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園蒙間相馬が予想していた通り、2年次前期のスタートは、期待よりも不安を圧倒的に強く感じさせるものだった。その不安を目に見える形で提示しているのが、今し方アドバイザーの教師から渡された、1年後期の分の成績表である。
1年前期の成績と合わせて考えてみても、成績自体はそこまで悪い訳ではないが――そこから占われる未来の予想図は、目を背けたくなるほど暗澹としていた。
流石に、荒廃した未来世界を描いたディストピア小説の世界観ほどには、救いのない未来ではない。とはいえ、大団円を約束された希望の物語のような明るさとは無縁である。例えるならば、難易度の高いゲームにペナルティ付きで挑むようなものだろうか。無論、その場合のゲームは、自分にとって極めて分の悪い勝負である。
鬱屈とした思考に相馬の心が折られそうになっていた時、ほんのりと甘い花のような香りがした。――些かながらも不愉快な気配と共に。
「どうだった、相馬くん?」
そんな相馬の内心を見透かしているかのように、同級生の媛河由紀が、自分の成績表を片手に尋ねて来た。
相馬よりも頭ひとつ分ほど低い背丈を屈ませ、由紀は座る相馬と視点の高さを合わせた。
子供のように愛らしい印象を与える澄んだすみれ色の瞳は、ただ無垢な子どものように純粋な光だけを湛えているだけではない。獲物をいたぶる猫のような、無邪気な凄惨さも兼ねている。
初対面の人間は、最初はこのあどけない容姿に騙され、彼女の中身を知るや否や、頭の痛い思いをする事だろう。
事実相馬も、実際に打ち解けて話すまでは、由紀がこうも一癖も二癖もある性格だとは思っていなかった。
如何せん、会話をするだけで一気に疲れが押し寄せて来るような少女だ。それにもかかわらず、由紀は友達が少ない訳でもない。むしろ社交的な性格である為に、学校の中でも気軽に話せる友人は多いようだ。
あるいは、彼女が一方的に押しかけているだけなのかもしれないが。
上半身を斜めに屈ませた所為で、胸のあたりまで真っ直ぐに伸ばしている薄紫色の髪が垂れ、その持ち主である由紀の視界を塞いだ。それを右手で押さえながら、由紀は相馬の成績表を盗み見ようと顔の位置を調整している。
せわしなく頭を動かす度に、由紀の長い髪が揺れて、鼻腔をくすぐるような仄かに甘い香りが舞う。
決して不快な匂いではないが、相馬はなんとなく目障りに思った。この場合は視覚ではなく嗅覚に訴えられているので、鼻障りとでも言うべきだろうか。
視界の端をうろちょろされるのはやはり不愉快であり、些か目障りではある。せめてじっとして欲しいものだと相馬は思う。
相馬は嘆息し、由紀の方を見ず投げやりに答えた。
「……想像に難くない成績だったよ」
彼は自分の成績表を見て、新学期早々暗澹とした気持ちになっている。窓の外に目をやってみるが、空は見事に快晴だった。まさに勝者を祝福する景色だ。敗者にも等しい身の上には、自分が天に嘲笑われているかのような気分にもなる。
「『想像に難くない』の使いどころが違うような気がするけど……でもまあ、ここにいるって事は、無事進級出来たんだね」
厳密には、この学校には『進級』という制度はない。生徒の年齢としては一般の高校生に相当するものの、講義の履修や単位に関する仕組みは、いわゆる大学のそれと同じだ。
拗ねたような目を由紀に投げかけ、相馬は自嘲するような口調で答えた。
「ああ。単位も無事貰えたし……今年もみんなと一緒に講義を受けるよ。……はぁ」
期待していた反応が返って来て楽しいのだろう。由紀は尚も相馬をからかい続ける。
「新学期早々、テンション低いねぇ。これからまた新しい1年が始まるというのにさ?」
「新しくなるのは講義内容だけだろ。……はぁ、すっと春休みが続けばよかったのに」
