2-7
由紀達との会話で腹を立てた相馬は、部屋を出た後、宛てもなく校舎を彷徨っていた。
既に放課後といっていい時間帯ではあるが、多くの生徒がまだ校舎に残っている。彼らはそれぞれ相馬を見かけるなり、露骨に目を逸らしたり、街中で偶然芸能人を見かけて喜ぶかのように遠巻きに眺めたりと、様々な反応を示している。
そのような反応をするのは大抵、相馬にも見覚えのある顔だった。相馬が知らない生徒は、他の生徒に囁かれない限り、相馬を背景の一部同然に見ている。ちょうど、相馬もまた知らない生徒を風景と共に視野に入れるように。その方が、かえって相馬にとっては心地良かった。少なくとも、いたずらに囃し立てられる事はない。
本当の意味で友好的に接してくる人物は、案の定1人もいなかった。
彼らは寮に帰らないのだろうか。そう思った相馬自身、自分が寮に帰ろうとはしていない事に気が付いた。
(……誰かにこのモヤモヤをぶつけたいとか、そんなふうに思ってるのか? ……まさか)
否定してみたが、やはり誰かと話したいという欲求は消えなかった。
もしかしたら、由紀に指摘された事は予想以上に相馬の心に棘として刺さっていたのかもしれない。あのように熱くなる事自体、言われた事を気にしている証拠だ。身に覚えの無い事であれば、憤慨こそすれ、このようにやり場の無い怒りを抱え込む事はない。
むしろこの怒りは、自分自身に向けられるべきものなのかもしれない。決断を先送りにし、力を自覚する事から逃げてきた自分に。あるいは、こうなると分かっていながら、安易に秘密を明かしてしまった自分に。
この怒りは、向けられるべき対象に向けられていないから、やり場がないように思えているだけなのかもしれない。
いくら考えても答えは出ず、堂々巡りを繰り返すだけだった。繰り返す度に、通り掛かった生徒や、視界に映りこんだ生徒に気が障る。
(人の事をじろじろと見やがって……見世物じゃねぇぞ。ったく)
生徒達が相馬に投げかける視線は様々だったが、その中に相馬への友情はひとつとして含まれていなかった。
羨望があった。嫉妬があった。低俗な好奇の目もあり、素性を訝しんでいるような猜疑に満ちた目もあった。
その中のどれをとっても、視線の先の少年を『園蒙間相馬』という個人として見てはいなかった。誰もが、蜘蛛型のモンスターを倒し、昨日の事件を解決した英雄として彼を見ていた。それは、自分とは違う世界に住む人間を眺める、生々しさの欠けた目だった。
分かってはいたのだ。あの剣を抜き、膨大な魔力を放出すれば、その後の自分の生活はどうなるのか。自分が他人と違うところを見せればどうなるかという事は。
分かっていても、この力に頼らざるを得なかった。そうしなければ、由紀は今頃、あの黒い影達によって殺されていただろう。その後で、相馬も彩香も瑠依も、皆あの黒い影や巨大な蜘蛛に殺された。
実に当然の想定だ。だからこそ、相馬はあそこで剣を抜かざるを得なかった。
苛立ちを募らせながら歩いていると、相馬は自分を呼ぶ声に気が付いた。
「おーい、相馬くーん」
由紀だ。咄嗟の事に、相馬はやり場の無い苛立ちをぶつけるような応答をしてしまう。
「……何だ?」
相馬の声音は、相馬自身が思っていたよりも、ずっと険悪なものだった。
これでは完全に八つ当たりだ。そう思ったが、今更態度を変える事も出来ない。相馬は憮然とした面持ちで、自分の方へ歩いて来る由紀を迎えた。
「いや、ごめんね。ちょっと話しておく事があるというか、なんといういか」
「俺が逃げてる、って話か?」
「違うよぉ。まぁ、確かにそれもあるかもしれないけど……」
やはり、由紀はまだあの話題を続けるつもりでいるらしい。相馬としてはこれ以上続けたくはない話題だったが、露骨に避けるというのもまた、やましい事柄から逃げているというだけの事だ。
「じゃあ何だ? 五月病の季節にはまだ早いし、鬱の心配とかはしなくていいぞ?」
「いやいや、そんなんじゃないから。ていうか、五月じゃなくても、鬱になる時はなるよ。ホントに」
由紀と歩きながら、相馬は他愛もない話を振った。
他の話題へと移行させていけば、嫌な話題を避けて通る事が出来るだろうなどという、打算的な判断で行った訳ではない。しかし結果として、これはそう思われても仕方のないような有様だ。
一度ハンドルを切ってしまったおかげで、会話の進路は当初の予定から逸れ初めて来ている。戻すには相応の作為が必要だ。
