12-5
途方に暮れる相馬を置き去りにして、霧壱は1人、校舎の外れを宛てもなく歩いていた。
散歩とでも言えば聞こえがいいかもしれないが、今の彼の心情を踏まえれば、散歩というよりも迷子になった子供がふらふらと彷徨っているようなものだった。
無論、ここは彼の見知った場所なので、本当に迷子になるという事はない。だが、霧壱は自分が何処かに迷い込んでいるような、あるいは何かを見失ってしまっているような気がしていた。
今にして思えば、確かに相馬の判断や行動は些か思慮に欠けたものだったかもしれない。
連合に対する不信感や、公的機関の権力を盾に人の所有物を押収しようとする考え方に対する反感は、霧壱にも理解出来る。それでも尚、もっといい立ち回り方があったのではないかという思いは拭えない。がむしゃらに悪者を倒して自分の「正しい力」をアピールするというのは、望ましい選択ではなかったかもしれない。
とはいえ、霧壱にはそれを非難する権利は無い。
相馬1人では何かしら失敗を起こすだろうと老婆心を抱き、クイドガの討伐に同行したのは霧壱なのだ。むしろ責められるべきは自分だと、霧壱は思う。相馬などという愚か者の好きにさせてはならないなどと思っておきながら、実際には何も出来ていない。むしろ、彼の愚行を後押しさせただけだった。
結局、自分もまた愚か者だったという事だろうか。
目の前で相馬などに愚かしさを披露されては、その見苦しさに対して耐え難い苛立ちを覚えてしまう。そうなってしまっては、自身の欠点や行動の浅はかさに目が行かなくなってしまう。怒りと嫌悪感で心が平静さを失い、余裕が無くなるのだ。
霧壱はかつての師、粛己義悌の姿を、脳裏に思い浮かべた。
教師というものは、自分よりも劣る者を相手にしなければならない仕事だ。自分より優れた者に教える事など、ありはしない。
それはさぞや苦痛だろう。少なくとも、霧壱にはそれに耐える自信が無い。自分より劣る者を相手にしてばかりいると、自分の弱さや愚かさを見失ってしまう。そして自覚の無いままに増長や慢心が始まり、かえって弱く愚かな道化へと堕するのだ。
彼もまた、冷静さを見失って道を踏み外してしまった者の1人だ。教師にさえなっていなければ、彼は過ぎた理想に身を焦がす事もなかったのだろうか。無知な若者に教鞭を揮う日々は、彼の眼を曇らせてしまったのだろうか。
とはいえ、死人に口無し。今となってはもう、真実は藪の中だ。
金色に輝く腕輪を手に取り、ポケットから取り出して眺める。師を倒した新たな武装を前に、様々な感情が霧壱の胸に去来した。
霧壱は遂に自分の信念を曲げ、自身のものではない力に頼った。戦術を補佐する程度の小さな武器ではなく、戦術を根本的に変える程の武装を使ったのだ。
だからこそ、霧壱は今もこうして生きている。あの時意地を張って、分析用にと回収していた『骸縛霊装』を解禁していなかったら、霧壱は己義悌の手によって葬られていただろう。本気で殺す気は無かったとはいえ、頑固な信念もそこまで行けば、己義悌も呆れ果てて見捨てていたに違いない。
自分以外のものが、自分をより自分らしくしてくれる。己義悌はそう言った。
そしてそれは皮肉にも、己義悌自身が『骸縛霊装』を使用する事で例を示した。他者と心を通わせようとしない閉じた精神を具現化したような、敵を寄せ付けない戦い方。それは彼本来の戦い方である近接戦闘よりも、よほど彼の精神性を表していた。死の淵を覗き込んでいたあの時は嗤う余裕も無かったが、なるほどこれは滑稽な話だ。
捻くれて歪曲した条理に、霧壱は言葉を失って嘆息するばかりだった。何故こうも、世界というものは皮肉に満ちているのだろうか。
とはいえ霧壱も、その点において不快に思う限りではない。むしろ、その悪辣さのおかげで新たな発見もあった。何処か矛盾を抱え込んでいるような自分の信念に、ひとつの答えを見出す事が出来た。今まで気付いていなかったというだけで、何ら矛盾など無かったのだ。
霧壱は、ただひたすら絶対的な強さを求めていた。他の何者にも頼らない、唯一絶対に裏切る事のない、自分自身の力を。
故に彼は、他人の力を頼りにするような脆弱な在り方を、決して受け入れようとはしなかった。その頑なな拒絶の意志が、霧壱を一種の差別主義的な思想へと駆り立てていたのだ。
しかしそれは裏を返せば、ともすれば直ぐにでも他人の力を頼りにしてしまう弱い自分を是認出来ない、心の弱さの証明に過ぎなかった。
