Last season - winter - 第1話「思い出の風」(前編)
私はいつからこんなふうになったのだろう?
私はいつから……こんなふうに笑えるようになれたのだろう?
最近の私の生活はいたって単調だ。
起きるのはいつもお昼前。軽くシャワーしたのち、近頃めっきり気にするようになったおしゃれなんぞに時間を少しかける。毎日同じ髪型同じ服装というのも楽で良かったのだけど、やり出してみるとこういうのも楽しい。昔の私からではとても考えられなかった変化だが、何度も言っているようにこの変化を私自身は好ましく思っている。
いろんな服を買ったのだが、まだミニスカートだけははいたことがない。理由は単純に恥ずかしいからだ。私のキャラに合ってない気がして、そう思うと怖くてはけない。まわりの人はなんて言うんだろうか……
とにもかくにも、その日の服を決めた私はご飯も食べずに家を出る。向かうのはバイト先、私の命の恩人の店だ。
命の恩人っていうのは大袈裟でもなんでもなく、本当に私は命を救われたんだ。それとともに、生きる力まで与えてくれた。ひとつの意味だけじゃなく、いろんな意味でも恩人で、今ではとても大事な人が働く場所だ。
海水浴場に近い海辺に建つ少し古いその家は、1階は喫茶・軽食店、2階は空いてる部屋を民宿としている母子2人で営業している家だった。その中に、数ヶ月前からバイトとして手伝わせてもらっている。
それは恩人の頼みでもあったし、今まで経験したことのないものへの興味でもあったし、何より私がこの店を好きだったからだ。まだウェイトレスと皿洗いくらいしか出来ないが、こんな私でも役に立てているのがとても嬉しい。
ちょうどお昼時に着いた私は仕事に入る前にまずお昼をいただく。彼の作る料理は、今までの人生の中で出会ったどの料理よりもおいしいからだ。少なくとも私はそう思っている。それを伝えると「そんなこと言うから、余計おいしく作ってやろうって思っちゃうんだよ」っと顔を赤くして照れるところなんかはとても可愛らしいと思う。
昼ごはんを食べ終えたら、その食器を洗うところから私のバイトは始まる。しかし、基本的に夏のシーズンじゃないときは暇が多い。ウェイトレスの仕事がないときは、店内の掃除をしたり、2階にいって彼の母親の仕事を手伝うことが多かった。主に掃除がメインだったが、時にはお部屋の飾りつけなんかも手伝わせてもらったりしていた。
ここでのバイトは暖かくて、楽しかった。夏のシーズン期はとても忙しく、あたふたしたこともあったけど、充実していた。秋になり客足が減ってきたあとでも、彼の料理は人気だったので、お客さんはけっこう来てくれた。今度はゆったりした対応を心がけてウェイトレスの練習に励んだ。
一度お客さんに「看板娘雇ったんだね。可愛いよ~」と言われて、とても恥ずかしかったのを覚えている。私が看板娘だなんて……ちょっと褒めすぎじゃないだろうか。彼は彼で悪ノリして「いいでしょ~。当店ご自慢の人ですよ~」なんて言う。さすがにあの時は真っ赤になってしまった。
そんな午後を過ごしたのち、夕方頃には仕事をあがる。その後は自宅に戻るか、そのままその店でゆっくりしながら『仕事』に入る。これは本来の私の本業だったりする。
この店でのバイトのない日も、わざわざここまで来て『仕事』に取り掛かることもある。それほどまでにこの店は居心地が良いのだ。気がつけば、自分の居場所がここにある、と思える……そんな大事な場所になっていた。
さて、私の『仕事』はというと、物書き……つまりは小説家だ。まだそういうにはおこがましいほどだが、数年前に応募した短編が賞を受賞し、それ以来雑誌の連載の仕事など小さな仕事だが、確実な仕事をもらって今も書き続けている。執筆スピードの速いほうではない私には、ちょうど良い仕事量だと思う。そんなスピードでも書き続けていれば確かな形になるものだ。ついこの前、担当さんがこんなことを言ってくれた。
「割と人気もあるし、この話がひと段落ついたら、1冊の本にしてみようか」
私だけの本が出来上がる。それはとても嬉しいことで、思わず大声で「はいっ!」と返事してしまった。
私にしては珍しいと自分でも思う。
