ける。吉良吉田に入る。ここ一帯は海水浴場として有名だ。碧南市で一泊する。
明日はいよいよ半田市に入る。常滑とは目と鼻の先になる。海岸沿いに歩を進めると、いやでも知多半島についてしまう。
5月下旬、半田から武豊に入り、知多半島を横断して常滑に入る。松本の服装はグレーの作業服にスニーカー。着替えを持っているので、小ざっぱりした格好で旅ができる。これも叔父の計らいによるのもだ。
「乞食のような恰好をしていると、嫌われる」
叔父は小ぎれいな格好で人と接しろと教えてくれた。所によってはよそ者を白い眼で見るからだ。
母の実家は常滑市白山町2丁目。常滑市内のほぼ中央に位置する。市街地から離れて迷子になると、道行く人に尋ねる。朝、碧南市を出ている。常滑に入ったのが午後4時ごろ。白山町の母の実家近くに入ったのが5時ごろ。
南側に御嶽神社入り口と書いた看板がある。幅4メートルの道を東に登る。百メートル行くと、4,50戸程の部落に出る。
母の旧姓は大山。番地を訪ねながら1軒1軒丹念に標札を見て歩く。大山という姓はどこにもない。部落の外れで、北に登る道がある。20メートルも歩くと頂上に着く。その左手に6軒ばかりの住宅が密集している。その中の1軒、みすぼらしい家が眼につく。
叔父に教えてもらった住所が標札に書いてある。名前が内田となっている。妙な胸騒ぎを覚える。住所が間違っているのかな。松本は叔父のメモ書きの住所を確認する。
・・・間違いない・・・
どうしょうか、インターホーンを押すのがためらわれる。とは言うものの、長旅をして、ようやくたどり着いたのだ。意を決してインターホーンを押す。
しばらくして「はーい、玄関、空いてるよ」若い男の声が響く。玄関戸を開けて、おそるおそる中に入る。玄関の向こう側が和室になっている。ガラス戸を開けてワイシャツの男が現れる。背が高く、度の強い眼鏡をかけている。
「君、何?。何か用」女のような優しい声に、松本はホッとする。
「ここ、大山さんのお宅じゃ・・・」おずおずと尋ねる。
「君は?・・・」
松本は亡き母の実家がここだと聞いて、小田原から来たと話す。
「そりゃまあ、大変だったね」言いながら男は、この家は3年前に大山さんから購入したと言う。
「それじゃ」松本は落胆するが、すぐにも気を取り直す。
母の実家を外から見ればそれでよしと思っていた。名前が違っていたので玄関を開けてしまった。ここが母の生まれた所と判ればそれでよいのだ。松本は軽く会釈して玄関を出ようとする。
「大山さんの家なら、知っているよ。送ろうか」
男は気の毒に思ったのか、松本を引き留める。
「私、今から夜勤でね。丁度出る所なの」
作業服をひっかけると、松本を伴って外に出る。家の横手の駐車場から白の軽4を出すと、松本を乗せる。
男はこの町の大手製陶会社に勤務していると言う。大山は現在、御嶽神社の西側の丘陵地帯にある天沢院というお寺の近くの借家に住んでいると言う。
「君のお母さん、おいくつ?」
「生きていれば43歳」松本はしっかりとした口調で答える。
「それじゃ大山さん、君のお母さんのお兄さんかな。確か47歳と聞いているから」
松本は頷く。母の両親は松本が生まれて間もなく亡くなっていると聞いている。
内田の軽四は御嶽神社の入り口を通り越す。そのまま西に10メートル走ると、南北に県道が走っている。それを突っ切って西の急勾配の道を登る。登りきると、民家が密集している。道は20メートル先でL字型に曲がり、また西に向かう。右手に石垣があり、その上の垣根が天沢院の境内地となっている。
百メートル走ると、広場に出る。内田はそこで車を降りる。その東側に急勾配の歩道がある。北の方に続いている。道幅は2メートルぐらい。50メートル程歩くと、大きな屋敷の正面に突き当たる。その右手を歩く。ものの数歩行くと、突き当りに、築100年は建っているかと思うほどの古い1軒屋がある。その家の前に大きな工場があるが、荒れ果てている。
「大山さん、いる?内田です」
内田は玄関のドアを開ける。
「おーい」しわがれた声と共に、寝間着姿の男がガラス戸を開けて出てくる。無精髭が目立つ。髪の伸び放題。眼だけが炯々と光っている。
内田は小田原からお宅の甥御さんが尋ねてきたと言って、挨拶のそこそこに帰っていく。
母の秘密
松本は玄関先に突っ立ったまま、大山の無精髭を見ている。
「小田原から来たんか、まあ、こっちにお入り」
大山は仕方なさそうに和室に招き入れる。
男やもめに蛆が湧くという。松本は部屋に入るなり絶句する。布団が敷きっぱなし。缶ビールの空き缶が散乱している。和室は6帖と8帖の2つ。北側に台所、その横に風呂と便所がある。
大山は布団をめくりあげると、そこに松本を座らせる。
「夕食は?」大山の問いに、松本は腰を降ろしながら、まだと答える。
「インスタントカレーがあるから」それを作ってやると台所に駆け込む。しばらくしてカレーうどんを持ってくる。
「うどんしかなかったから」言い訳しながら、食べろとは言わずに自分が食っている。松本は出されたカレーうどんを黙って食べる。お腹が減っているのでうまい。
夕食後、大山は、松本に両親が死んでから今日までの経緯を尋ねる。松本は包み隠さずに話す。
「そうか、苦労したんだな」大山はしんみりとした顔になる。
「これからどうする?」
大山に問われて、松本は言葉に窮する。
中学を出たてで人生経験もない。職に就こうにも、つてもない。豊橋で会った天源教の横山の顔が浮かぶ。行くところが無かったら電話しろと言われている。
「実は・・・」松本は天源教の事を話す。
天源教の本部は飛騨高山にあると聞いている。ご神体はギリシャ神話の神様で、パンドラの箱とかを信仰しているという。教義なんか聞いても判らない。
「ほう・・・。飛騨高山ねえ・・・」大山は無精髭の大きな眼を天井に向ける。思いつめたように松本を見詰める。
「お前、お母さんから何か預かっていないか。遺品とか何かを」
突然何を言い出すかのかと、松本は戸惑う。
「別に何も・・・」
松本の両親は小田原で軽四の貨物で配送の仕事をしていた。住まいはアパートの一室。両親の死後、遺品を整理したが、預金通帳や衣類、日用品、雑貨以外何もない。
「しかし、何かあるだろう。よく思い出してごらん」
大山はしつこく迫る。松本は困惑する。
「どうしたの?」松本は思わず口に出す。飛騨高山の話が出たら、大山の態度が急変した。おかしいと思うのが当たり前だ。
言われて、大山ははっと我に還る。しばらく松本を見ていた。
「実はなあ・・・」重い口が開く。
天源教、飛騨、ギリシャの神々、それにパンドラの箱ときいて、心が動揺した。
「お前は、お母さんの生まれ故郷、飛騨に帰る運命かもしれん」大山は心の奥で確信したのだと言う。
驚いたのは松本だ。母の生まれ故郷が飛騨などと、今初めて聞いた。青天の霹靂とはこの事だ。
「母の故郷が飛騨って、どういう事」
今度は松本が大山を見詰める番だ。
「お前の母さんはな」大山は深呼吸する。
「飛騨高山で生まれ育った・・・」
高校を卒業してから常滑に働きにやってきた。友人の誘いだったと聞いている。ユニー常滑店の二階の衣料品売り場だそうだ。
「これが運命というんだろうな」
大山は天を仰ぐ。そして呟く様に言った。
その売り場に大山の母が働いていた。18歳だった松本の母は、明るくてはきはきしていた。大山の母に気に入られて、大山家の養子になった。
「養子といってもおじさんがいる」
叔父の大山と一緒にさせる為に、家に連れてくると言うのなら判る。
「わしなあ、そのころ、5年ばかり家に寄りつかんかった」大山は無精髭の中の白い歯を見せて笑う。
大山は高校を出ると、各地を転々として過ごしている。家には連絡もしない。生きているのか、死んでいるのか、両親は1人息子の気まま放題の生き方に愛想を尽かしていた。明るく、きびきびして、思いやりのある松本の母を養女として、入り婿をとって大山家の跡を継がせようとした。
ところが、それから4年後、大山がひょっこりと帰ってきた。地元の大手タイルメーカーの下請け工場で働きだす。人が変わった様に”真面目”になる。そうなると実の息子が可愛くなる。
松本の母は体よく追い出される。それでも彼女は4年間、お世話になった事に感謝していて、盆暮れには付け届けを忘れない。大山の家を出て1年目、結婚したとの知らせが入る。結婚相手には養女としての大山の姓を名乗っている。
「僕の母さん、ここに来る前は、どういう姓だったの?」
松本は実質的には大山家とは縁がないと知る。となると飛騨の母の家が知りたくなる。
「ひかみ・・・とか言っていたな」
「ひかみ?」
「飛騨の飛に神様の神」
松本は変な姓だと思った。
「ひは日、火で、太陽を表すそうだ。神は川上の上、つまり源と言うと聞いている」
「はあ・・・」松本は知識力がないので全く分からない。
大山は松本の戸惑いを無視して説明を続ける。
ひの付く姓は実に多い。肥田、氷川、樋口、久田、日高、平野、平田・・・、丹念に調べると、もっと沢山ある筈だ。ただ、ひの付く姓が全てが日や火に関連があるとは限らないが、飛神は元々、日上、ひの民族の大本。ひのつく姓は飛神から出ている。いわば家元みたいなもんだ。
松本は話が余りにも大きいので声も出ない。
「飛神悦子の話によるとね」
悦子とは松本の母の名前だ。
大昔、日の一族が日本を支配していた。その後にあま、あるいはあめと名乗る民族が日本列島にやってくる。彼らは争いを好まず、日一族と平和に暮らしていた。
やがて別の民族が武器を持って日本列島に乗り込んでくる。彼らはまず、近畿地方を制圧する。よって中津民族と呼ぶ。彼らは力でもって日本を制圧する。日やあま一族は彼らの奴隷になったりして下層階級の民として虐げられる。
日一族は日本各地に散っていく。だが飛騨の飛神一族は2千年以来、日の民の崇拝を受けてきた。
戦国時代になって、日一族への崇拝の念が忘れられて現在に至る。今では飛騨地方の一部で細々と生計を立てているに過ぎない。
「お前の母さんも身を養う職がないので、つてを頼って常滑に来たと言う訳だ」
「僕、飛騨へ行く」松本は断言する。
飛騨へ
大山の話を聴いていて、今まで知らなかった母の姿がクローズアップする。