人は1人では生きていけない。だが、自分以外の存在は裏切る可能性を必ず秘めている。その二律背反の果てに霧壱が見出した理想は、“孤高”という姿だった。
決して他者と交わらない訳ではない。非協力的になる事も、自分だけの殻に閉じ籠る事もしない。ただ己の強さのみを信じるが故に、他者はその姿に憧憬を抱き、自立した上で互いに切磋琢磨しようする。その先に目標として在るのが、“孤高”という唯一無二の座だ。
霧壱とて、集団の輪や仲間意識といったものを蔑ろにしようと考えている訳ではない。仲間との協調くらいは出来てこそ、孤高の存在として在る事が出来る。それは孤独と似ているように見えたとしても、その内実は全く異なるものだ。無論、唯我独尊の暴君でもない。
だが――
(園蒙間も、俺と同じ事を考えていたのかもしれない。だが、今のところ奴は失敗している。そして、その責任の一端は俺にもある)
現在彼の頭を最も悩ませているものは、自分と同じく孤高を目指していたとも考えられる、1人の少年だった。
相馬の内心など霧壱には知る由もないが、彼の今までの行動には、霧壱の信念と何処かで似通っているところがあったようにも思える。
彼もまた、力を持つ者としての重圧を背負おうとしていた。
その力の在り様から霧壱は相馬を否定していたが、それ以外の点においては、霧壱と相馬の間には意外にも通じるものがあった。それこそ、魔術師としての核とも言える信念、強者としての誇りと責務への認識だ。
尤も相馬には、それを受け入れる事が出来なかったような場面も多々あったが。
(園蒙間がやり方を間違えたのか……俺も含めて、考え方が足りなかったのか……)
霧壱は深く溜め息を吐いた。気掛かりなのはそこだ。
まさかとは思うが、ようやく見出した己の信念すら、思考の足りない稚拙な理想に過ぎないという事はないだろうか。現在相馬が陥っている苦境は、霧壱にとっても他人事ではない、必然の帰結に過ぎないのではないのか。
自分が抱えていた矛盾を解決した事も、淡いぬか喜びだったのではないか。疑念が疑念を呼び、不安と焦燥が心の内でする。
孤高、英雄、頂点、王――そういった言葉は、道理を弁えぬ愚か者が抱く、浅ましい願望を表したものに過ぎなかったのではないか。
現実を理想に作り替えていくには、力が必要だ。だが、力を手に入れても尚、現実は以前として過酷であり、そして不条理だった。
(俺達に足りなかったもの……それは、何だ? 何が足りない所為で、俺達は失敗したんだ?)
因果応報。失敗した者には、その代償を支払わなければならない時が必ず来る。
そして、それは理不尽にも、時には無関係とも思える者達まで断罪される。処罰の対象は、失敗した本人だけとは限らない。汐町彩香も、そうした犠牲の1人だ。
祭壇には、多くの生贄が供えられる。道連れに制裁を受ける者達の阿鼻叫喚によって、罪悪感という新たな刑が執行される。この世の因果応報のシステムは、何処までも悪辣で陰惨だ。如何なる場合においても、罪人に抒情酌量の余地は与えられない。
そしてまた、無慈悲な神は咎人を裁く。
人が神の失敗作なのか。あるいは、神が人の失敗作なのか。
復讐と自衛への渇望が、またしても人を凶行へと駆り立てる。神の見えざる手に導かれ、己の意志で剣を取る。そして、未来の罪人は、今の罪人を処刑する。
己の失敗が、己の罪が審判に掛けられた。これから刑が執行される。
近付いて来る魔術師の集団を視界に留め、霧壱は金色に輝く腕輪を左手首に装備した。力を持つ者としての在り方を間違えた自分達は、運命の渦に巻き込まれて処刑される。
だが、まだ死が確定した訳ではない。たとえ醜くとも、何か出来る事がある限りは足掻き続ける。それは力の無い者の姿かもしれないが、ただ殺されるのも同じ事だ。
(なんとなく分かる。俺達がそうだったように、奴等も失敗する。奴等も……たとえ無事にレオの剣を回収出来たとしても、その後で必ず何らかの問題に直面する。なら――)
革命はやがて、次なる革命を呼ぶ。盛者必衰の理と共に、この地球上で何度も繰り返されて来た厳然たる事実だ。
ただの一度も、この因果の鎖を断ち切った者はいない。断ち切ったかに見えたとしても、頑なに解けない呪縛は未来に災いを誘って来た。
(――なら、一体誰だったら成功出来るっていうんだ?)
出口の無い迷路の中を彷徨う、傲慢で矮小な存在。その中から、永遠の袋小路を断ち切る英雄は、果たして現れ得るのだろうか。