interlude「眠れない夜には、珈琲の香りがする」
「おや、ユウ。まだ起きていたのかい」
階段を降りると、そこは暗闇ではなく、ひとつの灯りがともっていた。
とある夏の夜。
少し前から始めたバイト先の民宿。
シーズン終盤に差し掛かり、最後の思い出をと言わんばかりにあふれ出した客足に、自分の仕事も忘れて手伝いに精を出した結果、すっかり遅い時間になってしまった。さらに外は雨が降り出し、天候にも恵まれていない。
そんな私に、この民宿の優しい主は「今夜は泊まっていっていいのよ」と相変わらず息子とそっくりな笑顔で言われてしまった。
そんな、とある夏の夜のこと。
「やぁ、サキ。そっちこそだよ」
少し長めのソファにもたれながら、彼の手に持つカップに注がれた珈琲から、苦い香りが漂わせながら、私のほうへと視線を上げる。
「ん。なんとなく話がしたくてなってね」
言いながら、彼の向かいのソファへと腰をおろす。
いつもと違う布団は眠りにくい、なんてことは特段なかったけれど、少し誰かと話がしたいな、なんて思ったんだ。
もっともこの家にはそんな相手は一人しかいないのだけれど。
「え、僕と?」
「……まぁ他に話す相手がいるのであれば、その人でも良いけど」
微妙な言い回しになった。と思ったら、案の定ユウの顔が拗ねたような色になる。
「へぇへぇ、僕じゃ物足りないんですねー」
「しかし、どの道ここには君しかいないだろう」
「ま、そうだけどね」
にやりの口の端をあげて笑う。一見すると不敵な表情にも見えるが、彼がやるとどこか迫力が薄れ、可愛い印象を受けてしまう。
ここにいるのが彼で良かった。
私を救ってくれたのが彼で良かった。
最近、頓にそう思う。
「……ユウはどうしてここにいるんだい?」
ふとそんな言葉を口にした。
「どうしてって、そりゃ自分の家だから」
「そうじゃなくて……」
「分かってるけどね」
くすっ、と柔らかい笑顔を浮かべる。
「僕は大学にも行っていない。こんな辺鄙な場所で、毎日料理を作ってる。かといって、もっと大きい場所に出ていきたいとか、本格的に料理を学びたいとか、そういう気持ちも持っていない。ただ、僕はここにいる。サキはその理由を知りたいんだよね?」
「ご丁寧な説明をどうも。ユウ、いつもよりなんだか饒舌じゃないか?」
「そうかな? そうだとしたら、それは夜の魔力じゃないかな」
そういってまた楽しそうに笑う。
その笑顔に随分と助けられてきた。
そんなユウのことを、私はちゃんと知らない。
彼の姿を見たときに、唐突に知りたいという気持ちに捉われたんだ。
「いろいろ理由はあるよ」
私の気持ちに気付いているのか、ただ問いに答えただけなのか。
それはわからないけど、ユウは静に言葉を紡ぐ。
「知っての通り、僕には父さんがいない。だから、僕がここからいなくなったら、母さん一人になってしまう。それは哀しいなって思う。僕が望めば、母さんはきっと笑顔で送り出してくれるだろうけど、たった一人の家族なんだ。やっぱりそばに居たいよ」
そう語るユウの表情は少しばかり嬉しそうで、少しばかり誇らしそうで。
「後は単純にここの土地が好きだとか、外に出ることに不安があるとか、こういうところが自分に合ってるとか……」
コトンと、手にもったカップをテーブルの上に置いて、ふいに私へと視線を映す。
その瞳には、まっすぐに私が映っていて……
「それに今は……サキもいるからね」
そしてまた笑う。とても晴れやかに。
思わずドキッとした。
彼の瞳に私がしっかりと映っていることに、不意に胸が高まった。
「言ってくれるね。ありがとう」
そんな動揺を表に出さないようにしながら、私はやんわりとお礼の示す。
「そもそもさ、僕がここにいなければ、サキと出会うこともなかったわけだしね。やっぱりここにいたことは間違いじゃないんだよ」
「嬉しいね。そう言ってくれるのは」
やはり夜の魔力だろうか。
「私もユウに会えて良かったよ。本当にそう思ってる」
いつもよりも素直な言葉が、こんなふうに自然と出てくるのは。
にっこりと微笑んだ私は、ユウにはいったいどう映っているのだろうか。
「……いえいえ、どういたしまして」
ほんのりと顔を赤くして、少しだけぶっきらぼうに言う彼の姿を見ていると、とても心が落ち着く。
少し前までは、こんな安寧の時を得られるなんて思いもしなかったのにね。
「そうだ。サキも、珈琲飲む? おいしいの淹れてあげるよ?」
照れ隠しだろうか、なんだろうか。自らのカップを軽く持ち上げてユウが訊ねてきた。
「そういえばユウはいつも珈琲だな」
「うん、大好きだからね。飲むのも、淹れるのも」
「ふむ……でも、今日は遠慮しておくよ」
私は多少迷ったものの、こんな時間に珈琲を飲むと、本当に眠れなくなってしまいそうだ。それにそもそも、私はあまり珈琲が好きではない。
「そっか、残念。おいしいの飲ませてあげるのにな~」
「それはまたの機会にしておくよ。ちなみに私は珈琲を飲んでおいしいと思ったことは一度もないくらいだから、なかなかハードルは高いと思うよ?」
「それでも、おいしいって言わせてみせるよ」
先ほどと同じように不敵に笑うユウ。しかし、さっきよりもよっぽど確信に満ちた、強い表情だった。
あぁ、なんて気持ち良いんだろう。
そんなふうに思ってしまうのは、やはり夜の魔力のせいだろうか。
「さて、私はそろそろ戻るかな」
そう言って私は立ち上がる。
この空間は心地よいが、この暖かい気持ちを持ったまま、眠りにつきたいとも思った。
「ん。僕はもう少しここにいるよ」
「あんまり遅くならないようにね。明日もきっと大変だからな」
「大丈夫だよ」
クスリと微笑んで。
「そうしたら、サキが起こしてくれるでしょ?」
そんなことを言うもんだから、私もついつい意地悪をしたくなる。
「私も寝坊するかもしれない。物書きなんて人種は、朝に弱いんだよ」
わざとらしくそう言ってやった。
そしたらユウは面食らったような顔をした後、見事に切り返してくれたんだ。
「なるほど。サキなら確かに否定はできないね」
「……一本取ったつもりだったんだけど、少し自分が悲しくなったよ」
「あははは」
「ふふ」
顔を見合わせて、二人して笑う。
こんな何気ない時間が、本当に心地よくて、暖かい。
「じゃ、戻るね」
名残惜しさを感じつつ、階段に足をかけ寝室へと向かう。
「うん、おやすみ」
「おやすみなさい、また明日」
背中越しに言葉を交わして。
私はまた、こうやって大事なものを手に入れられたことを、心の中で深く感謝したのだった。
(私は生きてるよ。これからも、この先も。ずっと……)
眠れない夜に階下から香る珈琲の匂いは、どこか優しくて、どこか楽しげで。
そして、心地よい眠気を誘発してくれるのだった。




