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幸詰草  作者: 佐久間
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1 新しい世界――活字嫌いの手記

 人間ってヤツは、いつもそうだ。


 新しいことを始める時、普段とは一転したことをしようとする時、必ず、今までとはがらりと変わった、真新しい環境を必要とするのだ。


 仕事を変えるために、日本からロンドンへ行って、昨日までは青い瓦屋根で木の引き戸っていう和風そのものの家に住んでいたくせに、急に赤いレンガの壁に真鍮のドアノブの洋風な家に引っ越し、一人暮らしだったのにいきなり結婚して、ついでにステーキ大好き人間からベジタリアンに変わってみました、というようなものだ。

 そして、華々しく、あるいはぼろぼろの布切れの端っこにでもなって、散っていく。ことごとく失敗するのだ。仕事で大失態をやらかして、家から追い立てられて、離婚届を突き付けられて、挙句の果てには、肉汁の滴るステーキでも新鮮な野菜でもなく、約束手形をかじるしかなくなる。

 紙を口に含んだことのある人なら、その行為がどれだけ最悪なものであるか、よくお分かりだろう。白い紙が口の上で溶けていく感覚といったら、たまったもんじゃない(ちなみに私自身は、幼い頃誤って紙を食べかけたことがある)。


 明らかに、自分の努力不足と適応能力の低さが招いた結果であるというのに、

「環境をちょっと変えすぎたかな」

 なんてほざきやがる。

 さらにひどいヤツになると、

「ああ、やっぱり私には無理だったんだわ」

 なーんて、悲劇のヒロイン(もしくはヒーロー)を演じたがる。


 新しいことには、新しい環境を。そして、必ず失敗しましょう。


 そんなスローガンが、そういうヤツらの心には掲げてあるんだろう。

 そう、人間ってヤツは、いつも、そうなんだ……


  ――*――*――*――*――*――


 私は、昔から、物事について深く考えるのが大好きだった。 

 

 というか、知らぬ間にそれがクセになっていた。

 物心付くもの早くて、”幼稚園準備学年”みたいな『ひよこくらぶ』に入る時にはもう、私の頭の中の思考回路を整備する小人達が、忙しく立ち働いていた。小人達はよく仕事をしてくれたが、何故か、「読む」という道路については、きちんと舗装して車線を引いてくれなかったようだ。

 おかげで、私の思考という車は、いつもそこを避けて走っていた。つまり、早い話が。


 本――活字が、大嫌いだったのだ。


 みなさんは、「活字に襲われる夢」なるものを見たことがあるだろうか。あれは、冗談抜きで怖い。夜中の二時にホラー映画を二本続けて見る方がまだましというものだ。何しろ、文字の大群が「かつじかつじかつじ、もじもじもじっ!」と良いながらこちらへ突進してくるのだ。最後には押しつぶされて、シェイクスピアの戯曲やら宮沢賢治の作品やらを合唱という形で音読される。

 夢から覚めた後は、最低一週間は本どころかテレビのCM紹介(「この番組は……」で始まるヤツだ)すらまともに見れない。目まいを起こしてばかりだ。学校はどうやって乗り切ったかって? どーぞご自由にご想像ください。

 小学校に上がっても、中学生になっても、高校に入っても、活字嫌いは治らなかった。一時流行ったケータイ小説にも手を伸ばしてみたが、わずか一ページでさよならした。

 そのくせ、考えることはやめなかった。いったん考え出すと、とまらなくなる。些細なことから、真理に迫るようなことまで、想像はあらゆるところに及んだ。宇宙の拡大が終わることなく続いているように、私の考えも拡大をやめることがなかった。


 まあ、いくら確固たる自分の哲学をもっていたって、小学校低学年向けのファンタジーぐらいしかまともに読めないのだけれど。


 ――さて、そんな筋金入りの活字嫌いが、わざわざこうやって文章を書いている理由だが。

 何のことはない、私が最初に記した「人間ってヤツ」であり、「そういうヤツら」であるかもしれないからだ。

 ……偉そうなことを語っておきながら、と憤慨する人もいるかもしれないが、そこはどうか怒りをおさめてほしい。さも全てわかっているかのように戯言を述べるくせに、結局自分もその戯言と手をつないでいる、それが普通の人間というものだ。

 新しいことには、新しい環境を。その続きがどうなったのか、まだここでは書くことができない。私が本当に、「そういうヤツら」の仲間だったのか。それとも、仕事先で素晴らしい業績を上げて新しい家にもすんなりなじんで連れ合いともなかなか上手くいって、ベジタリアンになるのも成功した――そのような結果を出したのか。

 はたまた、まったく違う結末を迎えたのかは。


 新しいことには、新しい環境を。その、続きは――

 そう、だから私は、これからその続きを書かなければならない。


 ありがちなセリフだが、こんなことになるとは思っていなかった。18年間生きてきて、一度も考えはしなかった。平凡しか転がっていないはずの私の世界に、小さな裂け目ができることを。その裂け目の向こう側にあるものが、ひどく優しく残酷な存在だと知ることを。――こんな風に、文章を書くようになることも。


 ――彼に、会うまでは。


 それでは、これから話そう。ゆっくりと。活字は嫌いだが、仕方がない。

 まずは――「新しいこと」を始めた日のことから。



 浪人一年生の春、私は、新たなバイト先の前に立っていた。

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