【 1 】
大恋愛の果てに駆け落ち同然で結婚した妻との夫婦生活も、かれこれ十年目を過ぎたあたりから世間一般で言うところの倦怠期というやつにさしかかったらしい。付き合いはじめたころ胸に抱いていたとろりんと身もとろけるような恋慕の情は、自動車のタイヤがすり減ってゆくように日々の暮らしに削り取られ、後には諦念とでもいうべき倦んだ心だけが残った。お互いに相手のことを魅力的な異性だと感じなくなり、会話も極端に減り、今では相手がそばにいるだけで空気さえも薄くなった気がして、どうにも息が詰まる。
妻との間にはまだ子が無かったため、月に一回くらいは半ば義務的に、機械的に宗教の儀式めいた◯◯◯◯をしないこともないが、はっきり言って体力を摩耗するだけで全く快感を得られないし、ある意味苦痛ですらある。それでも離婚を考えないのは、お互いのことを必要不可欠な仕事のパートナーだと認識しているせいだろう。私は文筆を生業としていて、一方の妻は絵描きである。二人合わせて絵本作家としてのペンネームを持ち、有り難いことにその名前はそこそこ世間に知られていた。ただあくまでも二人一組であって、私には独立した作家として食べてゆく自信はないし、どうやらそれは妻も同じのようである。
そんな悶々とした日々を送っていた、とある日曜の午後、リビングのソファーへだらしなく身をあずけ買ったばかりの文芸誌を繰っていると、ダージリンティを二つトレイに乗せて妻がやって来た。私の横へ腰をおろし、ねえ、と甘えた声を出す。
はてさて、今日は月に一度の◯◯◯◯をする日だったろうか……などと、まるで掃除当番を押しつけられた小学生みたいにやるせない心境でため息をついていると、彼女は私に向かって総ページ数が二十ページほどのカラー刷りのカタログを差し出した。
「ちょっとこれ見て欲しいんだけど……」
「おや、なんですか――家具でも新調したいのですか?」
「違うのよ、お隣の大河内さんの奥さんから借りてきたの。アダルトグッズの通信販売用カタログなんですってよ」
「アダルトグッズ?」
私はいぶかしみながらも、そのカタログを手に取って眺めた。表紙には「あくなき性への欲望を科学する」と、なにやら胡散臭いキャッチコピーが銘打ってある。
「ほほう、お隣の大河内さんが……これをねえ」
隣家の豪邸に二人きりで暮らしているという大河内家の、ブルドッグとコビトカバを足して二で割ったようなもの凄い容貌の奥さんと、有名妖怪漫画家が描く老人のお化けそっくりのご主人を思い浮かべ、その二人がアダルトグッズを使用して夜な夜な◯◯◯◯◯◯いる様を想像して、私はぶるっと身震いした。マニキュアの塗られた指先でティーカップを持ち上げながら、妻が言う。
「……あの奥さん、妊娠八ヶ月なんですって」
「ええっ、そうなのかい? ぜんぜん気づかなかったなあ」
ゆうに成人二人分の目方を有するという肥満体の奥さんである。今さらその目方に、胎児の一人や二人や三人や四人、追加されても見た目にさほど変化が生じないのは当然のことと言えよう。それにしてもあの小男のご主人は、いったいどうやって巨漢の妻を抱くのだ……、なにやら妖怪同士の格闘じみた春画の構図を思い浮かべて顔をしかめていると、妻がため息まじりに言った。
「結婚十五年目にして、ようやっと授かった赤ちゃんなんですって、いいわねえ……」
最近とみに目尻のあたりの小じわが目立ちはじめた妻が、気のせいだろうか若干非難のこもった目で私を見上げる。将来自分の生んだ子供に自らが描いた絵本を読んで聞かせるというのが彼女の夢である。そのため結婚して十年を過ぎた今でも不妊治療のためせっせと専門のクリニックへ通う努力を怠らない。一方の私はといえば、造精機能障害などの検査を一通りやり終えたほかは、とりわけ子供を作るための努力などしていなかった。せめて◯◯◯◯の回数でも増やせば良いのだろうが、最近ではその意欲を奮い立たせるだけでも相当なエネルギーを要し、また若干心臓に持病のあるせいでバイアグラなどは怖くて使用できず、どうやら妻は私のそのような消極的態度をずっと不満に思っていたふしがあるのだ。
「ほんと、羨ましいわねえ……」
これはいかん、妻のテンションが下がりはじめている。