松本の両親は配送の仕事で、朝が早く、夜が遅い。親子の会話もほとんどない。
母は大山家を出た後、名古屋に移り住む。そこで父と出逢って結婚している。何処にでもいる平凡な人間、それが松本の両親、特に母は何の取柄もない平々凡々の人生を送っていたと、松本は信じていた。
母の口からは飛騨の事は一言も出ていない。
・・・飛騨・・・日本のひの姓の大本の一族という。そんな由緒のある家柄ならば、誇らしく息子に語っても良い筈だ。
・・・母の生まれ故郷に行けば、何か判る・・・
飛騨の母の生まれた家は、大山が知っていると言う。
「よし、そんなら一緒に行ってやろう」
大山は胸を叩いて引き受ける。
一日中歩いている。夜九時ともなると、猛烈に睡魔が襲ってくる。大山と一緒に風呂に入り、前後不覚に眠り込む。
翌朝、大山は松本を連れて常滑市内を案内する。飛騨へ行くなら、俺は四,五日滞在するつもりだと話す。今は五月下旬なので、家賃も払っておく。資金も用意して、準備万端整えてから出発したい。二,三日ゆっくりしてから出かけると言う。
松本は黙った聞いている。何もわからないから大山を信じて任せるしかない。
「家を売ったろう、その金がたんまりあるんだわ」
大山や豪快に笑う。大手タイルメーカーの下請工場はやめている。毎日が日曜日だ。暇つぶしに飛騨に行くのも面白いと愉快げに口泡を飛ばす。飛騨に心が飛んでいるのは、松本より大山かもしれない。
二日たち、三日目となる。常滑市内のめぼしい所を案内してくれるが、興味のあるところはない。人口密度から言えば、小田原の町の方が大きい。色々な施設も充実している。
この頃、平成9年は常滑沖での飛行場建設にはまだ拍車がかかっていない。町の通りは活気がない。夜8時ともなると一杯飲み屋の灯も消える。隣町の半田市、武豊町にも案内してもらうが活気がある。同じ知多半島なのに、こうも人の動きが違うのかと呆れるばかりだ。
4日目、大山と軽四で出発する。彼は自宅を売り払ったお金がたんまりとあるという事で身一つである。携帯電話一つだけが彼の持ち物のようだ。
松本は小田原を出る時は着替えだけを持ってきた。叔父から餞別の10万円は手付かずである。職もないし、つてもない。お金だけが唯一の頼みの綱なのだ。
それに幼い頃、母にもらったお守り袋は肩身放さず持ち歩いている。大山から、母からの遺品はないかと問われた時、差し出そうと思った。だが心の奥底で押しとどめる声がした。松本は首を横に振った。
大山の白の軽四は古い。メーターを見ると8万キロを超えている。こんな車で飛騨まで大丈夫かな、松本は心細くなる。
「車が壊れたら、その時はその時だわな」大山は豪快に笑い飛ばす。
車は知多半島の海岸沿いの工業地帯の産業道路を走る。知多半島の中央を走る有料道路を走った方が早いと思うが、無駄な金を使うこったないと、無精髭の大山はにべもない。
朝八時に常滑を出発。
「ちょっと、寄っていくから」といって名古屋市瑞穂区の市大病院前の喫茶店に車を駐車する。
「お前はお茶でも飲んどれや」松本に命令口調で言う。
「マスター、1時間ばかり、すまん」
大山は大柄でいかつい体格に似ず、両手でカウンター越しのマスターを伏し拝む。マスターは笑って頷く。お互い顔見知りのようだ。大山はそそくさと喫茶店を出ていく。松本は所在なさげにコーヒーを飲む。大山から渡された道路地図とにらめっこする。
飛騨高山は国道41号線上、下呂温泉の先にある。地図を見ると高山市と飛騨高山とは別である。飛騨高山は標高723メートルの山だ。
「大山さんと、これからどこかへ出かけるんですか」
マスターはカラスコップを拭きながら、にこやかに声をかける。店内は5つほどの座席しかない。カウンターが4席。客と言えば年配の夫婦連れが2組だけ。
問われて松本はどぎまぎする。質問に答えてよいのか一瞬戸惑う。
「飛騨高山・・・」少年らしく素直に答える。
「大山さんはよく飛騨にいかれますね」
マスターは笑いながら答える。話の場を繋ぐために、何気なく答えたのだろう。しかし、松本の体に戦慄が走った。
「大山さんはよくここへ来るんですか」大山の事が気にかかる。
「1か月に4,5回ぐらい。この近くに知り合いの人がいてね。よくここを利用してくれます」
松本は黙ってマスターを見る。
「あなた、まだお若いようですけど、大山さんとは親戚・・・」
松本の頭の中は目まぐるしく動いている。何故か不安でいっぱいになる。マスターの質問に答える余裕さえない。
松本が黙っていると、マスターは矛先を一組の老夫婦に向ける。孫がどうの、子供の仕事がどうのと質問ばかりしている。人に物を聞くのが好きなようだ。
松本は再び地図とにらめっこする。心も落ち着いてくる。 「すまん、すまん」大山が散髪をした事のないような頭をペコペコさせて、喫茶店のドアを開ける。
一瞬、松本は腰を上げるのをためらう。大山の罪のない破顔を見て立ち上がる。
車は県庁前を通過して小牧市に入る。犬山城を左に見て、木曽川を渡る。美濃加茂市を走り抜ける。一路国道41号線をひた走る。
喫茶店のマスターが言ったように、大山はよく飛騨に行くらしい。知り尽くした道と言う感じで、迷いもなくアクセルを踏んでいる。
「どうだ、お腹はすかないか」「小便はいいか」
荒々しい表情に似ず、優しい気づかいだ。
飛騨部落
午後1時、下呂温泉に到着。道路事情は良いとは言うのの、軽四のポンコツである。曲がりくねった登り坂を走る。松本はハラハラしている。運転席の大山は平気の平左。エンジン音がかしましい。スピードも出ない。出発して3時間ぐらいで下呂温泉合掌村で昼食を摂る。
けばけばしい観光の看板が目立つ。昼食もそこそこに出発。
「お前の母さんの故郷に直行する」大山は怒鳴るような声で言う。
国道41号線は飛騨川に沿って蛇行している。下呂を過ぎると温泉場への案内看板の他目ぼしいものはない。川沿いの道は、一方が山の斜面にせり出している。うっそうたる樹木が、昼なお暗い影を落としている。
萩原町に入る。JRの上呂駅がある。
・・・下呂があるから上呂があるのか・・・
松本は妙な事に感心する。
上呂を2キロ程登ると、道は2手に別れる。右に曲がると41号線、飛騨川に沿って国道が北上している。
左手の道を入る。飛騨川に流れ込む支流沿いに走る。山之口川といい、流れが急になる。せせらぎの音も騒々しい。車の往来も途絶える。
10キロ程北上する。前方に”光と風の道”位山という看板が目に付く。その遙か前方に聳えるのが位山。標高1529メートル。
ここは太古、日本の神都があった所と言われている。神武天皇東征の折り、位山の神々が神武天皇に日本支配の位を授けたところから、以来位山と称した。
大山はよく喋る。松本を飽きさせないとの思いやりなのか。それとも性格なのか、のべつなしに喋る。
位山の近くにキャンプ場がある。夏には若者たちのキャンプで賑わいを見せる。
キャンプ場から左折する。道幅3メートルしかない。
道路と言っても砂利道である。2キロ程行くと、左手に位山の壮大な雄姿が覆いかぶさるようにして迫ってくる。道の周囲は雑木林だ。しばらく走ると、忽然と視野が広がる。山之口川に流れる支流が清流をたたえて流れている。その奥に、位山を背にして数十軒の民家が軒をせめぎ合う様にして建っている。
「昔は、ここは山また山の中だったんだわ」大山は言う。
部落の前の広場に車を置く。
大山は”慣れた”足取りで部落に入って行く。どの家も大きい。中2階の建物で瓦葺きだ。1柱の電柱から数軒の家にたこ足配線の様に、電線が垂れ下がっている。
「おーい、連れてきたよ」大山は1軒の家に案内も乞わずに玄関の引き戸を開ける。中は薄暗く、窓が全部閉まっている。玄関の入り口は8帖程の三和土。右側に納屋がある左は8帖の和室が田の字型に並んでいる。襖は開け放しで、和室の真ん中に黒光りした大黒柱が威容を誇っている。天井は梁がむき出しで黒ずんでいる。
和室の奥に部屋がある。板戸が開いて「おーい」間の抜けたような声が聞こえる。白髪の老人が姿を現す。ねずみ色の作業服を着ている。おちくぼんだ目と、抉り取ったような皺が相当な歳を感じさせる。
「お前の母さんの父親だ」
松本はその声に老人を見る。
「僕のおじいさん・・・」
老人は歳の割にしっかりとした足取りで和室の上り框まで歩いてくる。松本を見る目は何とも言いようもない程悲しい。
「悦子によう似とるのう」
「まっ、上がらしてもらいますわ」大山はさっさと、座敷に上がり込む。松本もスニーカーを脱いで畳の上に正座する。
大山は胡坐を組んでいる。老人は重たげに腰を降ろす。部屋の中央にはテーブルがある。その上に湯飲み茶椀や魔法瓶が置いてある。大山は湯飲み茶椀を3つ並べて朱泥の急須にお茶ッ葉を入れて、魔法瓶から湯を急須に入れる。湯呑茶椀にお茶を入れる。
老人とはよほど親しいのだろう。無遠慮な動作だ。「飛神さん、確かにお孫さん、渡したよ」
大山やお茶を飲みながら、1人勝手にしゃべっている。老人はうんともすんとも言わない。松本をじっと見ている。
「お前、名前は?」
「満です」
「歳は?」 「16・・・」松本は、はきはきと答える。
「ほう、大きいな、わしはもう、高校3年ぐらいと思っていたわ」
老人は眼を細めて紅顔の松本を見ている。
「ところで、飛神さんよう」 大山が2人の間に割り込む。
「位山の地底に眠ると言う、お宝の話を聴かせてもらえんかねえ」老人の顔を覗き込む。
「その話は・・・」老人は渋い顔をする。
「しとうないだわ」
老人は煤けた天井を見上げる。次につっと立ち上がると、和室の南側の一間ある広縁の雨戸をあける。暖かい空気と光がさっと入ってくる。一瞬眩しい明るさが眼を射る。
老人はテーブル端に腰を降ろすと、
「位山の地の底には何もねえ。たとえ・・・」大山をきっとにらむ。
あったとしても、ひ一族の者以外入ることは許されないと言い切る。
大山は顔をしかめて舌打ちする。
「とにかく、坊主は連れてきてやったからな」
それだけ言うと、ぷいと外に飛び出していく。松本はあっけに取られて大山の跡を追う。
「僕は?」1人取り残されて、どうしたらよいのか判らない。
「お前はここに残れ」言いながら車で去っていく。
老人は開け放した窓から松本を見ている。
「わしらと暮らせ。ここがお前の家だわ」
