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身一つで突撃して来た尚睦に突き飛ばされ、視界が反転する。互いに左手で相手の右手首を掴み合っている状況だった為、体当たりを喰らった相馬だけでなく、尚睦もまた体勢を崩す事となった。怨敵と共に倒れ込む最中、相馬は咄嗟に剣を捨てて尚睦の束縛を振り解き、自由になった右手で受け身を取った。
武器を手放したのは痛手だったが、今ここで左手を離す訳にはいかなかった。この不利な体勢の中攻め込まれたら、そこからは詰め将棋のように戦況が不利な方向へ傾いて行ってしまう。
とはいえ、相馬があえて剣を捨てて右手で受け身を取った理由は、それでけではなかった。左手を離さない理由はもう1つある。こちらは受動的な理由ではなく、能動的で攻撃的な理由だ。
既に、準備は万端だった。周囲の大気中に自身の魔力を漂わせ、物体の移動を補助させている。魔術の発動以前の段階にある、魔力の初歩的な基本操作のひとつ。相馬の得意とする、流体操作の技術の応用である。干渉する軌道は主に自身の肉体である為、他人の魔術の軌道を無理矢理変更させる“逆流の渦”と比べるまでもなく、実に単純で簡単な技だ。本来ならば未だ半人前の身であるとはいえ、今の相馬にとっては造作もない。
相馬は“重複製”によってコピーした霧壱の魔力特性を存分に使い、身体を柔軟かつ機敏に動かす補助とした。受け身に用いた右手を軸に、さながらブラジルの格闘技カポエイラの如く体を回転させる。
危険を承知で左手を引き寄せ、踏ん張って体勢を立て直そうとした尚睦から再び体の平衡を奪った。相馬に片手を掴まれたまま、制限された手首の動きだけで剣を振るう事も出来ず、尚睦は相馬の上にのしかかるような体勢で前方に倒れ込んでいく。咄嗟に踏み止まろうとするも、地面を踏み締めた足を相馬の足で払われてしまう。
足払いを掛けた左足を戻し、相馬は振り子の要領で脚部の動きに勢いを乗せる。そのまま右足で大地を踏み締め、霧壱の性質を帯びた魔力で強化した左足を大きく蹴り上げた。狙うは己の手で逃げ道を塞いでおいた、尚睦の右手。鎌の如く払われた左足は敵の五指を蹴り抜き、その手から得物を刈り取る。
自ら武器を捨てたが、敵からも武器を奪った。これで状況は互角。ここからは武器を拾い上げるまでの間、徒手空拳による舞踏である。それこそ、霧壱の魔力が最高に活きる場面だ。複写を維持していられる時間は残り少ない。このアドバンテージを活かせる内にどれだけ攻められるか、そしてその後に繋げられるか、それが勝敗を大きく左右する。
一瞬で体勢を整え、相馬はすぐさま拳を揮った。再び敵の隙を作る事と、2人の戦士と2つの武器との位置関係を調節する事が先決である。すぐに剣を拾うような真似をすれば、その隙に向こうの拳撃を食らってしまう。最悪、その流れでレオの剣を奪われる。それだけは絶対にあってはならない。あの剣が、この戦いにおいて相馬が尚睦に対して持つ最高のアドバンテージなのだ。
尚睦もまた一瞬の内に体勢を立て直したが、如何せん現時点における地力の差が大き過ぎた。レオの魔力だけをコピーした相馬ならまだしも、身体強化に特化した毛利霧壱の魔力まで追加でコピーした今の相馬が相手では、肉弾戦を演じるのは余りにも分が悪い。
現在尚睦が相馬に対して持つアドバンテージは、3つの属性攻撃と2つの制限時間だ。
相馬のコピー能力は、複写した性質を維持出来る時間に一定の制限がある。レオの剣を持ち続けている場合は絶えずコピーを更新し続けられるので、実質的に時間の制限は無くなる。だが、剣を手放した途端に、その制限は蘇る。霧壱からコピーした魔術を失った後、レオの剣から借り受けた力まで失えば、相馬は元の非力な少年へと戻る。
とはいえ、相馬がレオの魔力による加護を失うまでの間、この圧倒的に不利な肉弾戦を耐え切るのは至難の業だ。時間のアドバンテージは、今のところ在って無いようなものである。
それならば相手の動きを止めてしまおうと、尚睦は電撃の網を繰り出した。この網に漁られた者は、全身を這い回る電流によって四肢が麻痺する。攻撃というよりもむしろ、束縛の為にある魔術だ。
電撃をその身に受けて動きを制限されつつも、相馬は驚異的な膂力で以て突き進んだ。近過ぎる2人の間合いと速過ぎる相馬の動きから、電流を浴び続ける時間はほんの僅かしかなかった。筋肉を麻痺させられたのは事実だが、その効果は些か頼りないものだった。あの魔術の効果を十分に発揮するには、少々時間が足りなかったようだ。
間合いが詰まり、互いに相手の全身を視界に入れる事が不可能となった。流星の如く降り注ぐ相馬の拳が、怨敵の体を打つ。
尚睦もまた自身の体を氷の盾で覆って防御するも、あまり有意な効果は得られなかった。主人を守護すべき魔力の氷は、生成されたと同時に砕かれていった。
「――ハァッ!」
渾身の一撃が尚睦の胸部を捉え、その心臓を打ちのめす。吹き飛ばされ後退りながらも、尚睦は急速に心不全を起こす脈を整えるのに必死だった。
必殺の一撃を加えると同時に、それまで相馬の体術を支えていた霧壱の魔力特性が剥がれて行った。“重複製”の限界が訪れ、相馬の魔力が霧壱の模倣を止めたのだ。
「くっ、舐めるなァ!」
口腔から血と絶叫を迸らせ、尚睦はありったけの魔力を左右の掌に集中させた。特大の魔力が重なり、1つの灼熱の球体となって目の前の敵に襲い掛かる。
だが、それは余りにも早計な判断であり、愚挙とさえ言えた。魔術を行使した直後、尚睦は相馬の笑みを見て自らの失策を悟った。
(バカが。返り討ちにしてやるぜ……!)
迫り来る小さな太陽を迎え入れるべく、相馬は左手を前に突き出した。右手が空いている事はかえって好都合だった。魔術発動の難易度が僅かに下がる。
寸分の狂いも無く、“逆流の渦”が発動する。大きな球体は水流のような直線軌道を描く攻撃と比べて操作が難しかったが、無事に軌道を変える事が出来た。向きを180度変えた巨大な炎弾は、獲物を狙って放たれた時と変わらぬ勢いで主であるはずの者に牙を剥く。
(しまった――)
雷の光線で威力を削ぎに掛かるも、その威力を完全に掻き消す事は出来なかった。自分の渾身の一撃を、咄嗟に行った反撃如きで相殺出来る道理も無い。
飛び退いて直撃だけは避けたものの、尚睦は自ら作り出した炎にその身を呑み込まれた。