某菓子メーカーとのタイアップで出版される予定の絵本の締め切りがもう間近に迫っているのだ。妻は気分屋で、調子の良いときには一夜にして何枚もの絵を仕上げるが、いざ気乗りしないとなると創作に対するモチベーションの低下いちじるしく、作業がまったくはかどらない。おかげで過去に数度、締め切りぎりぎりになっても原稿が上がらず、出版社からのクレームと妻のヒステリーの板挟みになった苦い経験がある。ここは取りあえず真剣に話を聞くふりをして、なんとかこの場を穏便にやり過ごさなければ……。
「どれどれ」
妻がへそを曲げぬよう、さして興味もわかないアダルトグッズのカタログをぱらぱらめくってみせる。すると彼女は、これよこれよ、と言ってあるページを指さし、鼻息を荒くした。
「お隣の奥さんが、これを使ったんですって。そうしたら夜の生活が一変して……」
――男性機能補助器具アダプター・ソケット ”セクサス”
またえらく俗物的な名前だが、肝心の商品の写真がどこにも掲載されていない。代わりに某大学教授のなかば自画自賛めいた開発秘話がえんえん綴られている。もちろんそんなものにさしたる興味もわかないので適当に読み飛ばしたうえで、ほう、と相づちだけ打っておいた。男性機能補助器具などという名称からして、どんな商品なのかおおよその察しはつくのだ。おそらく江戸時代で言うところの肥後芋茎みたいなものだろう。
ケーキ屋のショーウィンドウを覗き込む少女の目をして、妻が言った。
「ねえ、あなた、うちもこれが欲しいなあ」
アダルトグッズなどというものは、往々にしてテレビショッピングで衝動買いした健康器具と同じ末路をたどる。物珍しさから数回使用されはしたものの、すぐに飽きられ押し入れのなかへ放り込まれる運命にあるのだ。ムダ遣いと言えばそれまでだが、しかし今ここで妻を不機嫌にさせるわけにはいかない。まあ仕事を円滑に進めるうえでの必要経費だと考えるしかないだろう。
「いいんじゃないか。君がそんなに試してみたいと言うのなら購入してみれば……」
「まあ嬉しい。じゃあ、さっそくインターネットでリース契約を申し込んでくるわね」
私の手からカタログをつかみ取ると、妻はいそいそとパソコンのある仕事部屋へ姿を消した。リース契約だって……? いったいその商品はいくらするものなんだ。しかし今さら値段を訊くのも気が引けるし、そもそも喜んでいる妻に向かって高いからやっぱり止せとは言えない。まあ大人のオモチャというくらいだからしょせん玩具の域を出ないだろう、とムリヤリ自分を納得させ、それ以上は深く考えないことにした。
それから一週間後の日曜日。契約した商品がいよいよ配達されてくる日である。
その日、妻は朝からそわそわして床の間に花を活けたり寝室のベッドカバーを一新したりと終始落ち着かない様子でいたが、しまいには美容院へ行くと言って家を出たきり戻らなかった。おかげで私はせっかくの休日だというのに心身の休まる気がせず、やたらタバコばかりふかしては、今か今かと商品の到着を待ちわびていた。
夕方近くになってようやくドアチャイムが鳴り、私は読みかけの夕刊を放り出して立ち上がった。ちなみに妻はまだ戻っていない。
「はあい、今行きますよ」
商品が商品なだけに絶対中身が分からないよう梱包されているはずだが、それでも妙な気恥ずかしさと後ろめたさがあって、私はわざと不機嫌な声で返事をした。印鑑を手に玄関ドアを開ける。すると予想に反して、そこに立っていたのは宅配業者のひとではなく、十五、六才くらいの少年だった。
なんだ荷物が届いたんじゃないのか。
少し拍子抜けしたが、それと同時に少年のあまりの美しさに目を奪われた。髪型や服装でかろうじて性別を判断できるが、じつは少女だと言われても疑いようのないくらい可憐で美しい顔立ちをしていたのである。
「……や、やあ、うちになんの用かね?」
少しどぎまぎしながらそう訊ねると、彼は丁寧におじぎをしながらこう言った。
「このたびはご注文くださり、まことにありがとうございます。わたくし、セクサス六号と申します」
私の手から印鑑がすべり落ち、ころころと玄関の三和土を転がった。
折しも沈みかける夕日が雲の片鱗を赤く染めながら、後光のように射し込んで少年のたたずむシルエットをくっきりと浮かび上がらせていた。私はといえば、ただ阿呆のように口をぽかんと開けたまま、その神々しい姿をいつまでも眺めていた……。