松本は意外な展開に困惑の表情を浮かべる。
天源教飛騨本部
「あいつ、気が短いんだわ」飛神老人は驚いた様子を見せない。毎度の事らしい。喉を鳴らしてお茶を飲む。
「大山から何か言われたか」老人の言葉に、松本は亡き母から何か貰っていないかとしつこく尋ねられたと答えた。
「それで。。。」老人の眼がギラリと光る。
何も貰っていないと話す。老人は眼尻を下げて、頬の筋肉を緩める。頬のそげた松本には頬の豊かな人がうらやましい。
「僕、小さい頃、母からお守りをもらっています」
・・・自分のおじいさん・・・親しみが湧いている。内ポケットに収めたお守り袋を取り出そうとする。
老人はそれを制する。
「お守りは人に見せたらあかん。いつか開ける時がくる」
飛神老人はお茶を飲み干すと、上り框においてある受話機を取り上げる。
「おい、わしじゃがなあ、孫が来たんじゃ、雪絵ちゃんはおるかな」
電話で何やらごそごそ話をしている。
「じゃ、祠の前で待ってるわ」受話器を降ろすと、
「外に出るぞ」命令口調で言う。
松本は慌ててスニーカーを履いて、老人の後を追う。外に出ると北の方に歩く。
前方には円錐形の山が聳えている。部落から一直線に道が続いている。周囲は麦の青い穂が風に揺れている。山まで、距離にして5百メートルぐらいしかない。道が途切れた所に、粗末な木の鳥居がある。その中は10坪ほどの空き地となっている。その奥に小さな祠が鎮座している。
老人は祠の前まで来ると、一礼して四拍する。最後に一礼する。松本も見習う。
「おじいちゃん」背後で声がする。びっくりして振り返ると、おかっぱ頭の女の子が立っている。セーラー服がよく似合う。色白で細面の顔をしている。目鼻立ちがくっきりしている。体が小さい。
「雪絵ちゃん、紹介しょう。わしの娘の忘れ形見じゃ」
松本は軽く頭を下げると、自己紹介する。
「わしは、ちょっと用事があるから、2人で遊ぶがええ」
老人は言い残して帰ってしまう。
2人きりになると、飛神雪絵は物珍しそうに松本を見上げる。
「へえ、中学を出たばかりなの、随分大きいね」
雪絵は無遠慮に声をたてて笑う。
「私、今年中学に入ったの」
松本は驚く。小さすぎて、まだ小学生かと思ったが、声には出さない。
「飛騨は見る所が一杯あるよ。案内しようか」
雪絵のはしゃぎ声に、松本はふと、豊橋での天源教の事が頭に浮かぶ。本部が飛騨高山にあると聞いている。
「天源教って知っている?」
「知ってるよ」雪絵は勝ち誇ったように笑う。
この近くなら行ってみたいと話す。
「位山のね、反対側にあるの。すぐだから行こう」
飛神雪絵は松本の手を取ると、鳥居の東の方へ歩く。位山の周囲には獣道がある。人1人が歩くのにやっとの道幅しかない。雪絵には慣れた道なのだろう。どんどん歩いていく。手を取られながら、松本は必死でついていく。
30分ぐらい歩くと、位山の反対側に出る。遠くに円錐形の青い建物が見える。
「あれがモンデゥス飛騨位山スノーパークよ」
雪絵は指をさしながら答える。冬はスキー場、その他の季節には喫茶、食堂、名産品の販売を行っている。
「ほら、こちらが天源教の建物」
西の方、指さす方を見ると、黒塗りの6角形の建物が見える。入り口らしき所にアーチ形の門が建っている。その天井に丸に点を入れたマークが金色に輝いている。アーチの両側に天源教の文字が金色に輝いている。
建物の南側に位山がある。北側は広大な駐車場である。今日は平日のためか、車は6台しか駐車していない。
「日曜や祭日はね、すごく賑やかなの、車だって100台位あるの」
飛神雪絵は松本の手を握りしめたまま、天源教の方へ足早に歩いていく。アーチ形の門をくぐる。玄関に入る。畳2枚程の玄関脇の下駄箱に靴を入れて、スリッパを履く。
正面に受付がある。カウンターの奥が事務室で、紺の制服を着た女性がワープロを打っている。左側、玄関脇に階段がある。右側には百畳敷きの礼拝堂がある。その奥が祭壇となっている。祭壇は黄金色である。そこには等身大の男女の黄金像がある。彫の深い顔立ちや、女の長い髪、布を2つ折りにした衣服を着ているところまで、天源教豊橋支部と同じだ。2体の神像の奥に、黄金の箱を持った少女の像が鎮座している。それも全く同じだ。その少女の顔つきが飛神雪絵と似ていると、松本は思った。
雪絵は受付のカウンター超しに声をかける。
「浅井さん、教祖さんいる?」
お互い顔見知りらしい。受付の女性は肩まである髪を後ろに払うと、にっこりと頷く。
「お呼びするわね」いいながら室内電話を取る。すぐにも応答がある。
「2階の応接室にいらっしゃいって」
飛神雪絵は松本の手を取ると、事務室前の廊下を小走りに歩く。奥は意外に深い。来客用のトイレ場がある。風呂場もある。奥の突き当りに階段がある。雪絵はトントンと軽い音を立てながら上がっていく。
2階の踊り場はそのまま廊下になっていている。東側が信者用の大広間、西側に4つの部屋がある。その1番北側の部屋に応接室の標札が掲げてある。廊下にスリッパを脱ぐ。部屋と廊下の間には幅60センチばかりの框がある。
部屋の襖を開けると、10帖の和室に大木を輪切りにしたテーブルがある。朱塗りの光沢が照明の光を反射して、ピカピカに輝いている。その一角に2人の男が雑談をしている。
雪絵の顔を見ると「お久しぶり、ここへきて、お座り」にこやかに声をかける。
「こちらが教祖さん」雪絵はテーブルの側にペタンと腰を降ろすと、松本に紹介する。
「私、教祖の鮫島です」深々と頭を下げる。八ノ字の眉に顎髭を生やし、髪は総髪である。小柄ながら威風が漂ている。寛いだ格好で紺の半纏を羽織っている。
松本はびっくりする。中学での子供に対して、馬鹿丁寧な挨拶なのだ。
・・・実るほどに、首を垂れる稲穂かな・・・学校の国語の時間に習った句が浮かぶ。
「私、末次と申します」
もう1人の男は背が高い。お互い腰を降ろしていても、体の大きさは一目瞭然だ。鮫島は座っていても小柄だが、末次はサッカー選手のように大きい。
その末次は細長で眼や口が大きい。顎も張っている。側の教祖の威を憚ってか、借りてきた猫のように大人しい。
「雪絵ちゃん、今日は何かな。お菓子なら、下の浅井さんにもらってね」鮫島の声は女のように優しい。
雪絵はかぶりを振る。
「松本君がね、今日位山に来たの」
「ほう」鮫島の八の字眉は妙に人懐こい。人を食った顔つきではない。子供の雪絵と同じ立場に身を置いて対座しているのだ。
「松本君ね、おじいちゃんの娘さんの子なの」
「それはそれは・・・」鮫島は笑うと、あふれるような愛嬌がある。
「それでここに遊びにきたの?」
末次が浅黒い顔を口一杯にして横やりを入れる。笑うと白い歯が美しい。
「違うの、松本君が来たいって言ったから連れてきたの」
鮫島と末次は眼を丸くして松本を見詰める。
「実は・・・」と断って、松本は豊橋での天源教の信者との出会いを話す。横山には随分世話になった。もし行くところが無かったら、電話をくれとか、飛騨へ行く事があったら、天源教の本部を訪ねてみろとか、言われた。
「ほう、横山君がなあ。殻は6月の祝例祭にこっちに来る事になっているよ」
鮫島はくだけた調子で話をする。
「連絡しとくから、会うといいよ」末次が白い歯を見せる。
パンドラの箱
「実は、お聞きしたい事が・・・」松本は正座したまま教祖を直視する。飛神雪絵は目の前の茶菓子を頬ばっている。
豊橋の天源教支部で、ご神体がゼウスとその妻セラ、その奥にあるのがパンドラの箱と聞かされた。本当はもっと聞きたかったけど、自分をまだ子供だと思って、教えてくれなかった。
「パンドラの箱って何ですか。聞いた事があるような気がしますが」
鮫島はにこやかに松本を見ている。
「君が聞いたっていうパンドラの箱ってどういうの?」
松本は学校の先生から聞いたと言って断る。
原子爆弾が発明された時、人間はパンドラの箱を開けてしまったと聞いている。パンドラの箱の中にはいろいろな災いがいっぱい詰まっていて、箱を開けたために人類は不幸に見舞われる事になった。ただ、最後に”希望”が飛び出した。
「全くその通りだよ」鮫島はよく知っているねとばかりに、松本をほめる。
「それではね、ギリシャ神話ではパンドラの箱はどういわれているかは話そうね」
鮫島は子供に判りやすくと、以下のように話す。
――パンドラとはギリシャ神話で人間に与えられた最初の女。
プロメテウスが神の火を盗んで人間に与えたのが原因で人間は安逸になり高慢になった。その人間を罰する為に、ゼウスは火神ファイストスに、土で人類最初の”女”を創らせる。アフロディテがこれに”美”を授ける。ヘルメスが”大胆”と”奸策を授ける。全ての神々が何かの”能力”を授ける。
そこで彼女はパンドラ(一切の福)と名づけられる。この女がプロメテウス(先思)の弟エビメテウス(後思)に与えられる。
パンドラは神々から玉手箱をもらってきた。箱の中には人間のあらゆる不幸と悩みが詰まっていた。パンドラは好奇心からふたを開ける。こうして人間界に不幸が拡がった。箱の底に残っていたのは”希望”だけであった。
松本は眼を真ん丸にして聞き入っている。こんな話は生まれて初めて聞く。新鮮な思いが心に拡がる。
「しかしね、パンドラの箱はギリシャ神話より古いと言われていてね・・・」
――パンドラの本当の起源は”一切の良い物”を生み出す女神(大地)にあると言われている。古代の瓶の絵に、地面からせり出してくるパンドラを表現している物が多数見つけられる―――
松本は面白い話だと思った。問題なのはどうして、パンドラの箱が天源教の崇拝の的になっているかなのだ。それを聞こうと思ったとき、飛神雪絵がもう帰りたいと言い出した。松本はやむなく腰を浮かす。
「では、どうしてギリシャ神話の神様が・・・」
松本の口をついて出た言葉だ。彼自身予期していなかった。無意識の内に飛び出した言葉なのだ。
「日本神話の原点がギリシャ神話にあるからなんです」鮫島が答える。
雪絵が立ち上がったので、玄関先まで送ろうと、鮫島や末次も立ち上がる。その時、松本は鮫島を見る。中学しか出ていない子供でも奇想天外な説だと言う事は判る。
鮫島はそれ以上何も言わない。彼は雪絵の手を取ると玄関先まで先導する。彼女は無邪気に、受付で和菓子をもらうと、真っ先に玄関を飛び出していく。松本は後を追う。鮫島と末次は2人の後姿を見送る。2人とも笑顔を絶やさない。