受賞した短編は、他の人の受賞作とともに本になって出版はされている。そのときも嬉しかったが、今回の嬉しさはそんなものの比にならなかった。
そんなふうにして、私はきっとこれからの生涯をかけて、いろんな物語を綴っていくだろう。何より自分がこの仕事を大好きなのだ。
小説を通して、自分の大切な想いを語る。私の大切な人が残してくれた想い。今大切な人が与えてくれる想い。辛いことも悲しいことも、楽しいことも幸せなことも、一本のペンがあればそれですべてを表していける。表したいと思う。大切な人に伝えられなかった想いも、こうしてみんなに見てもらえれば、いつか届くときが来るんじゃないかなんてことも信じて……
現実的な話をすると、今の時代ペンじゃなくパソコンだし、何より私の本当の本業は大学生だったりもするのだが……小説家デビューをきっかけに、最初は仕事と大学を頑張っていたもののすぐに仕事の比率が大きくなってきたので、大学には休学届けを出した。復学もまだ未定だったりする。もしかすると、このまま退学することになるかもしれない。大学くらいは出ておきなさい、と両親は言うのだけれど、今の生活が充実しすぎていて、手放すのが惜しいのだ。この状況で、さらに大学に行くことは私の体力上不可能だし時間も足りない。だったら、大学を諦めてもいいかな、なんて最近考えはじめてしまっている。
昔の私じゃ考えられないくらいに気軽な考え。
最近の私は良く笑う。すぐ笑顔になるし、声を上げて笑う。視線も上がるようになった。前はうつむいてばかりだったのに、まっすぐと前を向くことが出来るようになった。
変わる前の私も嫌いではなかったが、変われた私は自分自身をとても好きになっていた。それととも
に、この姿を出来ればあの人に見せたかったな、と思う。それはもう二度と叶わない願いだけど、たまにはそんなことも夢見てもいいでしょう?
いろんな想いを抱えながら、こうして私の一日は同じように過ぎていく。それは週末も何も関係のない、変わらない日常。それでも私は、この日々をとてもいとおしく思う。
楽しい人たちに囲まれて、夢に向かって毎日を送れる私は幸せ者なんだな、と。
ねぇ。私はしっかり、君の分まで生きているよ。
だから君も笑ってくれているといいな。
そして私は今日も笑顔でこの場所に立っている。
そんな毎日の中の一日。11月になりかなり冷え込んだ肌寒い日のことだった。
風も強くこんな日に海辺の喫茶店に来る人は相当奇特な人か、さもなければ用事がある人だと思う。そしてその人はどうやら後者だったようだ。
とても長く綺麗な黒髪に穏やかな瞳。服装は今日の気温にあった暖かめの格好をしていた。全員をすっぽり包む赤いロングコート。少し微笑んだ顔がまた絵になる。物静かなその女性は、どことなく消えてしまいそうな儚さを持っていた。季節外れの幽霊かと思うぐらいだったが、幸いなことにちゃんと二本の足で立っていたし、酸素を取り入れる呼吸音もしっかり聞こえていた。
店の入り口から見える砂浜をバックにして現れたその人はあまりにも幻想的に見えて、思わず私は息を飲んで見惚れてしまっていた。
だけど何故か私は、その雰囲気に既視感を覚えていた。そこにいるはずなのに、まるでいないかのような存在。自分からはなかなか進んでいけない、そんな弱さを持った人……
そうか、昔の私なんだ。この人は変わる前の私とよく似ているんだ。
そんなふうに感じてしまうと少し申し訳ない気もするけど、あの何も出来なかった自分。前に進めなかった自分。そんな弱々しい自分と同じような雰囲気を持っている。
でも、どうしてだろう。それを抜きにしても、この人とは初めて会った気がしない。どこかで会ったような……それもつい最近のような……
「あ、あの……?」
と、思わず見惚れて思考モードに入っていた私は、その声でやっと我に帰ることが出来た。今はバイト中で、彼女はお客様。ボーっとしてる場合ではなかった。
「す、すいません。いらっしゃいませ。えと、こちらへどうぞ」
なんとか取り繕いながら笑顔で案内する。
