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足元に転がる瓦礫を避けながら、媛河由紀は市街地の外へと向かって歩いていた。まだ体力が十全に戻った訳ではないが、それでも彼女は歩き続けている。この状態で敵と遭遇でもすれば堪ったものではないが、動き回る事以上に戦場に留まり続ける事の方が危険だった。ここは危険を覚悟して安全を確保するしかない。
肉体的にも精神的にも疲労が蓄積しているが、自分はまだいい方だと由紀は思う。肩を貸している友人は疲れているだけではなく、怪我をしているのだ。互いに応急処置は施したが、如何せん治療系の魔術に関してはここにいる3人全員が素人であり、特別適性がある訳でもない。応急処置を施したといっても、たかが知れている
汐町彩香の右腕を肩に抱えながら、由紀は1歩ずつ歩いて行った。反対側では、咬丹瑠依が彩香の体を支えている。この3人の間にはそれぞれ身長差があるので、負傷者を抱えるのは少々面倒なところがある。
支える立場でも支えられる立場でも、由紀はまだいい方だ。彩香よりは背が低く、瑠依よりは高い。大きな身長差に苦しむ事も、自分を支えてくれる友人を苦しませる事もない。
問題は残りの2人だ。小柄な瑠依には、背の高い彩香の肩を持つのは大変だろう。もし2人の立場が逆であれば、彩香は姉妹のように瑠依を背負っていたかもしれないが。
「無理しなくていいよ、瑠依。自分で歩けるからさ」
彩香が視線を左下に転じて言う。彼我の体格差を鑑みて、瑠依の負担を心配したのだろう。負傷の程は彩香が最も深刻だが、由紀と瑠依も決して無傷ではない。彩香を支えながら歩くのは、楽な事ではないはずだ。
「強がりはいいから、黙って歩きなさい。あなたが一番怪我が酷いんだから」
しかし瑠依は、視線を前に向けたまま彩香をあしらった 。口先こそ冷たく突き放すような態度だったが、反面、肩に乗せた彩香の腕を支える手は、慈しむように暖かい。その優しさを分かっているからこそ、さも突き放したかのような瑠依の物言いに、彩香はかえって困った顔を見せる。
「いや、強がりじゃなくてさ。ほら、杖もあるし」
そう言って彩香がちらつかせた物は、杖などではなかった。尤も、本来の用途はともかく、現在の用途としては杖以外の何物でもないが。
「その“杖”が邪魔で、こっちは歩きにくいのだけど? 使い終わったんだから、さっさと捨てたら?」
自分の足のすぐ近くで地面を踏む弓を、瑠依は足先で軽く小突く。瑠依の正直な気持ちとしては、自分が歩く上ではこの“杖”が邪魔で仕方なかった。
この弓は、先の戦闘で彩香が拾ったものである。無論、魔術師が自らの魔術の効果を戦場で最大限に活かす為の、魔術的な措置を施された代物だ。この弓を使って魔弾の速度や射程距離を拡張する事により、彩香は先程、見事に敵を狙撃してみせたのだ。
王手を担った栄誉ある武装は今、負傷している新たな使い手が歩く為の“杖”として使用されようとしている。尤も、既に先程も、一度このような使い方をされたのであるが。
「ヤだよ、気に入ったモン。だからホント、気持ちはありがたいけど、無理しないでって」
彩香はそう言うが、瑠依は憮然とした顔のまま、黙って彩香に肩を貸している。その様子を、由紀はいつもの嫌らしいにやけ顔で見守っていた。
「……何?」
その視線を訝しんだ瑠依が、些か不機嫌そうな顔で訊ねる。由紀がこういう一見して無邪気そうな笑顔を湛えている時はろくな事がない。彼女の場合、無邪気な顔にこそ邪気が宿っているものだ。
不審そうな眼差しを向けられた由紀は、やはり嬉しそうだ。そして、待ってましたとばかりに口を開く。
「えへへ。瑠依ちゃんは素直じゃないからねー。怪我してる彩香ちゃんを心配してるんなら、素直にそう言えばいいのに」
まるで瑠依の内心を見透かしているかのような口振りで、由紀はさりげなく言ってのけた。
「えっ、そうなの瑠依? いやぁ、照れるなぁ。瑠依も可愛いトコあるねぇ」
その冗談めかした言葉に、彩香が便乗する。当然、瑠依の表情は更に固くなった。
「呑気に喋るだけの体力があるなら、別に肩を貸さなくてもいいわね?」
「いやいや、気が変わったよ。こうなったら、このまま抱きついてやろうかー?」
「やめて頂戴。馬鹿がうつるわ」