飛騨
飛神雪絵は後を振り返らない。紙袋に入った和菓子を1つ、口に頬ばる。
「はい、食べて。美味しいよ」1つ松本に差し出す。松本は菓子を口に入れる。甘い香りが口いっぱいに広がる。歩きながら「すごく親しいんだね」松本は声をかける。
「えっ」雪絵はおかっぱ頭で見上げる。一瞬、松本の言う事が呑み込めなかったらしい。
「ああ、教祖さんね」
雪絵は口をもごもごさせている。菓子を食べ終わると、
「だって、あの土地、飛神家が貸しているの」
雪絵の説明はこうだ。
雪絵が生まれた年に、突然、鮫島大造と名乗る男が飛神部落に現れた。位山の北側の土地、約1万坪を売ってくれと言い出す。値段も手ごろだった。
松本の祖父、飛神善蔵は先祖伝来の土地は誰にも譲らぬと、はねつけた。鮫島はそれでもあきらめない。
何度も掛け合いにやってくる。
鮫島は背も低いが、腰も低い。女のような声で、地面に頭をこすりつけるような態度に出る。飛神善蔵は拒絶するが怒るにも怒れない。
とうとう我をを折って、売ることは出来んが、これこれの地代をくれれば貸しても良いととの妥協案を出す。
天源教の建物が完成したのはそれから2年後。建物や設備は大きい物だ。建設費だけでも1億はくだらないとの評判だった。
天源教は当初、豊橋にある支部が本部だった。それを位山に持ってきたのだ。
「教祖さんはね、いつも飛神部落に来てくれるの。私もよく遊びに行ったの」
飛神雪絵は大きな眼をくりくりさせて喋る。喋りながらも和菓子にかぶりつく。松本も2つ、3つと口に入れるが、食べ過ぎると甘ったるくて、喉を通らない。
丁度そんな時に、位山の祠の前に到着する。祠の後ろの黒い岩肌が露出したところから清水が湧いている。雪絵を見習って喉を潤す。実においしい。
夕方、飛神善蔵の家で飛神部落一同の者が寄り会う。総勢20人、子供は雪絵と松本のみ。後は雪絵の両親と祖父母、年齢的には40代から70代。
「皆、わしの娘の忘れ形見が帰ってきた。」飛神老人は落ちくぼんだ目で周囲を見回す。
「今夜は久し振りに、一杯やる」
老人の言葉に、一同大きく頷く。
昔は数百人いたと言う。年々人口が減っていく。若い者は都会に憧れて出て行ってしまう。
多分・・・、老人は酔った顔で、雪絵と満がこの部落の最後かもしれん、と熱い嘆息をついて呟く。
この夜を境に、雪絵と松本は1つ屋根で暮らすことになる。雪絵は久々野の町の学校に通う。約8キロの通学に、自転車での通学が許されている。学校は2時半に終わる。3時には帰ってくる。
「お前たちはこれから2人で1人だ」飛神老人は謎めいた事を言う。
古代の言い伝えがある。”ひの神殿”の扉が開く。そこに行けるのはひの一族の一組の男女のみ。
飛神老人は2人に言い聞かせる。
「ひの神殿を、パンドラの箱だと言うのだよ」
老人は口を一文字に結んでから「鮫島だわ」ぷっと吐き捨てる様に言う。
雪絵が学校に行っている間、老人は松本を連れてあちらこちらを案内する。
東日流外三郡誌出てくる荒吐一族の国を日高見という。
日高見とは古代日本の美称であった。
大祓の祝詞に―――大倭日高見の国を安国と定めたてまつりて―――とある。
この美しい国も、八世紀に成立した日本書記では、景行天皇の条、竹内宿祢の”奏言”にあるように、未開の野蛮な蝦夷の住む国の名とされる。
まさに”撃ちて取りつべし”侵略の対象となる。
10世紀初頭に作られた延喜式、巻八にある大祓の祝詞の立案者達は日本書記の内容を承知していた。にも拘らず、日高見を日本の美的、宗教的国号とした。
日高見はヒタカミ。
ヒタは日本国の先住民の居住地の総称である。元々は平(日来)で、それが転下してヒタとなる。タは田のタと同じで、土地を表す。
ラはヒが現象の世界に現れて持続される事を表現する。ヒタの語源ヒラはひの民族が遠い昔から、ずっとこの地に現れて支配し続ける事を現している。それがいつしかヒタになる。
よってヒタは、ひの民が一定の土地(地域)に根付き定着していく概念を表している。カミは始原、ヒタカミとはひの民の発生した土地、その根源の地域一帯を言う。
柳田国男の実弟で、言語学の松岡静雄は、ひの民は、”き(紀)、中津民(後の天皇族)や、あま(天孫族)”よりも、はるか以前に日本に定着していると解した。
ひの民の居住地域は、ひの国と称した。
一説によると、ヒタに場所を意味するカをつけてヒタカ(日高)、さらにヒタに族長をつけてヒタカミ(日高見)という説もある。
族長のカミは祖先神カムイからきているとも言う。
南は九州、壱岐、対馬から中国、近畿、中部、関東、東北と、多くの地域にかけて、ひのつく地名が点在する。日高、日田、日野、飛騨など、ヒの地名(シラ、シナなども含む)を追っていくと、ひの民は日本列島をあまねく支配していたのである。
本居宣長の師、賀茂真淵がうたうように、―――天つ日の空の真秀に高くある―――美しい日本の国だった。
余談だが古代富士山は日高高地火の峰名づけられていた。
ひの国の中で、飛騨高山は、太古、世界の中心地いわゆる神都であったとの説が出ている。
昭和11年9月、酒井勝軍なる人物が―――飛騨の語源は日球であり、太古日本の中心地であったと述べる。
彼はその2年前に、日本各地に点在する、日本式ピラミッドを発掘している。エジプトのピラミッドの原型は日本にあると主張して世人を驚かせている。
彼は高山市内に現存する巨石群を観察している。それを機に大石田町西ノ一色にある廻り洞丘や上野平にある巨石群を発掘して、これらがすべて16個を以て正しく方位に即した正円形であるとみなす。その中心に太陽石を見つける。
――上野平の磐境を中心として、廻り洞の巨石群と越中に立山とが一直線上に並んでいる。同時に廻り洞の巨石群は月の世界即ち外宮、上野平の巨石群は日の世界即ち内宮である。
立山山麓の皇祖皇大神宮と直線状に結ばれている。以上
この2か所の巨石群こそは実に約1里(約4キロメートル)に渉る一大平面ピラミッドである――
実に5万年前に造営された平面ピラミッドであり、日本最古、いや世界最古のピラミッドであると、酒井は宣言したのである。
こうした酒井のピラミッド研究に触発され、影響を受けた人物に、元帝国陸軍砲兵大佐という肩書を持つ、上原清二がいる。彼は上野平を中心とする平面ピラミッドの実証探査に参加する。酒井の確信に満ちた推理と論断に接して、熱心な酒井信奉者になる。後に”世界の神都飛騨高山の著をあらわす。飛騨高山方面におけるピラミッド研究の第1人者となる。
位山
上原は日輪神社、位山、乗鞍岳、船山、見量山と探査を続ける。彼の意図は太古の超古代文明を復権して、神武以前の太古日本の真実を明らかにすることにあった。
高山市の南ににあり、飛騨の一の宮である水無神社の鎮座地として知られる宮村から、西南の方向に向かって位山に登っていく。中腹の刈安峠にさしかかると、おびただしい量の巨石群が眼につく。その登りの途中で平面上の岩を発見する。
現在は位山国際スケート場のリフトの鉄塔近くにある。長さ6メートル、幅4メートルもの岩が、きれいな階段状になって鎮座している。上原はこれを祭壇石と名付ける。
さらに本殿があったはずの山頂に登る。見晴らしの良い高台に出る。そこでも2間(3.6メートル)四方の巨石群を発見。大きい物は幅13尺(約4メートル)、長さ14尺(約4、2メートル)もあった。上原はこれを御神殿としている。
現在は原型が失われて不明である。
それは位山の最南端にあり、最後部にあって最大の巨石だったのだ。その他、幅20尺(約6メートル)高さと厚みが共に12尺(約3,6メートル)の巨石がある。鏡石ととみられ、往時は太陽光を反射して荘厳であったと想像される。その他その下に4個の石を寄せ集めた形の遺構も発見する。
以上が上原が発見した位山ピラミッドである。誰が建造したのか、知ることは出来ない。
ただ――、飛騨の国主、姉小路基綱が書き残した”飛騨八州和歌集”の裏書に驚くべき文面が認められている。
位山の主は、神武天皇へ位を授くべき神なり。
身一つにして顔二面、手足四つの両面四手の姿なりという。
天の叢雲をかき分け、天空浮舟に乗りて、
この山のいなだに降臨し給いき。
この山におきて神武天皇に位を授け給う。
故に位山という。船のつきたる山を船山とはいえり。
飛神老人は松本を連れて、飛騨高山のあちらこちらへと案内する。老人は太古の日本は飛騨高山が日本の中心地だったと言いたかったのであろう。眼孔が落ちくぼんでいるが、炯々としたその輝きは熱に浮かされたように遠くを見ている。
大昔、日本を支配していたのは、ひの一族だと言いたいのだ。飛神老人の気迫に満ちた話を聴いていると、血がたぎるのを感じる。松本は、自分の体の中に、ひ一族の血が流れているのを自覚する。
――神武天皇に日本国の支配権を譲り渡した、と平和的に移譲が行われたように思われがちだ。
長い間、営々と営んできた支配権を、ここに住むから譲れと言われて、はいどうぞと言えるか。
日本神話、女神と言われる天照大神の国譲りは、円満に行われたように書いてある。
――歴史とは勝者の記録である――
戦争に勝った者が負けた者を鬼として蔑められる。
歴史は勝者の都合のよいように書かれる。飛騨高山の位山の神武天皇への国譲りも同じである。
両面宿儺伝説
飛騨高山には、飛騨八所和歌集の裏書きとは相反する伝承が伝わっている。
高山市内の北方、丹生河村下保にある千光寺の縁起として伝えられる。両面宿儺伝説である。
―――はるか昔、千光寺の東方にある大谷の日輪神社の近く、出羽ヶ平の洞窟から身の丈1丈もの怪物が出現する。両面宿儺である。驚いた村人達に向かって、宿儺は世にも美しい声で告げる。
「我は魔怪にあらず、救世観音の使現なり。汝ら、恐れるなかれ」
村人はその美しい声に魅入られ、口上の意味を理解して安堵する。以後両面宿儺を崇拝する。
日本書紀による両面宿儺伝説。
―――仁徳天皇の時世、飛騨の国に怪力早業を誇る両面宿儺という者がいた。朝廷の命令に従わず反逆を企てた。
天皇は難波根子武振熊という武人を差し向けて罰した。―――
神武天皇に位を授けたという飛騨の伝承とは大きな違いがある。