「そりゃあ大変だな。掛かり付けの医者とかいるのか?」
しかし気が付いた時には、相馬は由紀との益体のない会話に講じる構えとなってしまっていた。
そっけない相馬の返事に、由紀は口を尖らせる。
「人をメンヘラみたいに呼ばないでよ。どう見ても、わたしは鬱病とかには罹ってないでしょ? そういう人はだいたい、目を見れば分かるそうだけど」
「確かに、お前は鬱とかに罹ってはなさそうだな。幸せそうだよ」
(――脳みその中がな)
口には出さず、相馬は心の中で付け加えた。
「んん? どういう意味かな、それ?」
相馬が言わずに伏せておいた言葉を、由紀はすぐに見破った。尤も相馬としても、隠すつもりなど毛頭無かったが。
「さぁ? どういう意味だろうな」
由紀の問いを、相馬は適当にはぐらかす事にした。1人で鬱屈とした煩悶を抱えていた時と比べ、随分と肩が軽い。相馬は自分の気分が決して険悪ではない事に気付く。
「悪意を感じるよ。むしろ悪意しか感じないよ」
「褒めてるんだから、素直に喜べよ」
「絶対に褒めてないでしょ、それ。バレバレだよ?」
視界に映る目障りな生徒達は、相変わらずこちらを見ている。何処となく面白がっているようなその表情は、見ているだけで相馬を苛立たせる。先程よりは気分が楽だとはいえ、やはり不愉快なものは不愉快だ。
相馬は溜息をひとつ吐くと、由紀の方を見ずに呟いた。
「バレるとは夢にも思ってなかったな」
「相馬くんの目には、わたしはそんなに馬鹿に映っているのかな?」
「わざわざ答えるまでもないだろ。……やっぱり、掛かり付けの医者とかいるのか?」
先程と同じ台詞だが、今度は意味が違った。
「そんな便利な医者はいません」
言葉にまではしなかった、医者に診てもらう必要がある程に頭がおかしいという指摘に対しては、由紀は否定の意を示さなかった。自覚があるのだろうか。
「それもそうだな。いや、むしろそれは教師の仕事か? ……じゃあ、京目先生あたりかな。あの人、治療系の魔術が専門だし。ある意味医者っぽい」
「京目先生の専門は、傷の治療でしょ? 外科だよ? そもそも、魔術の治療は基本的に全部外科だよ」
「それもそうか。内科や精神科はいないよな」
頭のが緩んでいる人に対する治療は、領域としては精神科に分類されるのだろうか。ふとそう思った相馬だったが、すぐに否定する。精神科の仕事は、精神疾患を患った人を治療する事だ。頭の捻子が緩んでいる人間はただの馬鹿であって、精神病の患者ではない。
「そうだよ。……って! さっきから、わたしが馬鹿である事を前提に話を進めてるでしょ?」
「え? 違うのか?」
ようやく、由紀は会話に潜んでいた問題点に気が付いたようだ。その些か遅い反応に、相馬は内心苦笑する。
「違うよぉ。それとも、相馬くんの目にはそう映っているのかな?」
それは相馬にとって、答えを出すのに大した手間の掛からない問いだった、恐らくは瑠依も、もしかしたら彩香も同じだろう。
「鏡でも見て、考えてみればいいじゃないか」
そう吐き捨てる相馬に対して、由紀は呆れたような仕草をした。
「やれやれ、キミの目は節穴なのかな? ははーん。もしかして、掛かりつけの医者とかいるの?」
「ねぇよ。至って健康だ。目もいいし、虫歯もない」
「うわぁ、いいな。羨ましい――って、また脱線しちゃったよ!」
相馬の隣を歩きながら、由紀はいつもの屈託のない態度で言った。中々話の本題に入れない事に痺れを切らしているようにも見えるが、この雑談を楽しんでいるようにも見えるので、差し引きゼロといったところだろうか。
「そりゃあ酷い。鉄道会社は責任を問われるな」
「果たして、上層部の首はどうなるのか。――って、違う違う! 大事なのはそこじゃないよ。割と真面目な話をしに来たんだよ、今は?」
何処へ向かうでもなく歩きながら、相馬は相手の顔を見ずに冷笑を返す。
「真面目な話? 媛河が? ……まさか。さてはお前、偽者だろ」
「わたしは由紀の偽者じゃないもん。本物のニセ由紀だもん」
「不審者か。じゃあ通報するか」
自分が本物であると主張しないのは、ふざけているからなのだろう。真面目な話をしに来たと言っておいて、本当にする気があるのかと、相馬は内心呆れた。
「そう。昨日の不審者の事で、話があるんだよ」
意外なところで足元を掬われるような形になり、相手を嗤うような相馬の嘆息は途中で止まった。そのまま、文字通り息を飲む。
相馬は足を止めた。一瞬遅れて、由紀もまた立ち止まった。