不得意な内容の講義がこれから増えていく事を考えれば、そう思ってしまうのも無理は無い。冗談のつもりで言ったこの言葉には、少なからず相馬の本音が含まれていた。
「その夢を実現させたいんだったら、時間操作の魔術でも開発しなきゃね。まぁ、無理だけど。あははっ」
時間操作の魔術――戦闘の場面で使う事を念頭に置かないのであれば、精密な魔力の操作のような、相馬が得意とする分野が重視される事になる。戦闘用ではない魔術を開発するのであれば、それは相馬にとって適しているといえよう。
「時間操作か。研究とか開発とかだけだったら、あんなヘマはしないだろうし……将来は不老不死になる魔術の研究でもするかな」
「あはははっ! 残念だねぇ、ラシタンコークに研究者専門コースがなくて」
妄想を喚起させた由紀本人の言葉によって、相馬は早くも現実に引き戻された。
由紀の言う通り、相馬達の通うラシタンコーク神学校には、魔術に関する研究のみを専門とする進路を用意していないのだ。研究職に就くには、実戦を念頭に置いた魔術の行使を中心としたカリキュラムで好成績を収め、その上で戦闘とは極力距離を置くスタンスを取る必要がある。研究職志望だからといって、実戦的な内容の講義から逃げられる訳ではない。
そもそも、大抵の魔術研究者は一流の“魔術師”だ。実戦での戦闘力は低いが研究・開発においては優秀、という人物はそうそういない。どちらも優れているか、あるいはどちらもいまひとつか、といった人の方が圧倒的に多い。
つまり、完全な“武闘派”魔術師や完璧な“研究派”魔術師は、極めて稀な存在なのだ。
現実としてそうなっている理由の半分は魔術の仕組みによるもの、もう半分は魔術的な教育機関としての地位を独占しているラシタンコーク神学校の教育方針やカリキュラムによるものである。
「新しい魔術の開発以前に、戦闘で活躍出来る事が大前提だなんて……事件は現場だけで起こっている訳じゃあないだろうに」
「うーん……その言葉も、なんとなく使いどころが違うような……?」
「いいよ、別に。……ああ、時よ止まれ。ていうか巻き戻れ。もういっそ、石器時代を生きたい」
「妄想は適当なところで切り上げて、そろそろ現実見なよ? 魔術でも無理なものは無理なんだからさぁ」
人に話を振っておいて、乗ったら乗ったでこの有様である。最初から無理難題、ただの冗談だという前提で話題を提示したのは誰の目にも明らかではあるが、それでも相馬は何処か不服な表情だ。
相馬は軽く溜め息を吐き、成績表を鞄の中に仕舞った。
由紀の顔ならまだしも、この成績表はもう見たくなかった。全体的には優秀であるとはいえ、今年度から講義の中心となるような実践的な科目に限って成績が悪いので、とても自慢出来るものではない。
むしろ、卑下しても嫌味にはならないくらいだ。それどころか、面白おかしくからかってくる者も、中にはいる。
「もしも時間を巻き戻せたら、“色々と”やり直せるだろうに……残念だったネー」
「時間が巻き戻ったところで、結局、俺は俺だからな。やっぱり同じ悩みを抱えているんじゃないか」
「あはははっ! ですよねぇー。まぁ、わたしもヒトの事言えないようなトコあるけどさ」
――このように。
そんな相馬の弱みに付け込むかのように、由紀は実に愉しそうな顔で相馬に絡んで来る。
相馬は決して由紀の事が嫌いではないが、彼女のこういうところにはいい加減辟易していた。
「分かってるよ、ったく……」
そこで、ふと、相馬は由紀に仕返しをしてやろうかと思った。
攻撃の札は春休みの間に、偶然見付けた。尤も、実際に試してみるまで、それが攻撃手段として有効かどうかは定かではないが。
「――ところで媛河。今さ、ネット上でのハンドルネームを作るのに困っているんだけど、何か丁度いいネタとか、ないか?」
