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空が吼える。地が猛る。無音の雷鳴が静寂を打ち、逆巻く疾風が渦を巻く。
それは決して、天変地異によるものではない。無数の魔獣が群れを成し、破滅の調べを奏でている訳でもない。
たった1人の魔術師が、己の魔力を解き放った事によるものだ。
「……相馬?」
瑠依が訝しむのも無理はない。相馬の体から発せられた魔力が周囲の大気を揺るがし、蒼然とした輝きを放っている。尋常ではないその量と密度は、名立たる歴戦の魔術師の魔力すら遥かに上回る。
相馬の右手には、いつの間にか一振りの剣が握られていた。刃渡りは1メートル弱、柄の長さから見て、両手で振るう事も考慮に入れて造られたのだろう。蒼い魔力を受けて輝く白銀の剣は、装飾の少ないシンプルな諸刃だった。
瑠依は、その剣に見覚えがあるような気がした。しかし、その剣が何なのかまでは思い出せなかった。
「ふざけんなよ……」
相馬の声は怒りに震えていた。
その怒りは、誰に向けられたものだったのだろう。後悔すると分かっていながらこの道を選んだ、自分に対してだろうか。それとも、それが避けられない運命であると分かっていながら、覚悟を決めずに、今まで決断を先延ばしにしていた自分に対してだろうか。
「何の為の魔術だよ……こんな事をして、一体何がしたいんだ!?」
否。それは、姿も見せぬ敵への怒り。突然現れて日常を破壊していった、無数の黒い影と巨大な蜘蛛――そして、それらを陰で操っている魔術師に対して抱く、炎よりも熱く刃よりも鋭い義憤の念。
魔術とは本来、何の為にあるのか――多くの魔術師が、哲学者が問い、今日に至るまで完璧なる結論を出す事なく、有意義であるのかも疑わしい議論を続けている。
だが、明確な答えが未だ出ていなくとも、『決して答えとはなり得ないもの』ならば分かる。そもそも、それすら分からないのでは消去法という選択すら取れない。
少なくとも、我意のままに弱者を蹂躙し、低劣で非道極まる愉悦に身を浸す為ではない。そのような形の快楽など、聖職者でなくとも背徳であるとの審判を下す筈である。仮に更なる人類の発展に繋がるのだとしても、犠牲を皆無にする事など不可能であるのだとしても、死山血河を作り上げる事をよしと出来る筈もない。ましてや、その過程を愉しむなどという事は。
怒りを籠めた叫びと共に駆け出し、相馬は一瞬にして蜘蛛との距離を詰めた。その速さは、かつて身体強化の魔術を得意とする生徒の魔力をコピーした時の比ではない。
白銀の刃を横薙ぎに一振り。刃先から放たれた魔力は鋭く研ぎ澄まされて刃となり、相馬の周囲に円を描いて全方位の影を斬り付ける。突風のような魔力の放出の後には、彼の周囲にいた全ての影が消えていた。
「あんた達がこんな事さえしださなけりゃあ、俺だって……ッ!」
一刀の下に十数体の影を切り伏せた相馬は、次の瞬間には既に、敵陣の長たる巨大な蜘蛛の懐まで切り込んでいた。
黒い影の集団から解放された由紀が、窮地を救われた安堵と、状況を飲み込めない驚愕を露にする。蜘蛛の糸に縛られたまま相馬に対して何かを言っているが、その言葉も彼の耳には届かない。
蜘蛛を操る術者の反応は恐ろしく速かった。姿こそ見せていないが、この状況を視認出来る場所にはいるはずだ。しかし、蜘蛛の傍らで戦闘を直接目視している訳ではなく――故に蜘蛛の操作や、蜘蛛への攻撃への対処を講じる場合には、どうしても隠しきれない隙が蜘蛛に生じる。が、相馬が蜘蛛の懐に入り込んだ一瞬の後には、術者は蜘蛛を後ろに飛び退かせ、同時に相馬を縛り上げるべく糸を吐かせた。
しかしそこには、一瞬であるとはいえ間があった。この剣士が相手では、その僅かな隙でも十分に致命的なものとなる。吐き出された糸は空しく地面を打ち、数本の足が宙を舞った。
(こいつの事は隠したまま、普通の生徒でいられたんだ……!)
己の矛盾を噛み締めながら、若き魔術師は声にならない声を上げる。喉が張り裂けんばかりに叫ぶ代わりに、剣を握る両手に渾身の力を籠め、刃と魔力を互いに研ぎ合わせる。体から溢れる魔力が奔流となり、剣に絡み付いて渦となった。
次の瞬間、彼は剣に籠めた魔力を解き放った。垂直に振り下ろされた斬撃と渦を巻く魔力の瀑布が重なり、滝のように、雷のように敵を穿つ。一瞬の後には、巨大な蜘蛛の体は2つに分かたれ、それぞれの傷口と傷口の間からは、血のように紅い色を湛えて浩々(こうこう)と広がる逢魔が時の空が見えた。
蜘蛛や影を操っていた術者ないし術者達は、形勢は自分に不利なものだと判断して引き上げたのだろう。蜘蛛が消滅すると、まもなく無数の黒い影もその姿を消した。
静寂を取り戻した世界は、今までの日常よりも静かだった。
驚愕、憧憬、懐疑――様々な想いの籠もった視線を一身に浴びながら、今回の騒動における英雄たる剣士は、その剣から手を離した。霧が晴れるように、白銀の剣は虚空へと姿を消す。
その光景はまるで、夢から醒めて現へと帰るような、何処か神聖な寂寥感を漂わせていた。