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その時ふと、相馬の鼻に突き刺さるものがあった。由紀達を見渡したところ、相馬が感じたものと同様の感覚は、皆一様に感じているようだった。
鼻の奥に突き刺さるような、錆びた鉄の臭い。歴戦の魔術師でなくとも、直感でそれだと断定出来る――血の臭いだ。
「……誰か、調理実習で指切ったのかな?」
由紀が場違いなほど呑気に呟き、瑠依が緊張した様子で否定する。
「そんな訳ないでしょ。模擬戦は今終わったばかりだし……不審者と考える方が、よっぽど現実的よ」
振り返ると、アドバイザーの京目紳範が生徒達に指示を出していた。知覚能力の高い紳範は、あの場所にいながら異変に気付いたらしい。
「やっぱり不審者か……? って、うおわぁ!?」
咄嗟に身を屈めて避けたものの、あと少し反応が遅れていたら、この奇妙な魔物に組み付かれていただろう。すぐに体勢を立て直した相馬が見たものは、人型をした黒い魔物だった。
「魔獣……? いや、魔力を編み込んで作ったモンスターか!」
そのモンスターには顔がなく、墨で塗り潰したかのように全身が黒一色だった。デザインが手抜きだと評したくなるような姿ではあったが、人の形をしてゆらゆらと揺らめく無貌の影は、ただマネキンのようにそこに立っているだけでも十分に不気味だった。
「全く、悪趣味なデザインね。大した魔力もなさそうだし……“ベルフェゴール”!」
すぐさま臨戦態勢に入った瑠依は、眼前のモンスターに悪評を付け、自らのモンスターを生成した。
虚空から出現したかの如く魔力を編み込まれて生成された熊型のモンスターは、真っ直ぐに無貌の影に躍りかかった。その突撃をするりと避け、無貌のモンスターはその拳を繰り出す。
「あの真っ黒いの、意外と強いな」
「馬鹿にしないで。“ベルフェゴール”はまだまだ下級のモンスターよ?」
相馬の率直な感想に、瑠依が心外だとばかりに言い返した。
「そんな、『奴は我々の中でも最弱の男よ……』みたいな事言ってると、そのうち頭までやられるよ?」
「あんたは何の話をしてるのよ? 全く、由紀はこんな非常時まで……って、うえぇ!?」
彩香の叫び声を聞くまでもなく、驚きは皆一様だった。今まさに瑠依の“ベルフェゴール”と戦っているモンスターと同じ黒い影が、それ以外に何体も出現している。
原則として、1人の魔術師が一度に生成して使役出来るモンスターは一体のみだ。いくら下級のモンスターとはいえ、流石にこの数は異様である。一体、術者は何人いるというのか。
「わらわらと気持ち悪い……」
「呑気な事を言ってる場合か。借りるぞ、媛河」
相馬は由紀の魔力をコピーすると、由紀と共に魔術で黒い影を焼き払った。しかし、黒い影の防御力は予想以上に高く、広範囲に拡散させた炎では、たったの1体も消滅させる事が出来なかった。
「……固いね」
「見れば分かるわ、アホ!」
目前にまで迫ってきた1体を、相馬は風圧で押し戻した。倒す事までは出来なくとも、とにかく距離を取る事が最優先だと思われたからだ。そして、彼我の間合いを考慮すれば、その判断は正しかった。
「接近戦が得意な奴はいないの? バランスが悪いパーティーだね」
そう愚痴を零す彩香も、近付いてきた影を正確に撃ち落としている。
由紀も、彼女の魔力をコピーした相馬も、接近戦が不得意な訳ではない。しかし、黒い影に接近戦で勝てるという保障まではなかった。モンスターの操作に集中している瑠依に関しては、言うまでもない。
無数に出現する黒い影には、教師である紳範も手を焼いているようだった。そもそも紳範の専門は回復系の魔術であり、戦闘はそれほど得意ではない。他の生徒達も、各々防戦に徹していた。
「来るな、キモい!」
魔力で生成した岩で壁を作り、由紀は黒い影の侵攻を遮った。動きも技も単調なのだから、こうして物理的に近寄れないようにすればいい。
その判断は正しかった。だからこそ、そこで由紀は油断した。
死角となっていた背後やや上方から、神速の矢が飛来する。純白の矢は由紀の背中を捕らえ、柔軟に形を変えて由紀の体を縛り付けた。
白い矢の正体は、蜘蛛の糸だった。
「にょわぁ!?」
「は!? ――媛河!?」
奇妙な悲鳴に動転して振り返った相馬が見たのは、口から垂らした糸で由紀を吊るした、一匹の巨大な蜘蛛だった。
「でっか……って、まだ別のモンスターがいたのかよ!? 一体何人の不審者が来たんだよ、ちくしょう!」