口ではそう言うものの、傍目には不愉快そうな表情の瑠依は、しかしよく見れば笑っているようでもあった。
他愛もない話を挿みながら、3人は街のラシタンコーク神学校の東アジア校を目指して歩いた。
大分静かになったものの、市街地は危険だと判断した方がいい。学校ならば、一応は避非常時の難場所として指定されている。とはいえ、人里から幾らか離れた森の中にある建物などに、一体誰が避難するのだろうというものだが。
避難するのであれば、もっと近い場所を目指すのが定石である。とはいえ、魔術師による保護を求めなければならない状況なら、利用する人も多いのだろうか。地理的な不便さを補って余りあるだけの安全性は、確かにあるだろう。
「もうちょっとで街から出られるから、それまで頑張りましょう。街の外に出たら、残った魔力でモンスターを作るから、それに乗って学校まで行けるわ」
彩香を支えて歩きながら、瑠依は残存する僅かな魔力の回復に努めていた。なるべく早く戦場から脱出するべきではあるが、如何せんモンスターを生成するだけの魔力が足りていない。力が回復し次第、移動に適したモンスターで学校までの道を急ぐつもりだった。
大凡、歩くペースと魔力を回復させるペースから考えて、街の外に出る頃にモンスターを生成出来るようになるだろうという算段でいた。
「ありがとー瑠依ちゃん。あと一踏ん張りだよ、彩香ちゃん。一緒にがんばろ」
「おーう。しんどいけど頑張ろー」
瑠依の見積もりを聞き、由紀と彩香もまた大凡の算段を付けて歩き続けた。
会話の途切れた静寂に、6本の足が不規則に地面を踏む音が響く。
「……いやー。でもさぁ、やっぱり2人は凄いなって思ったよ」
とはいえ、唐突に由紀が再び口を開いた為、沈黙はそう長くは続かなかった。沈黙に耐えられないという事はないのだろうが、彼女は余程お喋りが好きらしい。
「『凄い』って、何が?」
「どこから『でも』に繋がったのかが分からないわね。接続詞がおかしいわ」
彩香は率直に、瑠依はやや偏屈に、それぞれの態度で由紀の呟きに答えた。応答を受けた由紀はやはり嬉しそうな顔をしているが、さも神妙そうな顔をして頷いてみてもいる。
「なんて言うのかねぇ。彩香ちゃんと瑠依ちゃんは、もう立派な魔術師なんだなぁ、って思ってさ。わたしはまだ全然ダメだけどさ」
由紀の感想に、2人は解せないといった表情を浮かべた。
「いやいやいや。私だってまだまだだよ」
「そうね。私達を比べても、ドングリの背比べにしかならないわ」
2人の否定に、由紀はかぶりを振った。
「わたし、まだちゃんと実戦を戦えてないもん。
魔獣の相手なら、まだ何とかなったけどさ。魔術師との戦闘は全然ダメだったよ。その辺、2人はちゃんと戦ってたじゃん? それって凄い事だよ、きっと」
由紀の言っている事を理解出来ず、彩香と瑠依は困惑した。感想の趣旨は概ね理解出来たが、由紀がそのような感想に至った経緯が、さっぱり分からなかったのだ。由紀が評価する程、彩香も瑠依も、自分が一人前の魔術師だという自覚は無い。
「何ていうか……相手が化け物じゃなくて、ちゃんとした『人』でも、しっかり戦えてるんだな。って。霧壱くんの言ってた事、身を以て分かったような気がするよ」
由紀の説明は甚だ詳細を欠いたものだったが、彩香と瑠依は大凡察する事が出来た。それは2人にとっても、そう簡単には頭から離れてくれない問題だったからだ。
「……当然でしょ。やらなきゃ、やられるのはこっちなんだから。形振り構っていられないわ」
氷のような冷たさを思い起こさせる鋭利な声で、瑠依はそれがさも当然の事であるかのように返した。由紀と彩香がその表情を横目で窺うも、俯いてそっぽを向いてしまっている瑠依の表情を見る事は叶わなかった。
「それが、魔術師になるっていう事でしょう? 毛利君も割と馬鹿だとは思うけど、その辺はしっかり弁えているわ。そういう意味では、私達なんかよりずっと賢い」
人の感情を感じさせない程に冷え切った声。由紀には、それが自分の本音を理性で押し殺しているが故の冷たさのように感じられた。
理路整然としているところは普段の瑠依だが、それ以外の一切において、普段の彼女ではなかった。自然体ではない事は明白だ。
ともすれば冷酷にすらなれそうな雰囲気を持つ瑠依だが、当然ながら、中身までそうである訳ではない。由紀にも、そして彩香にも、その事はよく分かる。