日本書紀の仁徳天皇の両面宿儺伝説には裏がある。
仁徳天皇の時代に”飛騨こそ、真の高天原である”とする日球王朝再興運動が勃発する。
高天原とは天皇家発祥の地と言われる。飛騨高天原説を認めると、現天皇卦は”偽物”という事になる。
仁徳天皇のは、朝廷そのものの存在を否定されることを恐れて軍隊を派遣する。位山のピラミッドは徹底的破壊される。両面宿儺伝説も全く別の姿をとって語り伝えられる事になる。
天源教祝礼祭
6月の第2日曜日、午前9時頃、飛神老人の家にひょっこりと横山が訪ねてきた。22歳の目元の涼し気な好青年である。
老人の家では老人と松本、飛神雪絵の3人が庭先で草むしりをしていた。春から夏、秋にかけて雑草の繁殖がすごい。朝7時から8時半頃まで草むしり、それから後片付けとなる。9時、お茶でも飲もうかという時間になる。
「こんにちは」横山の爽やかな声が松本の耳朶に触れる。
「あれ、横山さん・・・」松本は一目散に駆け出す。広々とした庭先の向こうに、麦畑が青々と広がっている。その間に白い小道がある。純白のスポーツウエアを着こんだ横山の紅顔が見える。
横山は1人旅の松本に好意の手を差し伸べている。人柄と言い、思いやりといい、松本には忘れられない人物だ。横山は大柄な松本より少し背が高い。松本は横山の手を固く握りしめると、熱い眼差しを向ける。
「その節は有難うございました」礼を述べながら、
「どうしてここへ?」横山にここへ来た理由を問う。「今日はね、天源教の祝礼祭だからね」
豊橋支部の信者全員が位山の本部に参詣する為に集まっている。松本がここに居ると聞いて尋ねる気になった。電話しょうと思ったが、驚かすのも一興だと思った。
「いやあ、松本君が飛神家と縁続きとはねえ」
和室に上がり込んだ横山は破顔する。こうして会えるのも天源教の神様のお導きかもしれない。出されたお茶を喉を鳴らしながら飲み込む。今日は上天気で気分も良しとか、話が饒舌となる。
老人と雪絵、松本はそんな横山を見守っている。
「ところで、松本君、教祖様から言われてきたんだが・・・」真顔で松本を見る。
「今日の祝礼祭に出てみないか」
別に信者になれとは言わない。天源教本部がどうして位山なのか、何故ギリシャの神々を崇拝するのか、祝礼祭の後、教祖ご自身が講話で述べられる。
松本は飛神老人を見る。行ってもよいか・・・。眼で合図する。
「雪絵、お前も行きなさい」老人はお茶を飲みながら言う。
飛神老人の家を出て、天源教本部までの道程、横山は天源教は元々豊橋にあったと話す。教祖の鮫島は、若い頃から、日本の超古代の歴史や遺跡に関心を持っていた。造詣も深い。
太古、日本は世界の中心であった事、自然の山を利用したピラミッドが日本各地に点在する事を知る。飛騨高山の位山こそ、日本の中心地であり、神々の住まう都でもあったとの確信を得る。
天源教の天源とは、天(あま、又はひ)の源を意味する。天源教のシンボル、丸に点は、天(丸)の中心に核があり、それが源となって世界を形成する。
鮫島は天源教の教義をパンフレットに印刷したり、ホームページに載せたりして、活発な宣伝を開始する。日本や世界の古代史に興味を示す人々が集まる。アカデミックな歴史学に飽き足らない人達の数は多い。官製の学問的雰囲気に抵抗する人々もいる。
鮫島は若い頃から大変な努力家である。豊橋の旧家に生まれながら、放逸な人生を送っている。放逸と言っても自由きままという意味である。食う事には困らず、全国の古代の遺跡を歩いて見て回っている。
彼は高校しか出ておらず、東京の某一流私立大学の通信教育を受ける。それも1年で辞めてしまった。
以下鮫島の弁。
―――その私立大学は有名な経済人や官僚、保守系の政治家を輩出している。通信教育でもさぞかし最新の学問を教えてくれるものと期待していた。郵送されてきた教材を見て驚いた。昭和30年代初期に編纂されたものばかり。活字は旧カナ遣い。教科書の紙質も最悪。それでも内容が充実さえしていればと、我慢して教科書を開いて勉強に勤しんだ。
私としては、通信教育で大学の卒業を目論んでいるわけではなかった。純粋に高度な学問に触れてみたいと熱望していた。英語やドイツ語、数学、物理学程度なら、20年前と内容に差がないから、古くても仕方がないと思っていた。
一番ひどいのは歴史、特に日本史が皇国史観によっている。
1つの思想に偏った歴史学程始末に負えないものはない。マルクス主義も似たり寄ったりだ。
一冊の教科書を勉強し終わると、そこに添付されている問題用紙に答案を書いて郵送する。添削指導による評価点数が送られてくる。
日本史の歴史で”大化改新”について述べよとの問題。
私は大化改新という言葉は明治時代になってつけられたもので、本来は乙巳の変というと書いた。
日本書紀に大化改新の文字があるが、後世に天皇親政を高揚する為に創作されたもの。大化改新は無かったとするのが正しい。その他当時は蘇我氏こそが真の日本の支配者、つまり天皇ではなかったか。大兄皇子は百済からの亡命者であると書いた。
私はこの時まだ若くて、アカデミックな歴史学に囚われない歴史物に興味を抱いていた。血のたぎる思いで、自分の思いを書いたのだ。
結果は無残なもので、解答のやり直しと、大兄皇子こそ当時の万世一系の正当な後継者であると、朱塗りの文字で添削してあった。その教授は日本でも名のある歴史学者であった。―――
それ以後、鮫島は独学で歴史書を漁る。
天源教を設立させると、あらゆる宣伝手段を利用して、教義を広めていく。信者の数も増える。ついに念願の位山の麓に本部を置くほどになる。信者数は約5千人。信者ではないが協賛者は約1万人。彼らは月1回発行の天源教の教えの購入者である。
支部は豊橋以外にはない。代わりに信者の家を借りて、天源教の集いの場が設けられている。
「こういう私もね」横山は笑う。
高校卒業と同時に天源教豊橋支部に入会。以後精力的に布教活動に従事。鮫島教祖の御目にかない、支部長の地位についている。
天源教の宏大な敷地には百台余りの車が並んでいる。ナンバーを見ると、仙台や青森、山口県や大分もある。
「遠くから見える方は本部道場に一泊されるんです」
横山の声には張りがある。自分が天源教の一角を担っているという自負がある。去年は50台程の車が、今年はその倍になっている。祝礼祭の参加者も3百名を超える。信者数は年々増加の一途を辿っている。後2,3年先には今の建物では収容しきれなくなる。駐車場の一角を利用しての増築の計画の進められている。
横山の誇らしげな顔を見る。松本は眩しいものでも見る様に紅潮したその顔を美しいと思った。
天源教の本部道場はほぼ満員である。横山は松本と飛神雪絵の手を取ると百畳敷きの礼拝堂に入る。前の方で豊橋支部からやってきた信者の1人が立ち上がっている。目ざとく横山の姿をとらえる。手をあげて、こっち、とばかりに手招きする。豊橋でチラシのポスティングをしていた連中の1人だ。人混みを掻き分けて、空いてる席に座る。松本はぺこりと頭を下げる。
前方の祭檀上のゼウスとセラの像がスポットライトを浴びて輝いている。その奥に鎮座するパンドラ像は少女の姿だ。玉手箱のような箱を手にして眺めている。どう見ても飛神雪絵に似ている。
その雪絵は借りてきた猫のように大人しい。先日ここに来たときの活発さがない。座布団の端を掴んで両足をからませている。うつむいた姿勢はパンドラそのままだ。
「松本君、ご神体がどうしてギリシャの神なのか、後で話してあげるね」横山はいつも柔和な表情をを崩さない。
鮫島教祖から、相手が子供でも天源教の教義を説明しなければいけないと諭されている。
その時、髪の長い女性が現れる。受付にいた女性だ。雪絵にビニール袋を渡すと、松本をみてにこりと笑う。そそくさと小走りに消える。
ビニール袋の中身を見て、雪絵の顔が輝く。祭壇のゼウスとセラの黄金色の反射を浴びて神々しく見える。
午前11時、場内アナウンスが響く。
・・・只今より、天源教の祝礼祭を執り行います。・・・その声はあの受付の女性の声だった。
アナウンスが終わると、場内は静粛になる。しわぶき1つ聞こえない。百畳敷きの礼拝堂は真ん中が通路になっている。最前列にいる松本と祭壇までは僅か2メートル程。道場内は玄関先まで参加者で埋め尽くされている。
・・・教祖様のご入場です。皆さま、一礼をもって、お迎えください。・・・
松本は後ろを振り返る。総髪で顎髭を蓄えた鮫島教祖が眼に入る。
布を2つ折りにした姿は古代ギリシャの神そのものだ。松本は息を飲む。帯も布も金色に輝いている。その小さな体が大きく見える。後ろに6名の若い男女を従えている。彼らは白い布を巻いている。手には取っ手のついた黄金の壺を持っている。
鮫島教祖が祭壇の中央に建つ。ゼウスの像へ男3名。セラの方へ女3名が立ち並ぶ。
・・・ご一同拝礼・・・アナウンスが流れる。
参加者一同が深々と頭を下げる。鮫島教祖以下6名の男女は正座する。両手を前に出して神像に礼拝する。
よく見ると、鮫島の目はゼウス像にもセラの像にも向いていない。ひたすらパンドラに向けられている。
・・・パンドラという少女が一番偉いに違いない・・・松本は直感で判断する。
6名の男女は壺から、神像の側に置かれた底の深い黄金のコップに水を灌ぐ。コップ2個づつを神像の前に置く。鮫島教祖は2つのコップを手にすると、パンドラの前まで運ぶ。コップを像の前に置くと、両手を前に差し出して深々と礼拝する。
元の席に戻る。腰帯から1枚の紙を取り出す。それを拡げて口誦する。声は朗々として道場内に反響する。
―――神々の中の神、ゼウスよ、その万能の力を我らに恵み垂れさせ給え。セラよ、ゼウスの妻にして、神々の母の中の母、我らにその愛の力と大地の恵みを垂れさせ給え―――
一瞬、礼拝堂は水を売ったような静かさとなる。飛神雪絵はビニール袋を持ったまま、身じろぎしない。前方の祭壇を見詰めたまま、瞬きさえしない。物の怪が憑依したような、唇を一文字に結んだままだ。
―――パンドラよ、我らにこの世の幸を与えたまえ。その箱を解き放ち、この世の富を我らにふりそそげ―――
鮫島教祖が入場してここまで15分とかからない。鮫島の祝礼の儀が終わる。6人の男女は壺とコップを手にすると、鮫島教祖の後に続いて退場する。
