1-6
講義の時間も終盤に差し掛かった時、とうとう相馬の名前が呼ばれた。
「がんばってね、オウエンシテルヨー」
「死なない程度にやられて来て」
心の籠もっていない由紀の声援と、歯に衣着せぬ彩香の悪態を横から浴び、相馬は言い返す事もせずに溜息を吐いた。
醜態を晒す事も、その結果として低い評価が成績に加味される事も分かっている。いっその事、仮病でも使って辞退してしまうのはどうだろうか。やる気の無く、果汁を絞り切った後の萎れた梨のようになっている相馬は、歩きながら頭の隅でそんな事を考えていた。
「仮病を使ってサボるのは無しね」
「ちくしょう、先手を取られた!」
紳範の下に体調不良を理由とした棄権の旨を伝えようかと、半ば本気で考えていた相馬だったが、実行に移す前に瑠依に釘を刺されてしまった。
合理的に考えれば、むしろそれでよかったのかもしれない。
実践模擬戦闘は、相馬が最も苦手とする科目だ。ただでさえ単位を認定されるか怪しいというのに、試合を棄権して、わざわざ自分から成績を下げるメリットなどは存在しない。
「今回は何分持つかな?」
由紀が、これから競馬でもするかのような調子で瑠依に尋ねた。
「1分くらいじゃない?」
瑠依もまた、去年の実績を踏まえて予想を出した。
「えっ……流石に短すぎでしょ……あんた、そんなに弱いの?」
2人の会話を理解出来ていない彩香が、そうとは知らずに見当違いな感想を漏らす。
「多分、そういう意味で言った訳じゃないと思うぞ? 俺だって、いくらなんでも、そこまで弱くはない……一応。
――なぁ、ところで媛河」
「……なんでしょう?」
まるで何の話を切り出すのか予想が付かないといった顔で、由紀は応じた。その表情は、猫が鼠をいたぶっているような、底意地の悪い愉悦を帯びている。本当は、相馬は何が言いたいのは、由紀は既に分かっているのだが。
「また、貸して欲しいノデスが……」
その言葉を聞き、由紀は待ってましたとばかりに頷いた。その心底愉しそうな表情に、相馬は内心辟易する。とはいえここで由紀に断わられても困る為、この場に限っては一先ず従順な振りをしておく。
「ふむふむ。こうやって人は借りを作っていくんだねぇ。……返済、出来ればいいけど」
「借りを作っている相手は由紀だけじゃないから、多重債務ね」
痛いところを突かれ、相馬はたじろいだ。しかし、ここで引き下がる訳には行かない。
「いいじゃないか、減るモンじゃないし」
相馬の言い分に対し、由紀は分かっていないと言わんばかりに首を横に振った。
「親切心は減らないけど、それでも貸しは貸しだよ? 借りたものは返さなきゃ」
「恩は倍にして、恨みは3倍にして返す。基本よ?」
どのみち、あまり時間が無い。ここであまり時間を掛けていると、急かされて準備不足のまま駆り出される事になる。一応成績に関わるので、ここでそのような初歩的なミスをする訳にはいかなかった。
「――汐町、ちょっと手貸して」
他人の足元を覗き込むような態度の2人を他所に、相馬は事情を何も知らない彩香に言い寄った。話の流れを解せない彩香は、相馬の突然の要求に驚きながらも、特に不審に思う事無く右手を差し出した。
「あ、変態! いきなり転入生の手を握る気か!」
「何も知らないのをいい事に、に説明もせずに自分の用だけ済ますなんて、最悪ね。後で普段の5倍くらいの貸しにして貰ってもいいんじゃないかしら?」
由紀と瑠依に言葉の限り罵倒された相馬だったが、数秒ほど彩香の手に触れていたおかげで、既に用は終わっていた。
これで無事に試合に出る事が出来るが、説明も兼ねた事後承諾とういう形を取らなければならなくなった。素直に債務を認め、あのまま由紀の力を借りた方が良かったのかもしれない。
目先の安さに釣られ、結果的により高い買い物をしてしまった。
「……ごめん。ちゃんと返します」
とうとう観念し、相馬はその場しのぎで口約束をした。
「じゃあ、週末に彩香ちゃんの歓迎会をしよう! 相馬くんの自腹で」
「ご馳走様」
「本当!? いやー、ゴチになります」
「……4割までな? 流石に全額は払わないからな?」
理不尽な約束を強いられ、相馬は更に心労が募った。
しかし、ここで気持ちを切り替えなければならない。周りが手を抜いていようと関係ない。苦手な模擬戦では、稼げる時に成績に繋がる点数を稼いでおかなければ、後々苦労する事になる。
「そういえば、借りるって何を?」
先の会話の内容を理解していなかった彩香が、今更ながら疑問を口にした。
「見ていれば大体分かるわ。まあ一応、説明はするけど」
戦の支度を整え、相馬はリングへと向かった。