蜘蛛の体長は5メートル程だろうか。この褐色の蜘蛛が生き物ではなく、魔力によって作られたモンスターであるという事は、相馬も一目で察した。
これ程の巨体を誇る生物も、その身に魔力を宿した“魔獣”であれば見かける事もある。だが、いくら魔獣といえども、そこから発せられる魔力の質によって、曲がりなりにも生物である“魔獣”と、魔術師の傀儡に過ぎない“モンスター”の違いははっきりと分かるものだ。この蜘蛛は明らかに後者である為、何処かにこれを操っている魔術師がいる事は明白である。
蜘蛛型のモンスターは由紀を吊るしたまま、その巨体に似合わない速度で動いた。無造作に振るわれた足の1本が相馬達を狙う。
寸前で躱した相馬と彩香は無傷だったが、モンスターの操作に集中していた瑠依は反応が遅れ、その身を強かに地面に打ちつけた。
「咬丹! ……クッ――消えろッ!」
瑠依に襲い掛かった影を狙って炎を纏わせた拳を放ち、カウンターの要領で粉砕する。ようやく一体目を消滅させたが、黒い影の数に有意な変化はない。
苛立ちと共に、相馬は校舎の窓に目をやった。どうやら、校舎の中にも無数の黒い影が出現しているらしい。窓で切り取られた小さな情景の断片だけでも、校舎内での戦闘が見受けられた。
つまり、それだけこの謎のモンスターの数は出鱈目に多いという事だ。その怪異なる魔術を前に、相馬は驚愕といった活きた感情を通り越して、ただただ呆れ返るばかりだった。
そのような些末な雑念さえ、戦場では命取りとなり得る。当然と言えば当然だが、命の危機に瀕する戦場に立ち会うのは初めてである相馬は、まだそのような“当たり前”の事についても理解がない。
背後から凄まじい殺気を感じ、たちまち相馬は振り返った。校舎の中に気を取られていた僅かな隙に、蜘蛛のモンスターは眼前まで迫って来ていたのだ。
「げッ――」
一抹の後悔と共に死を覚悟した次の瞬間、蜘蛛のモンスターは数メートル程後ろに吹っ飛んだ。いつの間にか、瑠依が切り札であるモンスター“サタン”を生成していた。群青の双眸の先に敵を見据え、紅蓮の龍が疾走する。
「す、すまん……」
「油断してると、本当に死ぬわよ!?」
瑠依の指摘に、相馬はぐうの音も出なかった。尤も、仮に反論の言葉を見付けていたとしても、この状況で言い返す余裕は無かっただろうが。
「由紀が今まさに死にそうだよッ!」
彩香が喚きながら、鋭く練り上げた魔弾を立て続けに放つ。その猛攻の先には、生贄のような恰好で吊るされたままの由紀を餌にでも見立てているかの如く、亡者のように群がる黒い影の一団があった。
「やべッ――うぐッ!?」
助けに行こうとした相馬だったが、立ちはだかる黒い影にいとも簡単に殴り倒された。更に、自身の魔力特性から、由紀の魔力が持つ個性が消える。他人の魔力の性質や魔術を模倣していられる時間は限られている。その制限時間が、たった今来てしまったのだ。これで、相馬には実戦で通用する魔術が無くなった。
地に伏した相馬の前に揺らめく黒い影の背後は、巨大な魔物同士の闘争によって、さながら一枚の絵の如き圧巻となっていた。
龍の咆哮が空を裂き、蜘蛛の暴虐が地を震わす。そして、その凄絶極まる異形の衝突が、夕闇の炎によって燃えるような緋色に彩られている。
しかし、友人を人質に捕られている瑠依は、自らの僕たる“サタン”の攻撃能力を十分に発揮出来ずにいた。そもそも、他の駒では力不足だろうと思い、本来なら生成に時間の掛かる切り札を、無理を押して短時間で生成したのだ。その性能は本来の力には及ばない。
尤も、仮に全力を出せたところとしても、恐らくこの褐色の蜘蛛を仕留める事は出来なかっただろう。紅蓮の龍は全身を糸で巻き取られ、経帷子を着せられた姿のまま無残に引き裂かれた。
その時、用済みとばかりに蜘蛛の糸が千切れた。縛られたままの由紀が宙を舞う。その着地地点――否、墜落する先には、無数の黒い影が跋扈<<ばっこ>>している。
紳範も、他の生徒も、それぞれ防戦一方で由紀にまで気が回るはずもない。
「――くそっ!」
その時の相馬には、2つの選択肢があった。恐らく、その内の何れを取っても、彼は後悔する事になっただろう。
しかし、そのような葛藤は、この時の相馬の中には無かった。葛藤に直面するだけの余裕すら無かった。ひとつの後悔を避ける為に、もうひとつの後悔から逃げられなくなる事には考えが及ばず――彼は一切の迷いも無く、己の秘密を晒した。
あるいは、それでよかったのかもしれない。
目の前に蔓延る黒い影の群れが自分の魔力で爆散させられる様を見て、彼は自分の退路が絶たれた事を知った。