突然に話題を変えられて戸惑ったものの、由紀は唇の下に人差し指を当てて思案した。
「……やっぱり困ったときは、アナグラム、かなぁ? 便利だし、考えるの楽しいしね」「……なるほど、なるほど。サンキュー」
何やら不気味な含み笑いで、相馬は由紀に礼を言う。その態度から不穏なものを感じ取った由紀は、またも捕らえたねずみをいたぶる猫のようないやらしい眼つきで相馬に詰め寄った。
「えー、なになに? ハンドルネームを作るのはいいとして、一体何を企んでいらっしゃるのかなぁ、御仁は?」
罠に掛かったのは自分の方だとも知らず、由紀はさも愉快げに相馬を尋問しようとしている。成績の件で不愉快な思いをさせられた相馬だったが、早くも反撃の好機を得た。
「いやぁ、アナグラムで色々と文字を並べ替えるのは楽しそうだな、って思ってネ。媛河は、自分の名前の文字とかを並べ替えているのか?」
由紀の表情が少しばかり引き攣ったものになったように見えたのは、果たして相馬の見間違いだろうか。
「えっ……でも、それって1回か2回くらいしか使えないよネー、アハハ……」
にもかかわらず、こうも簡単に誘いに乗るとは、やはり由紀は馬鹿なのだろうか、と相馬は思った。由紀の様子を見る限り、どうやら図星のようである。
「“ヒメノカワユキ”を並べ替えるとすると……そうだなあ……例えば“ユノカワヒメキ”、とか?」
その名前を聞いた時の由紀の反応は余りにも露骨であり、相馬からすると、見ているこっちが申し訳なく思えて来るようなものだった。どうやら、『湯野川姫月』なるハンドルネームのアカウントを、由紀は秘匿しておきたいという気持ちがあったらしい。
「――図星だな」
「ど、どうしてその名前を……」
冷や汗を垂らして動揺する由紀をしげしげと見つめ、相馬はしたり顔で答える。
「お前くらいだよ。ブログにあんな訳の分からない書き込みをしたり、『麻薬体験』だとか何とか、意味不明な動画をアップロードしたりするのは。
……挙句の果てに、勝手に在りもしない『ラシタンコーク東アジア七不思議』とか作りやがって。何考えてんだ?」
「ははは……バレていましたか」
そう言って視線を逸らす由紀だったが、その表情から察するに、湯野川姫月の正体が媛河由紀であると看過されたところで、今まで通りに、インターネット上での湯野川姫月の活動を続けて行く所存だろう。
そのアカウントの正体を知ってしまった者にとっては、些かながら頭の痛くなる思いだ。
由紀であれば仕方がないといった諦めと共に、彼女の持て余している子ども染みた活力や時折不謹慎にもなる冗談に対して、いい加減成長してはどうかと思うものだった。
「全く……そんなに暇なのか、お前?」
「いやいや、アレはわたしの趣味ですよ、お兄さん。趣味って結構大事だよー? 相馬くんも、これといって趣味もないような、つまらない人間になっちゃダメだよ?」
「……俺だって、全く趣味がない訳じゃないさ。ヒトをつまらない人間呼ばわりするなよ」
憮然としてそう反論するも、実際、相馬には“趣味”と呼べる程の熱中しているものは無かった。色々な事に興味があるものの、これといって特別熱中しているようなものは無いのだ。
インターネット上の存在の“中の人”を特定してみる事で由紀に一矢報いたかと思ったら、いつの間にか、今度は相馬が由紀に攻撃されていた。当の由紀も、姫月の正体が割れてしまった事を、そこまで気にかけてはいないようだ。
当然と言えば当然だろう。精々が、『学校での普段の自分』以外の自分を見られた恥ずかしさ程度しか感じていないだろう。そして、それも直ぐに慣れる。早速由紀は相馬の新しい認識に対応したようだ。
我ながら無様だと、相馬は思った。中々どうして、この少女には口論めいたもので勝つ事が出来ない。
尤も、勝敗の規準など、双方共に明確に意識してはないだろうが。