短い儀式だった。松本は拍子抜けしている。実に呆気ない。たったこれだけの儀式で遠くから信者が集まるのも不思議だ。
「これからが本番ね」松本の心の内を見抜いてか、横山はにやりと笑う。15分の休憩。トイレはごった返している。
11時半、再び鮫島教祖が登場。今度は本人のみ。祭壇に登ると、ゼウスとセラの像には見向きもしない。膝を屈して両手を前に差し伸べる。パンドラ像に拝跪する。そのままの姿勢で呟く。何を言っているのか判らない。呪文のようだ。
横山は首を垂れている。周囲を見ると皆同じ姿勢だ。
飛神雪絵と松本だけは前方の祭壇に目を凝らしている。
礼拝堂に張り詰めた空気が支配している。ここに集う人々の心が1つになっている。身動きすると、空気がピーンと音を立てて崩れていくかと思うほどだ。
鮫島教祖の呪文は20分に及ぶ。この間、息をする事も憚られる。
鮫島教祖が体を起こす。場内の空気が流れる。安堵のため息が漏れる。あちらこちらからしわぶきが聞こえる。教祖は立ち上がると、パンドラの像に一礼する。また腰をかがめてパンドラの像に近ずく。彼はパンドラが手にする黄金の箱を取り上げる。ゼウスとセラ像の間に立つと、礼拝堂の方に向き直る。パンドラの箱を高々と上げる。場内の照明が消灯される。玄関先や窓のカーテンが引かれる。
室内は闇の中だ。
「汝ら、この奇跡をみよ」鮫島教祖の声が響く。教祖の手から明かりが漏れる。彼はパンドラの箱を開けたのだ。
教祖が祭壇から降りる。光は教祖と一緒に動く。
「おおっ!」礼拝堂からは嘆息が漏れる。パンドラの箱の中から光があふれているのだ。教祖は室内をあちらこちらと動く。
やがて―――箱はまたパンドラの手に収められる。場内の照明が点灯され、カーテンが開けられる。
ギリシャの神々
正午、参加者は道場の2階で昼食を摂る。3百名の料理は作れない。仕出し屋から割子弁当を注文している。長椅子を並べたり、弁当を配布したり、お茶を出したりするのは信者たちの奉仕である。
昼食後1時から鮫島教祖からの訓話がある。
食事を摂りながら松本は尋ねる。
「あの箱はどうして光るの?」
横山は判らないとかぶりを振る。中がどうなっているのかは誰にもわからない。箱の蓋は誰にでも開けられる。豊橋支部のパンドラの箱を開けた事がある。
―――ちっとも光らない―――横山は自嘲的に笑う。
昼食後、1時まで時間があるので外の駐車場に出る。青天で気持ちが良い。駐車場に片隅で横山と松本、それに雪絵が腰を降ろす。雪絵はビニール袋から菓子を取り出す。ポリポリとかじる。その姿は無邪気な子供である。
北の方にモンデウス飛騨位山の円柱の建物が見える。
「松本君」横山の改まった口調だ。大人に話をするような真剣な表情になる。教祖から相手が子供でも分かりやすい言葉で教義を話せと諭されている。
ギリシャの神々と日本の神々の同一性について話しておきたい。横山の言葉に松本は緊張する。雪絵はそんな2人を怪訝そうに見上げている。彼女の関心ごとは目下、ビニール袋の中の駄菓子である。
―――鮫島教祖が天源教を開くとき注目したのは、日本の神々とギリシャの神々が似ている事だった。
日本の歴史書として、古事記と日本書記が中心的な資料として重要視されている。だがその他に、秀真伝三笠紀、上記、竹内文書など数多く存在する。これらはアカデミックな歴史学者からは異端視扱いされて、無視されている。
古事記は天武天皇の詔によって稗田阿礼が唱習する。日本書紀は天智天皇の娘、持統天皇の時代に計画され、養老4年、舎人親王によって撰出されている。
詳しい事は省くが、古事記は当時の朝鮮半島の新羅に対して好意的は表現を用い、その対立国の百済には、批判的な文章に徹している。つまり、古事記は新羅について称賛こそすれ、悪口は一切出てこない。日本書紀はこの反対、徹底的に新羅を忌み嫌う。
この違いはどうしてか、天武天皇は新羅系の天皇。持統天皇は百済系天皇だからだ。強いて言うならば古事記は新羅系日本の歴史書、日本書紀は百済系日本歴史という事になる。だからこの2書は新羅や百済の事に関係する記事に手ごころを加えている。
・・・色眼鏡でみた歴史書など評価に値しない・・・というのが鮫島教祖の主張だ。
鮫島教祖が注目したのは、秀真伝や上記などだ。これらの書は当時の大和朝廷に征服された原住民の歴史書である。
天之御中主神
この神は記紀神話では影の薄い存在である。竹内文書では世界万国を統治し、人類に文字を教え、数字を定めて12方位とその守護神を決定している。
九鬼文書では、日本の祖先がまだユーラシア大陸の中部にいた時代に、製塩、文字、穀物の取り入れ、酒の醸造法、土器の製作などを教えた神とする。
秀真伝では元始神は国之常立尊として、天乃御中主神とは別系統の神としているだけ。
三笠紀では、明確に始源神と位置づけている。つまり竹内文書や九鬼文章とほぼ同じイメージで天乃御中主神をとらえている。
上記では宇宙創成の元始神と位置づけて、神統譜のトップに格上げしている。
以上の古文書に共通するのは、天乃御中主神はギリシャ神話の神ゼウスに比肩される神格だった。この事を最初に主張したのは昭和初期における木村鷹太郎である。彼の著、”世界的研究に基づける日本太古史”によると、
①古代天皇の詔勅にでてくる万国や天下或いは4方という表現は日本列島内ではなく、世界的万国4方を 指す。
②日本人の起源はユーラシア大陸の西にある、具体的には日本人はギリシャ、ラテン系である。
③記紀神話の神々、例えば事代主命はギリシャ神話のアポロ、中国神話の”夏”の禹王、オリエント(古代バビロニア)のウルク王である。
木村鷹太郎は出雲神話とギリシャ神話に共通する事項を対比させている。
出雲神話 ギリシャ神話
大国主命の紀ノ國行き・・・・・・・・金羊毛取り(アルゴノートの英雄イアソンのケンタロウス行き
大国主命とスサノオノミコト・・・・・イソアンとアイエテス王
スサノオの性格・・・・・・・・・・・アイエテス王の性格
須勢理姫と大国主命との恋愛・・・・・イアソンとアイエテス王女メディア姫との恋愛
大国主命が受けた様々な難題・・・・・イアソンがアイエテス王から受けた様々な難題
須勢理姫の様々な比礼・・・・・・・・メディ姫の様々な呪術
須勢理の出奔・・・・・・・・・・・・メディア姫の出奔
大国主命、須勢理姫を背負って脱走・・アルゴナウトのヘラクレスがテッサリア王姫を地獄より奪って脱走
天の詔琴の音・・・・・・・・・・・・オルフェスの音楽の力により妻を黄泉から連れ戻す
スサノオの頭髪を縛り付ける・・・・・ユダヤ旧約聖書のサムソンが髪を切り落とされ無力化
大国主命の医療神・・・・・・・・・・アスクレーヒオスの医療神
古事記の中の大国主についての古語・・イリアスの同工異曲の記述
大国主命とネズミ・・・・・・・・・・アポロンの祠のネズミ
真髪振る稲田姫・・・・・・・・・・・真髪振るメディア姫
出雲神話とギリシャ神話では、ストーリー性において類似点が見られると言うものだ。
また吉田敦彦氏は猪に殺される神として大国主命とアドニスを上げる。名の名がセム語で「主」を意味する呼称「アドン」から作られたアドニスの名との「奇妙な意味的吻合」に関心を持つ。
―――教祖の訓話が始まります。礼拝堂にお集まりください―――建物の外に設置されたスピーカーが響く。
横山は腕時計を見る。1時15分。
「そろそろ行こうか」腰を上げようとする。
「行かなくてもいい」飛神雪絵がしっかりとした口調で言う。今まで駄菓子を齧っていると思って無視していた子供が、命令口調で引き留めるのである。
その声には抗う事の出来ない力強い響きがある。横山は黙って腰を降ろすと携帯電話を取りだす。礼拝堂にいる仲間に連絡をする。2言3言話をすると、先ほどの話の続きをする。
雪絵は何事もなかったかのように、また駄菓子をほうばり出す。松本と横山は不思議そうに雪絵を見る。
・・・この子には、何か強い力が働いている・・・
松本は南側に聳える位山を見る。その頂上から光が天に昇っていく。
「あっ!光が・・・」松本が指さす。横山もその方向を仰ぎ見る。
「あっ、光ですね」横山は感心したように言う。
彼は一旦ギリシャ神話の話を横に置く。
「位山には不思議な伝説がありましてね・・・」以下横山の話。
富山県中新川郡立山町の横江区に通称”トンガリ山(尖山)”という三角錘形の山がある。昔から謎めいた言い伝えが残されている。
1、日が暮れてから山に入ると、位山の天狗にさらわれる。
2、尖山に入った男が、急に眩しい光に包まれて、気が付くと位山にいた。
3、尖山にいたら、位山の天狗が出てきて、一夜のうちに尖山と位山を三往復させられた。
4、尖山の頂上から位山の方向に天狗が走るのを見た。
つい最近でも、謎の発光体が尖山と位山の間を飛ぶのを見たという証言が報道されている。
「あの光は・・・」突然飛神雪絵が口走る。眼が釣りあがって炯々としている。
・・・彼女の中に何かがいる・・・松本は戦慄する。
「近いうちに、不吉な事が起こる・・・」
松本と横山は唖然として雪絵を見てい居る。彼女は食べ終わった駄菓子のビニール袋をまとめると、近くにあるゴミ箱にぽいっと捨てる。
「教祖さんの話、聞いてこようっと!」彼女は玄関先の方へ駆け出す。
呆気にとられた2人も仕方なく立ち上がり、後を追う。
神話の謎
松本と横山は礼拝堂に戻る。雪絵は眼をキラキラさせて、鮫島教祖の訓話を聞き入っている。その表情はどう見ても子供だ。
祭壇を背にした教祖は総髪を左右に揺らしながらの熱演である。顔がほころび、眼が和んでいる。いかめしい髭や顎髭が違和感を感じさせる。黄金のギリシャスタイルから、黒ずくめの背広に替わっている。
彼の訓話は2時間に及ぶが、内容は以下の通り。
―――神々の目的は人間に愛と豊穣をもたらす事。物心両面から豊かになりなさい。天源教はそのお手伝いをしたい。パンドラの箱はそのためにある―――
最後に鮫島は以下のように締めくくる。
―――位山の地下深くにパンドラの箱が眠っている。その箱が開く時、新しい時代がやってくる。―――
位山=ピラミッド説を信じる人は意外と多い。しかし位山の地下深くにパンドラの箱があると信じるのは、天源教の信者ぐらいなものだ。