他のお客もいないことだし、カウンターに近い席を勧めた。普段から私は客が少ないときにはカウンター近くの席に案内する。何故かというと、ユウが料理を作っているのが見えるし距離が近いとコミュニケーションも取り易いからだ。客側からしてみれば、料理を作っているところが見えるというのは実はポイントが高い。それは工程が見えるという安心感があるからだ。見えないとところで何を入れられてるかわからない料理よりかは、目の前で作ってもらえる料理のほうが嬉しいし食欲もそそられる。
あとはせっかくのお客さんだ。ただ静かに食べてもらうのも確かにありなんだけれど、ここに来たのも何かの縁。コミュニケーションが取れるならば是非取りたい、というのがここの料理人であるユウの言だった。「料理の感想も気になるしね……」っと、ポロっと本音をこぼしたりもしていたが。
そのユウはというと、今は休憩中で家の中のほうへと引っ込んでいる。客が来たら呼ぶように言われているので、すぐに呼びに行かなくちゃ。
「ありがとうございます」
案内した彼女は微笑とともに丁寧にも軽くお辞儀をしてくれた。
こちらも頭を下げ返してから、暖かいお茶を用意してメニューと共に持っていく。
さすがにお茶はポットに入れておいた作り置きだ。こんな寒い日にせっかく来てくれたお客さんに一時でも早く暖をとってもらいたいという、これもユウの言だった。その考えには私も多いに賛成している。
といっても、私は結局自分が客になったときにどうされたら嬉しいか、を考えているだけだけども。
「はい、どうぞ。今料理人呼んできますので、ちょっと待っててくださいね」
「あ、はい。ありがとうございます」
とても丁寧な人だ。私より年下に見えるのに、こんなに礼儀正しくて落ち着いた子は見たことがない。
やっぱり会ったことがあるような気がするのは気のせいだろう、と自分の中で片付けて、私はお目当ての人を呼びに店から繋がる家の中へと少し大きめの声をかけた。
「ユウ、お客さんだよ~」
「あ、は~い。すぐ行くよ~」
返事は1秒もしないうちに帰ってきた。たぶんすでに気配で気づいていて、こっちに来る用意していたんじゃないかと思う。「客商売をしてると、そういうのに鋭くなるんだよ」とこれまたユウの言。なんだか今日はユウの言葉ばっかり思い出してる気がする。すっかり私もユウに影響されてしまったみたいだな。
そうこうしてると、ユウはすぐにやってきた。この寒さでも、夏の頃とあまり変わらない軽装。お店の中は暖房が効いてるのでそれで大丈夫なのはわかるけど、とても季節感を台無しにしている。一応海の店なんだからそれでいいような気もするけど……
「いらっしゃいませ」
そんなことを気にしたふうもなく、ユウはいつものカウンターのところまでお客さんに挨拶をした。
「ってあれ、サクラちゃん」
そしてその直後に、なんだか間の抜けた顔になる。
どうやらこの物静かな彼女は、ユウの知り合いらしい。
「こんにちは、お久しぶりだね。ユウくん」
と、控えめな笑顔で彼女――サクラちゃん? が言う。もしかしたら控えめに見える笑顔も、彼女にとっては普通の笑顔なのかもしれない。ますます昔の私を重ねてしまう。
「友だち?」
「うん」
ユウはあっさり頷いて言う。
「僕の高校の同級生のサクラちゃん」
とりあえずお決まりの説明の後、私にわかる説明をするためにユウはもう一言付け加える。
「モミジさんの妹だよ」
「あっ」
そう言われて、やっといろいろ繋がった。どこかで見たことあるのも当たり前だ。雰囲気の正反対さにまったく思い当たらなかったけれども、このサクラちゃんは外見だけならモミジさんとものすごく似ているんだ。
しかし、雰囲気ひとつでここまで印象が変わるものなんだな。
いやきっと、モミジさんから見た私もそうだったんだろう。例え髪の毛をショートにし、眼鏡をはずしてコンタクトにしたところで、整形して顔の造形を変えたわけでもない。あんなに驚かれるほどのものではないはずだ。だけど実際はあの反応。人の纏う雰囲気というのはそこまで重要なものだとは、自分が体験してみてはじめて今理解できた。
「どうも、はじめまして、サキさん」
そんなことを考える私の視線に気づいて、サクラちゃんはこれまた礼儀正しく頭を下げてくれた。
って、あれ? 私、まだ名前名乗ってないよね?