それでも鮫島教祖は倦むことなく主張し続ける。
後日、横山が松本に語るところによれば、
―――ここ、2,3年の内に位山からパンドラの箱が発見される。それを開くのは天源教である―――
鮫島教祖は訓話の中で、日本神話とギリシャ神話の類似性について述べている。横山が松本に話した内容そのままだが、現在の歴史学で研究が進められていると締めくくる。
日本神話とギリシャ神話の類似性は、松本信広、三品彰英、小林市太郎氏らによって戦前から指摘されている。戦後は吉田敦彦氏らが精力的に取り組んでいる。
たとえば大国主命の説話とアドニス神話について、この両神とも狩りの最中に”猪”の為に死ぬことだ。(だだし大国主命の場合は猪と形が似た真っ赤に焼けた大きな石で、しかも蘇生する)
さらに両神について共通するのは、ともに豊穣思想と密接な関係を持っている。同時に冥府と地上界とを往来できることだ。両神は1度は死ぬが、愛人の力によって蘇生する。大国主命の場合は、母親が泣きながらカミムスビの神(女神)に依頼して、アドニスの場合はアフロディテ自らが冥府に下って地上に連れ戻す。
日本神話とギリシャ神話の類似性については、確たる歴史的証拠が(資料)が乏しいので説得力に欠けるのが現状のようだ。
それでも現存の体制に飽き足らない人や神秘思想に興味を持つ人々を魅了している。
天源教は年々、その勢力を着実に伸ばしている。
天照大神の謎
6月の末日、飛神雪絵は学校に出かける。松本は天源教本部に向かう。鮫島教祖は豊橋支部に出かけていて留守だが、末次が細面の顔をほころばせて、松本の相手をする。
6月の祝礼祭に、横山から聞きたい事が一杯あった。横山は信者との会合に追われて、聞きそびれている。
松本はギリシャ神話について聞きたいことが山ほどある。ゼウスの妻やパンドラについて、まだ何も教えてもらっていない。是非聞きたいと、天源教に申し込んだ。末次が私でよければと応じてくれたのだ。
末次は礼拝堂で、座布団の上に腰を降ろしながら、くだけた口調で話をする。豊かな髪を七、三に分けている。顎が張っているので、いかめしい表情になる。本人はそれを意識してか、わずかに口を開けて、白い歯を見せる。
松本は今まで聴いて理解したことを述べる。末次は大きな眼を小さくして聞いている。
「今までのおさらいの意味を込めて話しますね」
その声は松本を1人の大人として扱っている。そんな響きが感じられる。松本は大きな眼をさらに大きくする。座布団の上で正座して耳をそばだてる。
―――人類最初の神は女神だった。考古学、人類学の立場からこの事が裏付けられるのは、旧石器時代のビーナス像である。多産と豊穣の象徴である。ビーナスは、古代、大地母神として信仰された。
やがて古代農業革命は、広大な土地(耕作地)と多数の耕作者(農奴)と、それを支配する者を生み出す。ここに男性支配社会が出現する。大地母神は主神の座を男神に奪われる。
ギリシャ神話の大地母神、ガイア(大地の最初の母、又は女)は、自分が生んだ神々にその地位を追われる。その娘のデメテルはゼウスの妻とされる。その孫娘”花の王女”ペルセポネは冥府の王ハデスに奪われる。
美とアイの女神、ビーナス、アフロディテも、ギリシャ原産ではない。オリエントの大地母神イシュタル(アスタルテ)のギリシャ神話的表現である。
この女神のゼウスの命令で醜いへパイストス(バルカン)の妻にさせられる。その上美男の軍神アーレスと浮気する”愛の女神”に格下げされる。
日本神話のビーナスはイザナミに比類される。彼女もまたデメテルの娘の花の女王ペルセポネと同じく黄泉の国へ連れ去られる。そこの食べ物を食べたために地上に戻れず押し込められた神となる。
イザナミの娘のアマテラスは高天原をスサノオに侵略され、”天の岩戸”に押し込められる。
”九鬼文書” この書だけがアマテラスの大地母神としての性格を伝えている。
地球の修理固成が終わった時に訪れた神々――鬼人の増殖、生存競争の激化――が生じる。
パンドラの箱を開けた後の災いが飛び出したと同じである。
イザナミが”天の岩戸”の秘儀、天地言文を行う。イザナミは天の岩戸にこもる。暗黒化した世界を救うべく御子の出生を祈願する。結果、アマテラス、ツキヨミ、スサノオ三日大御子を産む。
イザナミはこの三貴子の誕生と引き換えに黄泉の国に身を隠す。大地母神の死によって豊穣を招く。一種の神殺しのバリエーションである。アマテラスもまた岩戸がくれの秘儀を行う。
次に秀真伝の天神七代の系譜による第七代イザナギとイザナミの間には四人の御子があった。ヒルコヒメ、アマテラス、ツキヨミ、スサノオである。記紀神話ではヒルコは性別不明、しかも生後三年経っても足も立たないので葦船に乗せて流したとある。しかし、ホツマではヒメノミコト(女神)としている。アマテルは男神としている。
本来、アマテルは女性であった。やがて時代が下り男性の神にとって代わられる。伊勢神宮の天照大神は本来は男神だったとの説がある。
持統天皇の時代に”元”の女神に代えられたともいう。
天乃御中主神がゼウスとする説は、後世になって、母権制から父権制に移行後、母権制の見直しの中で作られたものという見方もある。
記紀神話では天乃御中主神の存在は希薄である。その下に位置する三神、タカミムスビとカミムスビも”中空”的な存在でしかない。
むしろ、ゼウスをイザナギに比定するべきだ―――
松本は瞬きもせずに末次の大きな口を見ている。
ゼウスを天乃御中主神と言ったり、イザナギと主張したり、天源教団の中でも意見が分かれているという。
末次は白い歯を見せて笑う。
「ゼウスは最高神としては、天乃御中主神でしょう」
いったん口を切る。
「でも、ひの神の性格としてはイザナギがピッタリです」
ひの神という言葉が出たとき、松本は衝撃を受ける。松本の驚いた顔を楽しむようにみて、末次は言葉を続ける。
「天照大神は知っていますか?」末次の言葉は丁寧だ。
「伊勢神宮の神様・・・」松本もそれぐらいは知っている。
「そう、伊勢の神様ですね」
伊勢神宮、内宮に祀られた天照大神は初めは男神だったと言われている。それがいつごろの事か、女神に入れ替わる。天照という事で太陽神となる。
だが、アマ、天に太陽の意味はない。”ひ”こそ太陽を表す言葉である。
余談はさておき―――末次は多くな眼で松本を凝視する。
彼の言葉遣いは巧みである。松本は身じろぎさえできない。催眠術にかかったように末次の声に没入する。
―――巨神にダイダラボッチがある。テダテルプルチ(縄文古語)の変化語である。これが天照大神となる。この巨神は男神である。それが女神として記紀に現れるのはどうしてか。
”万葉集に「日並皇子尊の宵宮の時、柿本朝臣人麻呂の作る歌1首”がある。
日並の皇子の尊とは草壁皇子の事だ。天武、持統両帝の間に生まれる。壬申の乱に従事している。天武10年に皇太子になる。持統3年(689)に没。
草壁皇子に皇位を継がせるために、皇后(持統)は腹違いの大津皇子を殺す。次に孫の軽皇子(文武)に地位を継がせるために、自ら天皇となる。即位はこの歌の後に出来る。
この歌の中に”天照らす、日女の尊”と”高照らす、日の皇子”が出てくる。持統天皇と草壁皇子の事である。
「天皇という語が、この歌にはじめてあらわれる。持統天皇は天照大神であり天皇であると謳っているのだ。
712年に古事記、720年に日本書記が完成する。この人麻呂の歌は689年だから、記から23年、紀では31年の開きがある。
天照大神は女神となる。天子から天孫降臨となる。その皇統のみが天皇たるべきことを決定している。―――
「ここで問題なのはですね・・・」
末次の表情はあくまでも柔らかい。細長い顔もにこにこして親しみが湧く。松本は熱心に聞き入る。
持統天皇は自分の事を”ひるめ”と呼ばせている事だ。
”ひるめ”は記紀神話では3年経っても足が立たないので、葦舟に乗せて流してしまったイザナミの子供である。持統の死後に成立する記紀では”ひるめ”は否定、抹殺されている。
1つ言えることは、天皇家(中津民族)はアマ一族やひ一族を制圧して日本の支配者になった。だが神話に出てくる”あめの何々神”を祭り上げねば天皇家の支配権が揺らぐ。
ひ一族は太古より日本の神々の一族として崇拝されている。自分がひるめとなって、伊勢神宮に祀る。天皇家の支配権は未来永劫続くことを保証する。
持統天皇は、元々民衆の神であった天照大神を国家最高の神としたのだ。
「ひるめはね、それ程重要だったんです」
本来の天照大神がゼウス、母制復活と共に妻セラが天照大神に格上げされる。
「では、パンドラは・・・」
この時、受付の女の子が、血相を変えて礼拝堂に駆け込んでくる。
「大変、末次さん、松本君!飛神善蔵さんが強盗に襲われて、お腹を刺されて、あららぎ湖のキャンプ場の診療所に運ばれたって!」
飛神老人の死
「何だって!」末次は立ち上がる。
「君、教祖様に電話して、松本君、私と一緒に!」
末次は受付の女の子に的確な指示を与えていく。彼は鮫島教祖の秘書と言われ、右腕として一目置かれている。
駐車場の片隅に駐車してある青のブルーバードに乗り込む。あららぎ湖の診療所は眼と鼻の先だ。
・・・飛神のおじいちゃんが・・・ようやく行き会えた、たった1人の身内だ。それが今・・・。松本は眼の先が真っ暗になる。末次に手を引かれて車に乗り込むのがやっとだった。
あららぎ湖は位山から南東の方向、約2キロ先にある。周囲3百メートル程の小さな湖である。この近辺は観光施設が集中している。位山と船山のほぼ中間にある。
久々野の町から飛騨川が枝分かれして無数の河川となり、位山と船山の間を流れる。あららぎ湖に流入した水は山之口川と名前を変えて南の方、上呂の方に流れる。スキー場やキャンプ場が多いので、診療所が配備されている。
あららぎ湖畔診療所は切妻屋根の木造住宅である。2階建ての40坪程の古い建物で、普段は医者はいない。看護師2名だけが常勤している。緊急の場合は、8キロ程東にある久々野の町の病院から医師が駆けつける。
飛神老人が脇腹を刺されて、飛神雪絵の父親が診療所に連絡を入れる。看護師は10分ぐらいで飛神家に到着。応急処置を施すと、飛神老人を診療所まで運ぶ。同時に携帯電話で久々野の病院へ連絡。医師の要請と輸血用の血清の運搬を依頼する。
飛騨高山では過疎化の激しい部落民を対象に、血液型のチェックを行っている。緊急時の輸血に間に合わせるためだ。
松本達が到着した時には、飛神老人の命を取り留めている。久々野の医師の対応も適切に行われている。
―――絶対安静―――という事で面会は謝絶。末次は松本を残して帰っていく。しばらくすると飛神部落の主だった者が集まってくる。飛神雪絵も姿を現す。
久々野町から警察がやってくる。飛神雪絵の父からの聞き取りが行われる。
雪絵の父が飛神老人の家に行ったのは10時半過ぎ。雪絵の下着やら着替えをなどを持ってきたのだ。雪絵は飛神老人の”命令”で、老人に家で寝泊まりして、そこから学校に通っている。
和室でうつぶせになって倒れている飛神老人を発見。畳が血で赤く染まっている。雪絵の父は咄嗟の判断で、診療所に電話する。看護師が来るまでの間の応急処置を仰ぐ。
飛神部落の面々や松本、雪絵たちは、警察の事情聴取を受けている雪絵の父の周りを囲んでいる。飛神老人傷害事件の発見当時の状況に聞き入る。
”傷害事件”は飛神部落にはかってなかった事だ。その衝撃の大きさは、部落民に動揺を与えた。その上、被害者は部落の長老であることが、暗い影を落とすことになる。心の支えを失って、部落を捨てる者が出る可能性がある。
しかし発見が早かったこと、発見後の処置が適切だった事等で、飛神老人の一命をとりとめた。
医師から”絶対安静”だが回復に向かっているとの報告を受ける。
雪絵とその父、松本をはぶいた部落の面々は、一旦家に帰る。飛神老人の病状が回復次第、彼の口から犯人の様子を聞こうと、待合室で警察が待機している。岐阜県警が飛神老人の家の検分を行っている。指紋など犯人に結び付く証拠の割り出しに懸命である。
それから2時間後、飛神宅の前庭の麦畑の中から血の付いた刃渡り5センチのナイフが見つかる。指紋の割り出しを急ぐ。
松本達は1階の待合室で待機している。診療所とはいうものの、民家を改造したものだ。中央に正面玄関がある。左手が受付、兼看護師の詰め所、右手が応接室兼待合室で、長椅子が5つ並んでいる。その奥にトイレがある。正面玄関の突き当りに階段があり、その横にエレベータがある。担架がそのまま入る大型のエレベータだ。2階は北側の廊下に沿って病室が5部屋、各室にベッドが2台。飛神老人が入っているのは一番東側の病室だ。
午後5時頃、医師が飛神老人の意識が回復したと知らせる。2名の刑事は2階に上がろうと、長椅子から立ち上がる。医師はそれを遮る。本人の体力は回復していない。面談は5分ぐらいにしてほしい。2人の刑事は頷いて2階に駆け上がる。5分後、刑事達は携帯電話を耳にあてながら、階段を駆け下ると、玄関先に突進する。
「飛神さん」看護師が待合室の雪絵の父に声をかける。看護師は若くて大柄だ。胸が大きく張り出している。
「患者さんが、ぜひ、話したいことがあるそうです」
面談は10分にしてくださいと付け加える。雪絵の父は松本と雪絵の手を取ると、飛神老人の病室に入る。
ベッドに飛神老人が横たわっている。酸素吸入の管を鼻に射し込んでいる。腕に打ち込まれた輸血用の注射が痛々しい。ふくよかな頬もげっそりとしている。落ちくぼんだ眼は力なく松本達を見ている。
「おじいちゃん!」雪絵が泣きじゃくる。老人の体にすがりつく。
「おじいちゃん!」松本はすがりつきたい気持ちを抑えて叫ぶ。
「ご老人!」雪絵の父が声をかける。
初夏というのに、日は西に傾いている。南の窓からは船山が見える。標高1479メートル。位山と大差がない。円錐形のエメラルドグリーンの山だ。この山もピラミッドとの説がある。
「みんな、こっちへ・・・、わしを刺したのは息子じゃ・・・」
「やはり・・・」雪絵の父は頷く。部落の者は察していると話す。
「警察には全部話した」老人はこの問題で部落の者に迷惑をかけたくないと思って、事の成り行きを話したという。
息子とは、松本の母、悦子の兄、飛神重徳を言う。彼は悦子より3つ年上。彼は若い頃から、飛神部落の長老の出であることを鼻にかけている。
”ひかみ”は古来、日本の支配者であった事を自慢して、人にも公言する。
しかし、戦前の国粋主義者による中国大陸侵略は敗戦によって、世の非難を浴びる。国粋主義思想は反感をもってむかえられる。
そんな風潮のなかで、飛神重徳は自分の先祖は天皇家をもしのぐ偉大な一族であると吹聴して憚らなかった。その結果は嘲笑と反感を招くだけだった。
叩かれれば叩かれるほど、彼は自分の主義主張に固執する。彼は彼なりに飛神家の歴史を調べだす。そして”飛神家”に伝わる秘宝が位山の地底深くに眠っていることを突き止める。
飛神家は古代より綿々と伝わる”名家”である。無数の古文書が大きな瓶に入れられて、屋敷の土台の下に眠っていることを知る。飛神重徳は密かにこれを取り出して、解読した。
―――位山は古来より日来神社である事、その地底深くに秘密の箱(部屋)がある事、その中には光り輝く高貴な”もの”が存在する―――
それを解く鍵は飛神老人から一子相伝で代々伝えられている。
彼は父親の善蔵に迫る。飛神善蔵はそれを解く者は女であると主張、妹の悦子に伝えると宣言した。
怒り心頭に発した重徳は家を飛び出す。以来、飛神部落に姿を現さない。
今から20年も前の事だ。
「重徳の奴、昨日の朝、ひょっこり現れたんだ」
飛神老人の声は弱弱しい。彼の言葉が続く。
重徳は挨拶のへたくれもない。位山の岩戸は2年後に開く筈だ。そこへ入る鍵を教えろ、さもないと殺すと、飛神老人を脅したのだ。
目的のためには手段を択ばない。重徳の心はすさんでいた。眼が血走り、実の親さえも、本当に殺しかねない勢いだった。
「お前はもう、飛神家の人間ではない。さっさと立ち去れ」飛神老人は側にあった棒で玄関から追い出そうとする。かっとなった重徳は凶行に及ぶ。
「徳治、良く聴け」飛神老人は寝具の中から手を出す。雪絵の父の名を呼ぶ。
「満と雪絵は、天の岩戸開きをする、飛神一族の最後の希望だ」
岩戸開きの日まで2人を隠せというのだった。
「2人は、2つで1つだ。陰と陽が1つになって、”ひ”になる、最後の希望だ」
「ご老人・・・」飛神徳治は老人の手をしっかりと握る。彼が何を言わんとするのかよく判っている。
「天源教の教祖が近ずいてくる。彼は奸徒だ」
彼は甘い言葉で誘惑してくる。好意を示そうとする。それを拒む必要はない。彼の存在もまた、”ひ”の神の深慮なのだ。
飛神老人はまだ話したいことがあるようだった。看護師が入ってくる。老人の脈をとる。これ以上の面談は患者の負担が重過ぎる。3人は一旦家に帰る。雪絵の母が徹夜して看病にあたる。
その夜、飛神徳治の家で主だった者が集まる。徳治は飛神老人の弟の子供である。飛神老人が倒れた今、飛神部落の中心人物となる。彼は飛神老人の言葉を伝える。
「雪絵と松本君の身の振り方は、わしに任せてくれや」
徳治の実直な物言いに、部落の面々は大きく頷く。そんな最中に、天源教の鮫島があわただしく入ってくる。後ろに末次と横山を従えている。
「診療所へ見舞いに行ったら、面会謝絶にあってね」
鮫島の八の字眉の眉間に皺が寄っている。彼は部落民一同に深々と頭を下げる。末次も横山も右に倣う。
「まあ、上がって」飛神徳治の言葉に「遠慮なく」靴を脱いで和室に上がり込む。
古い家は一様に同じ造りである。玄関を入ると八帖の三和土がある。右側に納屋、三和土の奥は台所、左側は上り框があり、八帖の和室が四部屋、田の字型に出来ている。和室の南側は一間の広縁。和室の襖を取り払い、寄り合いや盆、正月の時に使用する。
徳治は鮫島教祖を見詰める。
・・・天源教の教祖は奸徒・・・飛神老人の言葉が耳朶に残っている。
・・・彼の行動に逆らうな。すべてひの神の深慮・・・
徳治は飛神老人の言葉をおくびにも出さない。殺傷事件のあらましを語り、
”松本と飛神雪絵を隠せ”飛神老人のこの言葉のみを、鮫島教祖に話す。
「教祖さん、こういう訳で、ここに部落の主だった者に集まってもらったんだわ」徳治は教祖の小さな眼を見る。
鮫島は顎髭をしごく。2人を隠すとするなら、信者に託すしかない。信頼できる信者は誰か・・・彼は頭の中で反芻する。
その時「横山の所にいく」飛神雪絵の口から確たる声が響く。
松本と雪絵は大黒柱の横に座っている。飛神家に蝟集する人は18名。その中にあって、松本と雪絵は目立たない。自分たちの事が話の中心なのに蚊帳の外に置かれている。
―――2人を隠す―――と言っても部落の面々が他県に知人や親戚がいる訳ではない。部落を出ていった者は多いが、出世したとの便りを寄こした者はいない。
頼りになる者など、彼らの記憶の中から呼び起こす事など不可能だった。
そんな時に天源教の教祖が現れた。それを奇貨として相談することになった。
皆の顔が雪絵に向く。一番びっくりしたのは横山本人であろう。
雪絵は両足に座布団をはさんで、お茶を飲みながら、まんじゅうをぱくついていた。
「雪絵・・・」徳治は恐る恐る声をかける。
雪絵の凛とした声に一同はなりを潜める。その声は”ひの神”のお告げのように聞こえてきたのだ。
「ひるめ様の御言葉じゃ・・・」誰かが呟く。一同頷く。
「横山さんとやら、引き受けてくれんかのう」
横山の端正な顔に戸惑いが見える。どうしたものか、鮫島教祖を見る。
「判りました。横山を通じて、天源教がお引き受けいたしましょう」鮫島の目がギラリと光る。
翌朝6時、診療所からの電話に、松本や飛神家の人々は起こされる。
――飛神老人の容体が急変、一刻の猶予ならない事態となった――
この悲報に部落民が診療所に急行。
医師の説明によると、一旦は持ち直したかに見えた容体は夜半から明け方にかけて急変する。いくら気丈夫とはいえ、寄る年波には勝てない。刃傷という大きなショックに、体力を消耗している。
明け方に意識不明となる。午前7時45分死去。享年88歳。
――つづく――
お願い――この小説はフィクションです。ここに登場する個人、団体、組織等は現実の個人団体組織等とは一 切関係ありません。
なおここに登場する地名は現実の地名ですが、その情景は作者の創作であり、現実の地名の情景で はありません。