「こちらこそはじめまして。えっと、サクラちゃん、でいいのかな?」
とりあえず初めてだから「さん」付けで呼ぶべきか、モミジさんの妹なら「ちゃん」付けでいいかな、とか細かいことで悩みつつ、結局私は後者を選んだ。
「はい、それで大丈夫ですよ」
と、また控えめな笑顔をひとつ。
本当に正反対の姉妹だなと思った。モミジさんが大輪の薔薇だとするならば、サクラちゃんは道端で健気に咲く蒲公英だ。姉は激しく、妹は穏やかで……それにしても、モミジさんが薔薇は言いすぎか。
せめてラフレシア……こんなこと言うと、大目玉を食らいそうなのでやめておくことにする。
「私のこと、モミジさんから聞いていたのかな?」
名前を知っていた理由はそれ以外に思い当たらないので正直に聞くことにしてみた。むしろ、それ以外の理由があったら怖いなぁ、と思う。
その問いに対してサクラちゃんはゆっくりと頷いた。
「はい」
そればかりか、とても予想しなかったことまで付け加えてきた。
「話を聞いて……今日はサキさんに会いにきたんです」
そこにはとても真摯な瞳をして、決意の色が浮かんでいた。
「私……に?」
いったいどんな話が……?
少なくとも私はサクラちゃんのことは何も知らない。モミジさんの妹だと今はじめて知った。そもそも、モミジさんに妹がいること自体、以前のケイくんの話で知ったところだ。
そんな彼女が私に何か大事な話がある。言われなくてもそれが十分に伝わってくる。そんな強さを持った瞳だった。
「はい」
ならば私も心して聞かなければならないと思う。
こんな日にわざわざ見知らぬ私を訪ねてくるだけの理由がある話なんだから。
そしてこの穏やかな少女が、そこまで強く心を決めたものだろうから。
「っと、それなら僕は二人用に珈琲でも淹れてこようか。サキは休憩に入っていいから、サクラちゃんの話聞いてていいよ。こんな日に来る客なんて、よっぽど奇特な人しかいないだろうしね~」
「あー、ユウくんひどい。それじゃ私が奇特な人みたいじゃない!」
口を挟まずに成り行きを見て、軽口で気を利かせてくれたユウに、わざとらしくぷーっと頬を膨らませるサクラちゃん。彼女はこんな可愛い表情も持っている子なんだね。
「あ、ありがと。ユウ」
その何気ない気遣いが何故かくすぐったい。それとともにこんな時だけど、久しぶりにまたユウの珈琲が飲めることが嬉しくて、思わず口元が綻んでしまった。
そしてその変化はしっかりとサクラちゃんに見られていたようだ。
「ふふ、ユウくんの珈琲、とてもおいしいですよね。私も大好きです」
見ればサクラちゃんもとても嬉しそうだ。どうやら考えていることは私とまったく同じだったみたいで……なんだか照れくさくなってしまった。
「そうだね。私も大好きだな」
無理に隠すこともない。私は素直に認めて、それから「ここいい?」と確認しつつサクラちゃんの隣の椅子に腰を下ろした。
それからサクラちゃんをもう一度じっくりと見る。
どこまでも穏やかで儚げな雰囲気を纏った彼女は、とても美しい。モミジさんはフランス人形的な美しさだけど、サクラちゃんは根っから日本人形のような美人さんだ。その黒髪の艶やかさ、とても落ち着いた物腰、御しとやかな仕草。着物を着せたら絵になりそうで少し羨ましい。
「改めて、初めまして。お姉さん……モミジさんの同級生のサキです」
自分で名乗っていなかったことを思い出し、もう一度「はじめまして」のやり直しをすることにした。
「初めまして。姉がお世話になったみたいで……モミジの妹のサクラです」
サクラちゃんももう一度礼儀正しくお辞儀をして、自分から名前を名乗った。
「今日はサキさんに伝えたいことがあって、訪ねさせてもらいました」
この11月の冷え込んだ寒空の日。
風も強く窓が軋む。
そんな音に少し気を取られながらも、私はサクラちゃんの声に集中する。
「私は大学でサークルをやっていたんですが、そこで一人の先輩と出会いました」
ヒューっと風が音をたてて流れていく。
季節外れの台風でもやってきているかのような風の悲鳴。
そしてサクラちゃんが次の言葉を紡ぐ。
「その先輩の名前は……ムツキさんと言いました」
ガタン。
風が一際強く凪いだ。家全体が少し揺れる。もうすぐ雨模様にもなりそうだ。
そこで私はようやくサクラちゃんが何故ここに来たのかを理解することが出来たのだった。